* 4つのディスクール
ジャック=ラカンはセミネール17巻「精神分析の裏面」において、我々が生きる社会における様々な言説を分類した「4つのディスクール」を示します。

これは、真理(左下)、動因(左上)、他者(右上)、生産物(右下)という4つの位置に、主人(S1)、知(S2)、主体($)、対象(a)の4つの項がどのように配置されるかによって、それぞれのディスクールが規定されるものです。
基本的な法則としては「真理」によって支えられた「動因」が「他者」に命令し、結果、生産物ができるものですが、その際、真理と生産物の間には遮蔽線があるということが重要になります。
・主人のディスクール・・・あるシニフィアン(S1)が他のシニフィアン(S2)に対して主体($)を代理表象し、結果、始原的享楽を失った代償としての剰余享楽(a)が生産される。こうして$♢aの構造が生じ、主体はその幻想の中で欠如を求める欲望を抱く。
・大学のディスクール・・・科学的真理が探求される大学では、普遍的な知(S2)が話をしているように見える。しかしその知は権威としての真理(S1)に支えられている。普遍的な知(S2)が話しかける先にいるのが学生(a)である。結果、真理からは遠い主体$が生産されてしまう。つまり、大学のディスクールは主人のディスクールを温存する「倒錯した主人のディスクール」である。
・ヒステリー者のディスクール・・・ヒステリー者は自分の症状がなぜ生じているのかを医師などの「理想の父親」を体現する主人(S1)に向けて問うことになるが、結果、生産される知(S2)は、症状の背後にある真理としての剰余享楽(a)とは繋がりを持っておらず、結果、主人は主人としての位置から失墜する。
・分析家のディスクール・・・分析家は剰余享楽(a)のふりをして、その背後に知(S2)を想定されたものとして分析主体($)の前に現れる。結果、主人のシニフィアンの他なる様式である(S1)が析出される。これは他のシニフィアン(S2)から切り離された無意味のシニフィアン(S1)である。こうして分析主体は幻想を横断することが可能となる。
* 資本主義のディスクール
そして翌年には5番目のディスクールである「資本主義のディスクール」が付け加えられます。これは主人のディスクールを左側を反転させ、$とaを直結させたものです。

このように資本主義のディスクールとは主人のディスクールを基本としつつ、そこにヒステリー者のディスクールと大学のディスクールの特徴を組み合わせたものになります。
つまりこういうことです。我々、現代を生きる労働者($)はヒステリー者の如く日々の暮らしに不平不満(S1)を述べ、それはマーケティングという名において統計学的アルゴリズム(S2)によって処理され、終わりなき工業製品の消費(a)が続くということです。
これはいわば「欲望の搾取」を意味します。資本主義のディスクールが氾濫し、「消費せよ!」という享楽の命令が優位になるとき、欲望する主体は死滅するということです。
* メランコリーとデプレッション
例えば、現代における「新型うつ病」なるものの蔓延は、資本主義のディスクールの倒錯性が生み出した産物であるとも言えます。
古典的なうつ病であるメランコリー(内因性うつ病)と「新型うつ病」の多くが当てはまるであろうデプレッション(神経衰弱・精神衰弱)は共にDSM上においては「大うつ病性障害」に位置付けられますが、両者は相当性質を異する疾患です。
メランコリーは「感情精神病」とも呼ばれ、感情自体が廃棄されている為、楽しいことがあったり状況が好転したとしても、それによって直ちに抑うつ症状は好転するわけではない。これに対してデプレッションは何か楽しいことがあったり状況が好転すれば病自体も好転する。また、いわゆる「うつ病患者に頑張れと励ましてはいけない」という原則はデプレッションに関しては当てはまらない。
この点、フロイトは、デプレッションの心理的メカニズムについて身体的性的興奮の加重が不十分な形で解除されている可能性を指摘しています。これはラカンの文脈で言えば剰余享楽との関連で問題となるものです。
主人のディスクールにおいては主体が対象 a から隔離維持されていますが、これに対して資本主義のディスクールでは主体が対象 a に直接アクセスできるという相違があります。
絶え間ない剰余享楽の供給は欲望の主体を死滅させます。ここに「欲動の処理不全」が起きるわけです。つまり「新型うつ病」とは、ある意味で享楽・欲望に関する生活習慣病であるとも言えるでしょう。
* ひとつきりのシニフィアン
ところで上述の4つのディスクールのなかで「分析家のディスクール」だけは「資本主義のディスクール」と一切共通点がありません。
これは注目すべきことなのではないでしょうか。すなわち、精神分析とは現代社会を覆う閉塞感を打ち破る可能性を秘めた営みでもあると言えるでしょう。
分析家のディスクールによって析出されるS1とは、個々人が持つ「特異的享楽=〈一者〉の享楽」を表す「ひとつきりのシニフィアン」です。人は「ひとつきりのシニフィアン」と向き合うことで自らの特異的享楽と「上手くやっていく」ことが可能となるわけです。