【参考リンク】 ラカン派精神分析の基本用語集

2018年06月29日

「La femme」あるいは「普遍」から「例外」を夢想すること。


性別化の式.png

* 男性側の論理式と女性側の論理式

セミネールXX「アンコール」において、ラカンは性別化の式の完成形を提示しています。性別化の式は上記図のように左側の男性側の論理式と右側の女性の論理式によって構成されています。

まず、男性側の論理式は以下の通りです。

・∀xΦx(普遍肯定命題)・・・「全ての男性はファルス関数に従う」

・∃xΦx(個別否定命題)・・・「ファルス関数に従わない男性が少なくとも一人存在する」

そして、男性側の論理式を反転させる事で女性の論理式が得られます。

∃xΦx(個別否定命題の否定)・・・「ファルス関数に従わない女性がいるわけではない」

∀xΦx(普遍肯定命題の否定)・・・「全ての女性がファルス関数に従うわけではない」

古典的ラカン理論は男性側の論理式に収められます。男性側の論理式は「トーテムとタブー」に出てくる原父のような「例外」が「普遍」を安定化させるという否定神学です。

「∀x」とは「全てのxは〜である」という量化記号であり「Φx」とは「xはファルス関数に従う(去勢されている)」ことを示しています。

最初の「∀xΦx(全ての男性はファルス関数に従う)」とは男性が得ることができる享楽はファルス享楽だけであるという「普遍」に関する命題です。つまり、男性の享楽はファルス関数に制御された身体的享楽(ファルス享楽)に留まり、対象 a を超えて「La femme=女性なるもの」に到達するような享楽(絶対的享楽)ではありえない。

そこで男性はこのようなファルス享楽のアポリアから逃れる為、この世界の何処かには絶対的享楽がきっとあるという「例外」のファンタスムを作り上げる。

このような「普遍」の側に立ちながら「例外」を夢想することを「〈他〉の享楽の想定」といいます。

* 「La femme=女性なるもの

例外として機能する典型例は「トーテムとタブー」に出てくる原父のような全能者ですが、その他にも例外として機能するものとして「La femme=女性なるもの」があります(〈父〉のバージョン違い)。

この「La femme=女性なるもの」への到達を夢想する一つの形式としていわゆる宮廷愛が考えられます。

宮廷愛とは12世紀ヨーロッパに始まる詩歌の一つのジャンルの中で歌い上げられる愛の形式です。多くの場合、ある高貴な女性(大体は既婚)を対象としています。そして、その愛は騎士道的な愛であり、その対象たる女性への肉体的接触は一切断念されているのが特徴です。

すなわち、ある任意の対象との間にあえて障壁を置くことで「La femmeへの接近不可能性」という問題を、「その障壁さえなければいいのに、という禁止」の問題に置き換え、その禁止の向こう側に「La femme」を想定することを可能にしているわけです。

例えば「猫物語〈黒〉(西尾維新)」において阿良々木暦は羽川翼に「失恋」していますが、これは宮廷愛の形式から読むことができます。阿良々木が羽川の中に「La femme」を見出したが故の表裏の関係として彼は「失恋」しているわけです。



「あいつのことがたまらなく好きだけれど─ ─でも、この気持ちは恋じゃあないな」  

呟き続けながら─ ─決意を。  

ひとつの決意を、新たにする。  

それは多分、最初から決まっていることだった。  

決まりきっていることに─ ─僕は今更気付いたのだ。  

僕の羽川への想いは、募り過ぎて─ ─  

もうとっくに恋を越えていた。  

一生一緒にいたい、どころか。

「だって僕は、 羽川のために死にたいって思ってるんだもん」

(西尾維新「猫物語(黒)」)



* 例外そのものになること

なお、男性側の式における宮廷愛的なリミットを超える道は一応あることはあります。すなわち、例外を空想するのにとどまらず、自ら「例外そのもの」になり切ってしまうことです。

しかし「例外そのもの」になるとは「アンドロメダの支配者」とか「神の女」などという自らの妄想の世界の中だけで生きることに他なりません。そして我々はこれを称して「精神病」と呼ぶわけです。


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posted by かがみ at 20:03 | Comment(0) | TrackBack(0) | 心理療法