* 享楽のデフレーション
精神分析の創始者であるジークムント・フロイトは人の中に内在する根源的衝迫を「欲動」と規定しました。そして、フランスの精神分析医ジャック・ラカンはその欲動の満足状態を「享楽」と呼びました。
もっとも欲動はその性質上、完全な「満足」ということはあり得ません。もしもあるとすれば、欲動がその活動を完全に停止した時だけでしょう。それゆえに欲動の本質は「死の欲動」であり、享楽とは不可能だからこそ甘美なまでに破滅的なのです。
こうしてラカンのいう「享楽」とはそもそもの意味では「不可能」と同義でした。人の欲望や神経症、あるいは様々な芸術的創作やイノベーションはこうした「不可能」の関数として産み出されるわけです。
ところが1970年以降の消費化/情報化社会の進行は享楽の性質に変化をもたらします。それは端的に言えば享楽のデフレーションです。享楽とはもはや「禁じられた遊び」ではなく「押し売られる商品」へと変わっていきます。
* 〈もの〉の享楽から剰余享楽へ
ラカンがまず最初に想定したオリジナルの享楽は「〈もの〉の享楽」と呼ばれるものです。ラカンはセミネールZ「精神分析の倫理(1959〜1960)」において〈もの〉の概念を取り上げます。
〈もの〉とは、外界からの刺激を受けた心的装置がその翻訳過程で決定的に取り逃がした象徴化不能な何かです。

心的装置に記録できるものはシニフィアンに変換可能なものだけです。こうしてシニフィアンから〈もの〉が切り離させる事で「欲望」が構成されます。目前のシニフィアンの壁さえ乗り越えればそこには快楽原理の彼岸という桃源郷があるのではないかというファンタジーが生じるからです。
その後、ラカンはシニフィアンの間隙を縫って出現してくる〈もの〉のごとき断片を「対象 a 」という概念で捉えるようになります。そしてセミネールⅪ「精神分析の四基本概念(1964)」においては「疎外と分離」の図式により、シニフィアンの枠組みの中での対象 a の位置が明らかになります。

けれども、ここでも享楽とはあくまで〈もの〉の側にあり、シニフィアンの世界からは対象 a を通じて辛うじて「侵犯」することができるものとして捉えられていました。
ところが、ラカンは1960年代後半から、ディスクールの理論を導入する事で、享楽とはむしろシニフィアンという装置により「生産」されるものとして捉えます。
すなわち、シニフィアンの導入は、主体に〈もの〉の享楽を禁止すると同時に、新たな別の享楽の可能性を与えることになります。この別の享楽を「剰余享楽」といいます。
* plus-de-jouirの二面性
セミネールXVI「ある〈他者〉から他者へ(1968〜1969)」において、ラカンはカール・マルクスの剰余価値説の読解を通じ、剰余享楽の概念を導きだします。
マルクスによれば、一つの商品に使用価値と交換価値という二つの価値があります。使用価値は例えば小麦を焼いてパンにして食べるような時に問題となります。他方で交換価値はその小麦を布地と交換するような時に問題になります。
ここで一定の小麦=一定の布地の交換が成り立つのは、両者の労働量が等価とみなされるからです。この労働量を具体的/一般的に表したものが貨幣です。
ところで商品の中には特別の性質を有するものがある。それは「労働力」という商品です。
資本家は貨幣と交換で労働力を購入します。労働力を使用すると労働量になります。そしてなぜか労働力の使用価値は交換価値以上の労働量を生み出すことができます。
つまりここに使用価値と交換価値のギャップが発生します。このギャップが「剰余価値」です。これが資本家にとっては利益となり労働者にとっては搾取となります。
ラカンは以上のマルクスの論理をシニフィアンの論理に当てはめ、剰余価値ならぬ剰余享楽と呼ぶものを導き出します。
つまり、人はある満足体験を使用価値(それ自体の反復)ではなく交換価値(シニフィアンの獲得)として使用することで、両者のギャップから剰余享楽が生まれるという論理です。
このように、我々はシニフィアンと関係し主体となった瞬間に「〈もの〉の享楽」を禁じられる同時に剰余享楽の可能性が与えられる。ラカンはその瞬間について「シニフィアンが享楽の装置として導入されるとき、エントロピーに関係する何かが出現する」と述べています。
つまり、剰余享楽(plus-de-jouir)には「喪失=もはや享楽しない(プリユ・ド・ジユイール)」と「回復=もっと享楽する(プリユス・ド・ジユイール)」の二つの側面があります。
* 4つのディスクール
剰余享楽の導入は、シニフィアンと享楽の関係を統合的に捉えることを可能とします。こうした新たな観点からセミネールXVII「精神分析の裏面(1969〜1970年)」において「4つのデイスクール」の理論が展開されます。主人のディスクール、大学のディスクール、ヒステリー者のディスクール、分析家のディスクールです。

主人のディスクールにおいては、主人(S1)が奴隷(S2)に労働させることで、剰余享楽( a )が産出され、欲望の主体($)が成立する。
大学のディスクールにおいては、教師(S2)が学生( a )を教導する事で、疎外の主体($)が産出され、主人(S1)が温存される。
ヒステリー者のディスクールにおいては、神経症者($)が主人(S1)を問い詰める事で、知(S2)が産出され、剰余享楽( a )が隠蔽される。
分析家のディスクールにおいては、分析家( a )が分析主体($)の発話の意味を切る事で、主体的差異を示すシニフィアン(S1)が産出され、知(S2)が想定される。
ディスクールの理論が示しているのは、ある社会的紐帯によって何が産み出され、結果、何が真理とされるのかという一つの構造です。これは1968年の5月革命における「構造は街頭に繰り出さない」というアジテーションに対するラカンからの反論でもあります。
* ジュイッサンスからエンジョイメントへ
そしてさらに1972年、ラカンは「新しい主人のディスクール」と言うべき「資本主義のディスクール」を提出します。

資本主義のディスクールにおいては主体と対象 a は遮蔽線ではなく実線で結ばれています。つまり、ここでは剰余享楽の「喪失」なき「回復」が生じていることになります。
高度に消費化/情報化された資本主義システムの下では、人々の要求は、速やかに統計学的処理によりデータベース化され、その最適解は新製品や新サービスとして次々と市場に供給されます。結果、人々は「もっと享楽できる/しなければならない」という歪んだ幻想を生きることになります。
資本主義のディスクールは人の欲望を搾取します。主体の要求が速やかに最適化されて満たされる以上、欲望の弁証法化が起きないからです。いうまでもなく欲望とは生のリアリティの根幹をなすものです。新型うつ病やパーソナリティ障害といった現代的病理はこうした文脈からも理解できるでしょう。
こうしていまや享楽は不可能なジュイッサンスから計量可能なエンジョイメントへと変容し、資本主義のディスクールに無自覚でいる限り、我々はただわけもわからず享楽させられる消費者として、資本主義システムという回し車を回し続けるネズミのような人生を送る事になるわけです。
* 〈幸福の原層/単純な至福〉を自在に見い出していくということ
ラカンは精神分析を「資本主義からの出口」として位置づけます。確かに分析家のディスクールは資本主義のディスクールと共通する特徴を一切持っていません。そして精神分析とは主体の絶対的差異を示す特異的/単独的享楽を目指す営みであり、そこには必然的に欲望の主体を奪還する契機が内在されています。
すなわち、資本主義のディスクールを内破する鍵は、分析家のディスクールの中にあります。
この点、ラカンは分析家のディスクールにおいて、分析家が対象 a の位置を占めることで、分析主体は構造の中における自らの位置を問い直すことが可能となるといいます。
構造の中における自らの位置を問い直す。こうした意味では、分析家のディスクールは精神分析の臨床そのものに限らず、その断片ならば日々の生活空間の至る所に現れてくるという言い方もできるでしょう。
例えば、社会学者の見田宗介氏は、現代において人が生のリアリティを獲得する上で重要なのは、経済成長による物理的富の増大以上に、物、他者、自然といった周囲の環境との交歓を通じた〈幸福の原層/単純な至福〉を自在に見い出していける「幸福感受性」であると言います。
ここでいう〈幸福の原層/単純な至福〉とは他ならぬ対象 a です。つまり、それこそありふれた日常の中に自らの特異的/単独的な瞬間である「いま、ここ」を見いだしていく「洗練された幸福の感性」こそが現代的な成熟観であり、幸せの在り処であるということです。
享楽のバーゲンセールの中で我々はせめて賢い消費者であらねばならない。そこで求められるのはまさに欲望に対して譲らないという倫理です。つまり問題は我々が構造の中における自らの位置をいかに自覚的に生きられるかどうかということになります。そこに気づくか気づかないかでパーソナルな現実と生のリアリティは全く違うものになるではないでしょうか。
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