* はじめに
1998年、École de la cause freudienne(フロイト大義学派)において、かのジャック=ラカンの娘婿、ジャック=アラン・ミレールにより「ふつうの精神病」なるカテゴリが提唱されます。ミレールは次のように言います。
精神分析の歴史においては、並外れた精神病に、ほんとうに何もかもぶち壊すような人々に、監視が向けられてきたことは言うまでもない。
シュレーバーがわれわれの間で精神病の「顔」になってどれくらいの時間がたつだろう。ところが、われわれがここで注目しているのはもっと控えめな精神病者たちであり、彼らはあっと驚かせるというのではなく、ある種の凡庸さの中に溶け込んでしまいうる。
代償機能がうまく働いている精神病、サプリメント入りの精神病、発症せざる精神病、加療された精神病、セラピー中の精神病、分析中の精神病、進行しつつある精神病、サントームつきの精神病ーーーそんな言い方ができるだろう。
〜「La psyshose ordinaire,Agalma/Seuil」より
「ふつうの精神病」とはなんでしょうか?従来の精神病とは何が違うのでしょうか?
* 鏡像・エディプス・去勢
まずはおさらいです。ラカン派精神分析においては、人は鏡像段階、エディプス段階、去勢段階を経由することで精神病圏から神経症圏へと遷移するとされています。
鏡像段階とは、生後6ヶ月から18ヶ月の間の時期の乳幼児が鏡を見て自我を獲得するという発達段階概念です。鏡像段階においては、依然として自己統一感を与えうるほど神経系が発達していないにもかかわらず、自我や自己身体像が形成されると言われています。
次いで、エディプス段階において子どもと〈母親〉の二者関係に〈父親〉が第三項として介入してきます。そして、去勢段階において、子どもは〈父の名〉を受け入れることでファルス機能を授かります。これがラカン派的「正常な」発達段階論ということになります。
* 従来型精神病〜並外れた精神病
〈父の名〉とは、現前不在を繰り返す「母の欲望」を置き換えることで象徴界を統御するシニフィアンです。そして、ファルスとは、異性愛を可能とし現実感を獲得する為のシニフィアンです。
つまり、エディプス段階を経由できていない場合、〈父の名〉が排除されており、ファルスも機能していないわけです。
結果、現実感や自明性の喪失に晒され、異性愛を築く上でも困難を抱えることになる。これが精神病圏です。
発病前の精神病圏者とは3本足でかろうじて安定しているテーブルのようなもので、欠けている4本目の足こそが〈父の名〉です。この〈父の名〉の参照エラーにより、3本足のテーブルが引っくり返った段階がまさに精神病発症の時です。
この時、主体は「ひそやかな圧倒」により前鏡像段階への退行が生じ身体寸断状態となり、一方で排除された〈父の名〉は外部から幻覚として回帰してきます。
もっとも精神病の中でも比較的軽症のパラノイアの場合「ひそやかな圧倒」に対し妄想が防波堤として機能することで前鏡像段階への退行を免れ、一応の人格レベルはある程度は維持されます。
* 症例シュレーバー
有名なパラノイアの症例として、いわゆる「症例シュレーバー」があります。ダニエル・パウル・シュレーバーという人は19世紀末の法律家で、1893年、ドレスデン控訴院長に昇進した直後に精神病を発病させています。
精神病を発症させてからも、シュレーバーは知能に障害なく意識は清明で周囲と如才のない会話ができる一方、彼の心的世界は常に病的な妄想に支配されていました。以下、1903年に出版された自身の回想録からの一部引用です。
しかし今や、私が個人的に好むと好まざるとにかかわらず、世界秩序が有無を言わさずに脱男性化を欲していること、そして私には、理性の根拠からして、ひとりの女に変身するという思想に親しむ以外に何も残されていないことが疑う余地もなく私に自覚されたのである。脱男性化のさらなる結果として、当然ながら、新たな人間の創造を目的とする、神の光線による受胎のみが問題となりえた。私は当時まだ私以外の本当の人間というものの存在を信じておらず、私が見た人間の形姿をしたすべての者たちを「束の間に組み立てられた」ものとしかみなしていなかったが、このことによって私の意志の方向の変化は、私にとって楽なものとなった。つまり、脱男性化の中に存在する何がしかの恥辱が問題になり得なかったのである。
〜ダニエル・パウル・シュレーバー「ある神経病者の回想録」より
シュレーバーの妄想というのは要するに、⑴自分は世界を救済し、失われた幸福を再びこの世にもたらすことこそが自分の使命である。⑵そのためには何より、彼が女性に性を転換させ「神の女」にならなければならない、というものです。
シュレーバーの場合「神の女」という妄想を構築することで、精神病の症状をかろうじて制御していたわけです。この場合、ファルス機能の排除を反映する女性化という妄想が、排除された〈父の名〉の代替物として機能することで、現実感が回帰している図式になります。
* 「ふつうの精神病」の前景化
ところが近年になると、こうしたシュレーバー的な華々しい妄想を持つパラノイア患者は影を潜めていく一方で、妄想らしい妄想、幻覚らしい幻覚を持たず、さりとて神経症的葛藤も持たないという奇妙な症候を持つ患者群が前景化してきます。
こういった一群の症例を暫定的にカテゴライズする為「ふつうの精神病」というネーミングが考案されたわけです。精神分析の予備面接において、神経症であるという確たる決め手がなく「ふつうの精神病」の特徴が見られる場合、寝椅子に寝かせて自由連想をさせることを控えるべきであるとミレールは言います。
* 「ふつうの精神病」の臨床
「ふつうの精神病」の主体はシュレーバーのように華々しい妄想や奇抜な行動を示す代わりに、社会的、身体的、主体的といったものの外部へと「脱接続」するという特徴があります。
「ふつうの精神病」の臨床的特徴として、子どもの精神病のための精神分析的治療相談施設「クルティル」をブリュッセルに立ち上げたアレクサンドル・ステヴェンスの次のような5つの指標を挙げています。
⑴ 想像的同一化に基づく社会的紐帯の調節
神経症の場合、社会的役割は象徴的同一化、すなわち「〜という役割は本来こうあるべきだ」という言語によって規定されたものへの同一化を介して引き受けられますが、「ふつうの精神病」の場合、社会的役割はおよそ想像的同一化、すなわち「あの人があるいは、みんながこうしているから自分もこうしなければならない」という自分と等しいと看做される想像的他者への同一化によって果たされます。
このことが「ふつうの精神病」の主体が社会関係から切断されやすい要因となります。安定した社会的機能を持続的に果たすことが得意でないことが、「ふつうの精神病」の主体が定職を持たない、あるいは持てない一因として考えられます。反対に職場に過剰に同一化する形式での「ふつうの精神病」もありえます。この場合職を失うことが発病の契機になるわけです。
⑵ 主体の内的生(内面的生活)における空虚感
「ふつうの精神病」では独特の空虚感、具体的には「身体境界の曖昧さ」「身体的現実感」の希薄さが見られます。なお「ふつうの精神病」の主体にとって性関係はエロティックなものにならないばかりか、しばし迫害的性格を持つことが一般的であると言われます。性行為は多くの場合、快楽を伴わず、却って破壊的な効果(気分や私生活の混乱)をもたらします。けれどもそれは、主体がもともと抱えているこうした空虚感を補う意味合いを持つことがあります。
⑶ ある種の身体現象
これは器質的障害とは明らかに異なる、奇妙な説明のつかない痛みや違和感のことです。「ふつうの精神病」では身体に自己が接続されずズレを孕み、自己の身体が崩れ落ちるような体験が見られます。そこでタトゥーを彫るといった対処行動に出たりするわけです。
⑷ 様々な形を取る彷徨い
「彷徨い」とは実際に該当を彷徨うこともありますし、内面的な彷徨いとして現れる場合もあります。精神病を患っているホームレスも少なくなく、また薬物やアルコールなどの依存症に伴う彷徨いは精神病のサインである場合が多いと言われます。
⑸ 象徴界のポワン・ド・キャピトンに見られる奇妙さ
ポワン・ド・キャピトンとは「言語を通じて把握される出来事の連鎖を適当に区切り、ひとまとめに理解することを可能とする知的枠組み」のことを言います。
ステヴェンスが取り挙げているのは、薬物依存から回復して「クリーン」になった男性のケースです。彼は完全にドラッグから足を洗ったにも関わらず、ある日施設にドラッグを持ち帰った。どういうことかというと、彼はドラッグを買いに出かける別の患者をみて、その人が犯罪から「クリーン」でいられるようにと、代わりにドラッグを買い求めたということです。
* 「ふつうの精神病」とサントーム
「ふつうの精神病」についてはラカンが最晩年に示したサントームの理論で説明可能でしょう。
サントームとはボロメオの解けをつなぎとめる〈父の名〉に代替する第四の輪のことです。いわゆる「症状」が言語の次元を孕む象徴的な症状だとすれば、サントームは享楽の側面を孕む現実的な症状に当たります。前者が象徴的無意識(S1→S2)の観点から症状を捉えるのに対して、後者は現実的無意識(S1)の観点から症状を捉えようとしています。
主体がボロメオの輪の解体を防ぐために無意識的に作り上げるサントームは「主体の真の固有名」にあたり、そこには各々の主体において異なる特異的/単独的/自体性愛的な享楽のモードが刻み込まれていると考えられています。サントームの例はタトゥー、ボディーピアス、その他インターネット世界への没入、発表する予定のない小説や曲作りへの没頭など様々です。
つまり「ふつうの精神病」とは、ボロメオの環を解体し前鏡像段階にまで押しもどそうとする精神病的力動と、各人が生み出した自体性愛的なサントームが拮抗している状態をいうわけです。
サントームの理論には〈父の名〉の失墜した現代ポストモダン社会の様々な病理を解明するヒントがあると思います。例えばソーシャルゲームへの廃課金や、ブラック企業にしがみ付くと言った病理的とも言える行動もある種のサントームとして説明できる場合があるのではないでしょうか。
露出せよ、と現代文明は言う: 「心の闇」の喪失と精神分析
posted with amazlet at 19.01.30
立木 康介
河出書房新社
売り上げランキング: 378,546
河出書房新社
売り上げランキング: 378,546