【参考リンク】 ラカン派精神分析の基本用語集

2018年09月30日

「データベース消費」というディスクール



* 4つのディスクール

ジャック=ラカンはセミネール17巻「精神分析の裏面」において、我々が生きる社会における様々な言説を分類した「4つのディスクール」を示します。

4つのディスクール.png

これは、真理(左下)、動因(左上)、他者(右上)、生産物(右下)という4つの位置に、主人(S1)、知(S2)、主体($)、対象(a)の4つの項がどのように配置されるかによって、それぞれのディスクールが規定されるものです。

基本的な法則は「真理」によって支えられた「動因」が「他者」に命令し、結果、「生産物」ができるというものです。もっとも、「真理」と「生産物」の間は遮蔽されており、両者を一致させることは構造的に不可能とされます。

主人のディスクールは主体の構造を、大学のディスクールは強迫神経症者のあり方を、ヒステリー者のディスクールはヒステリー者のあり方を、分析家のディスクールは精神分析の構造を、それぞれ示しています。


* 資本主義のディスクールによる剰余享楽の氾濫

上記の4つのディスクールが出そろったのちの1972年、ラカンは「新しい主人のディスクール」ともいうべき「資本主義のディスクール」を示します。

これは主人のディスクールを左側を反転させ、$とaを直結させたものです。

資本主義のディスクール.png

上図のように資本主義のディスクールとは主人のディスクールを基本としつつ、そこにヒステリー者のディスクールと大学のディスクールの特徴を組み合わせたものになります。

資本主義のディスクールが氾濫する社会は糸井重里氏の「欲しいものが欲しいわ」というキャッチコピーが的確に言い表しているように「欲望の搾取」が発生します。

「欲望」とは「喪失/回復」の過程で発生するものです。人は乳幼児期において、外界から得られた満足体験の記号を記憶痕迹(シニフィアン)に置き換える。ここで我々はもはや満足体験そのものにはアクセスできず欠如(喪失)を抱え込むことになる。

それゆえに、人の無意識下においては、この欠如した対象を追い求める運動が永続的に展開されることになる。これが欲望です。

主人のディスクールはシニフィアン連鎖(S1→S2)により欠如した主体($)と対象( a )が出現する構造になっており、まさにこの「喪失/回復」の過程を示しています。

ところが、資本主義のディスクールでは喪失の側面がなくなっている。そして喪失抜きに享楽の復元が可能であるという空想が主体に与えられてしまっている。

こうして資本主義のディスクールが際限なく回り続ける時、我々は欲望するヒマもなく、そこらかしこに氾濫する剰余享楽を摂取し続けることを強いられる羽目になります。「新型うつ病」や「発達障害」の増加はこのような文脈からも読み解くことができるでしょう。


* 「データベース消費」というディスクール

資本主義のディスクールの典型的な例として、東浩紀氏がいう「データベース消費」をあげることができるでしょう。

氏が「動物化するポストモダン」で述べるように、ポストモダンにおいては「歴史」や「社会」が与える「大きな物語」は失墜し、その代わりに「情報の海」として静的に存在する「大きな非物語=データベース」が存在感を増してくる。

ここでは人々は「データベース」から自分好みの「小さな物語」を自身で生成することになります。

つまり、現代においては人は誰もがデータベースから欲望するままに「小さな物語」を読み込み、あるいは「無自覚的」に、またあるいはそれが究極的には無根拠である事を織り込み済みで「あえて」特定の価値観を選択する。

こうしてメタレベルで複数の「小さな物語」が乱立する動員ゲーム的状況が成立する。

これはまさしく資本主義のディスクールの典型例でしょう。つまりこういうことです。我々、ポストモダンを生きる主体($)が抱く自体性愛的享楽(S1)は、速やかにデータベース(S2)に登録され、ここから生成される「小さな物語(a)」を享楽する事で生きることになる。


* 「小さな物語」をどう生きるのかということ

では、このような「小さな物語」が乱立する現代の動員ゲーム状況をどのように生きていけばいいのでしょうか?換言すれば資本主義のディスクールが支配する世界における欲望と享楽のあり方の問題です。

一つは、自らが信じる「小さな物語」の中に引きこもり「小さな物語」が与えてくれる母親的全能感の中で生き延びるという態度があるでしょう。

あるいは、自らが信じる「小さな物語」を頼みに、異なる「小さな物語」を信じる他者との間で熾烈な闘争を繰り広げる態度があるでしょう。

またあるいは、異なる「小さな物語」を生きる他者に手を伸ばし、時に傷つきながらも、他者との間の共感やつながりといったコミュニケーションを試みる態度もあるでしょう。

いずれにせよ確かなことは、今やもはや「正しい物語」など、どこにも無いということです。かといって、人は「物語の重力」から逃れられるほど軽くも強くもありません。

結局のところ、我々は自らが選び取った根拠なき「小さな物語」の中で生きていかなければならないわけです。そこでは「物語とどう付き合っていくか」という「物語への態度」が問われているということになります。




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posted by かがみ at 00:51 | 心理療法