【参考リンク】 ラカン派精神分析の基本用語集

2018年10月31日

自己の修復とゼロ年代の想像力、あるいは「かがみの孤城」



* 鏡映・理想・双子

自己愛性パーソナリティ障害の研究で著名なアメリカの精神科医、ハインツ・コフートは、人が自らの「パーソナルな現実」を成らしめている源泉を「自己」といいます。

コフートによれば自己の中心(中核自己)は「野心の極」と「理想の極」から二つの極から成り立つ構造を持っているという。

子どもは「野心の極」により生じる「認められたい」という動機に駆り立てられ、「理想の極」により生じる「こうなりたい」という目標に導かれることで、初めて健全な成長が生じるということです。

この「野心の極」と「理想の極」を確立させるに不可欠な要素、これが「自己対象」です。

自己対象とは自己の一部として体験される人や物といった対象をいいます。

「野心の極」を確立させるのは賞賛や承認を与えてくれる自己対象です。これを「鏡映自己対象」という。「理想の極」を確立させるのは生きる目標や道標を与えてくれる自己対象です。これを「理想化自己対象」という。

こうした「自己対象」に恵まれなければ人は不安に満ちて傷つきやすく尊大な人間になってしまう。つまり健全な「自己」を確立するには「自己対象」の存在が必要不可欠ということになります。

さらに、コフートは晩年、鏡映自己対象・理想化自己対象とは別の第三の自己対象の存在を指摘する。これが「双子自己対象」と呼ばれるものです。

双子自己対象は、野心の極から理想の極へ至る緊張弓に生じる「技倆と才能の中間領域」を活性化させる作用を持つ「私もあの人も同じ境遇の人間なんだ」と実感させてくれる自己対象です。

つまりコフートのいう、健全な「自己」とは、「鏡映自己対象」により「野心の極」が確立し、「理想化自己対象」により「理想の極」が確立し、「双子自己対象」によって「技倆と才能の中間領域」が活性化する事で成り立つものだといういうことである。

逆にいうと、これらの三極が機能不全に陥る事で「自己の断片化」が起こり、結果、数々の精神疾患が生じてくるということです。

つまり「病んだ心を治療する」という事は、治療者が患者の自己対象になる事で、患者の断片化した自己を修復し、再び構造化させると同時に、治療者以外の他者を自己対象として上手に依存していく術を学んで貰う過程に他ならない。

* ポストモダン状況下における文化的想像力の変遷

こういったコフートの「自己の修復」というプロセスは、ポストモダン状況下における文化的想像力の変遷にも当てはまると思います。

ポストモダンとは「大きな物語」が機能しなくなった社会状況をいいます。ここでいう 「大きな物語」というのは「正しさ」について社会全体が共有するイデオロギーです。

日本の場合、阪神大震災が起きた1995年前後辺りが、ポストモダン状況の進行という点において重要な節目であると言われています。

一方で平成不況の長期化がジャパン・アズ・ナンバーワンの経済成長神話を崩壊させ、他方でオウム真理教による地下鉄サリン事件が若年世代の「生きづらさ」の問題を前景化させた。結果、90年代後半は戦後史上最も社会的自己実現への信頼が低下した時代となるわけです。

つまり「大きな物語」の失墜という価値観の転換が起きた事で、社会的レベルで「自己の断片化」が起きているわけです。

こうして「大きな物語」が失墜した現代においては、各個人はそれぞれが「小さな物語」を選択して生きて行かざるを得なくなるわけです。

すなわち、文化的想像力の変遷とは、個人がどのような「小さな物語」をどのように選択し、そこでどのように生きて行くかという態度の問題に他なりません。

この点、宇野常寛氏は「ゼロ年代の想像力」おいて、以下のような文化的想像力の変遷を示しています。

⑴ 引きこもり/心理主義

まず、何が正しいのかわからなくなった時代において、最もわかりやすい「小さな物語」は「何が正しいのかわからないから、とりあえず引きこもる」ということです。

つまり、他者を拒絶し「母親的承認」による全能感の下で生き延びるという態度です。こういった態度を「引きこもり/心理主義」と呼びます。ここでいう「母親的承認」は「鏡映自己対象」に相当します。

95年に放映された「新世紀エヴァンゲリオン」で描かれる「人類補完計画」の後景にある思想はまさに「何が正しいのかわからないので、だれかを傷つけるくらいなら何もしないで引きこもる」という「引きこもり/心理主義」的態度に他ならなりません。

これに対し、97年に公開されたエヴァ劇場版「Air / まごころを、君に」においてシンジはアスカに「キモチワルイ」と拒絶されるあの有名なラストは、上記の「引きこもり/心理主義」を解毒するための一つの処方箋でもあったわけです。

けれどもエヴァ劇場版の示す回答は当時においてはあまりにも時代を先取りしすぎしており、TV版の結末に共感した「エヴァの子供達」から拒絶され「引きこもり/心理主義」的想像力を色濃く引き継いでいる作品群が一世を風靡する。

このような想像力が色濃く現れている作品群を「セカイ系」といいます。典型的な「セカイ系」の作品として「最終兵器彼女」「ほしのこえ」「イリヤの空、UFOの夏」などが挙げられます。

セカイ系においては「ヒロインからの承認」が「社会的承認」を通り越して「世界からの承認」と直結関係となっているわけです。別言すればセカイ系とは「アスカにキモチワルイと言われないエヴァ」であるということです。

⑵ 決断主義

ところがゼロ年代に入り、上記のような「引きこもり/心理主義」モードは徐々に解除されていくことになる。

2001年9月11日に発生した米同時多発テロ、小泉構造改革路線により格差社会拡大といった社会情勢を受けて、「何が正しいのかわからないが、このまま引きこもっていては殺される」という新しい想像力が台頭して来ることになる。

つまり、他者を傷つけることを厭わず、何がしかの「中心的価値感」を「小さな物語」として、あえて自己責任で選び取り生き延びるという態度です。こうした態度を「決断主義」と呼びます。ここでいう「中心的価値観」は「理想化自己対象」に相当します。

現代において我々は不可避的に決断主義者とならざるを得ない。まさに正義無き時代に正義を執行するという矛盾を抱えて生きていくわけです。

このような想像力が色濃く現れている作品群を「サヴァイブ系」といいます。典型的な「サヴァイブ系」の作品として「DEATH NOTE」「コードギアス・反逆のルルーシュ」などが挙げられます。

⑶ 決断主義の克服としての次世代の想像力

以上のように「大きな物語」無き現代においては人は誰もが「大きな非物語=データベース」から自分好みの「小さな物語」を自身で生成し、「無自覚的」に、あるいは「あえて」特定の価値観を選択している。決断主義とは、このようなメタレベルで複数の「小さな物語」が乱立する動員ゲーム的状況をいうわけです。

では「決断主義」はいかに乗り越えられるのでしょうか?この点、宇野氏はひとつのキーワードとして「コミュニケーション」をあげています。

すなわち、異なる「小さな物語」を生きる他者と、どのように「コミュニケーション」して繋がっていくかという問題が「決断主義の克服としての次世代の想像力」を語る上で重要な鍵となるわけです。ここでいう「他者」こそ、まさに「双子自己対象」です。


* 次世代の想像力の到達点としての「かがみの孤城」



かがみの孤城
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辻村 深月
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本年の本屋大賞受賞作「かがみの孤城」は、アニメ的/ゲーム的リアリズムによる世界観を持ちつつ、現代の子供達が抱える様々な「生きづらさ」を瑞々しい文体で紡いでいく物語です。

同時に、本作では「決断主義の克服としての次世代の想像力」のひとつの到達点が示されているといっても過言ではないと思います。

本作のあらすじはこうです。中学生の少女、安西こころは中学入学後まもなくして、とある些細なきっかけから学校での居場所をなくし、家に引きこもることを余儀なくされる。そんなある日、突然、こころの部屋の鏡が不思議な光を放ち始める。鏡をくぐり抜けた先には、まさにアニメやゲームに出てくるファンタスティックなお城のような不思議な建物があった。そこにはちょうど、こころと同じような境遇の7人の子供達が集められていた。

そして、7人を集めた城の主である「オオカミさま」は次のように宣う。

お前たちは今日から三月まで、この城の中で”願いの部屋”に入る鍵探しをしてもらう。見つけたヤツ一人だけが、扉を開けて願いを叶える権利がある。

(辻村深月「かがみの孤城」より)


要するに、外の世界に居場所を失った子供達が、外界から隔絶された孤城というゆりかごの中で、願いが叶う鍵というアイテムを争奪するという基本設定があるわけです。ここでは「大きな物語」の失墜から「引きこもり/心理主義」を経て「決断主義」へと至る想像力の遷移の流れが見事にトレースされています。

ではここから暴力と謀略に満ちた血みどろのバトルロワイヤルが展開されるのかというと、そうはならない。

一応、各々それなりに鍵探しはするんですが、別に血眼になって探すというわけでもなく、むしろ、ゲームをしたりお茶会をしたりと、多少の人間関係の軋轢はありつつも、基本的にはゆるゆるとした日常が三月まで過ぎていく。

こうした過程の中で彼らは、この城で皆と過ごす時間は鍵探し以上にかけがえのないものであり、お互いが「助け合える存在」であるということに自ずと気付いていく。

つまり、異なる「小さな物語」を生きる「他者=双子自己対象」とのつながりにこそ、代え難い価値があるという「決断主義の克服としての次世代の想像力」がここでは示されているわけです。

物語終盤における、こころの次のような心情の吐露は、この感覚を悲壮なまでによく表しています。

この一年近く、ここで過ごしたこと。友達ができたことはは、これから先もこころを支えてくれる。私は、友達がいないわけじゃない。この先一生、たとえ誰とも友達になれなかったとしても、私には友達がいたこともあるんだと、そう思って生きていくことができる。

(辻村深月「かがみの孤城」より)


最後、7人のうちの1人が決断主義的に「ルール破り」をして「オオカミさま」に食べられるんですが、結局、その子は皆から手を差し伸べられ、救われます。そしてその子は今度を皆を救う側に回って生きていく。こうして物語は様々な余韻を含ませつつ、静かに幕を閉じます。

* おわりに

このように、想像力のパラダイムの変遷とは「大きな物語」が失墜した社会において、人々が傷ついた「自己」を修復していく過程であり、我々が人生において経験する「他者」との関係性の在り方そのものを示しているわけです。

いずれにせよもはや「大きな物語」が「〈他者〉の承認」や「生きる意味」を与えてくれる時代は終わったことは明らかでしょう。我々はこのありきたりな日常の中でこれらのものを自らの手で掴みとって行かなければならないということです。


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posted by かがみ at 21:08 | 心理療法