2017年09月25日

SsSと欲望の領野、あるいは「君の膵臓をたべたい」




分析家の位置

「分析家とは誰でしょう。それは転移を利用することで解釈をおこなう者なのでしょうか。転移を抵抗として分析する者なのでしょうか。それとも現実性について自分が持っている観念を押しつける者なのでしょうか。」

(ラカン「エクリV」より)


精神分析の臨床において分析家は分析主体にとって「知を想定された主体(SsS)」でなければならないといわれます。なんとなれば、精神分析という営みの場においては分析主体の「無意識」こそが最終的な権威であり、治療の進展の鍵を握るのは分析主体の「無意識の意識化」だからです。

そうである以上、分析主体の「無意識を意識化」促すには、分析家は分析主体の「無意識の代理人」として機能する必要があるということです。

そのためには分析家はーーー句読法、あるいは解釈など諸技法を駆使することでーーー分析主体にとって「知を想定された主体(SsS)」、つまり何か重要なことを知っている、あるいは教えてくれる重要な〈他者〉としての位置を取らなければなりません。

そして、分析家が分析主体にとってのSsSとして位置付けられる時、分析主体の中で分析家に対する特殊な感情が誘発されます。これを「転移」といいます。

ここでSsSとして見做された分析家は、分析主体から突きつけられる様々な「欲求満足の要求」ーーー自分について「どのように思うか」という「評価の要求」や、自分に「どうして欲しいのか」という「要求の要求」ーーーと「何でもいいからとにかく私を認めて欲しい、愛して欲しい」という「愛の要求」を徹底的に切り分けていく。

これはいわゆる「禁欲原則」といわれるものですが、分析家がこのような態度を維持することにより、欲望のグラフが示す通り、分析主体の欲求は「欲求満足の要求」と「愛の要求」に二重化され、その中央に「欲望の領野」が活性化されていくわけです。「欲求→要求→欲望」からなる欲望の弁証法化。これが分析関係の基本的な構造となります。

分析の場以外でも禁欲原則は有効に作用します。例えばラカニアンとして知られる精神科医の斎藤環氏は不登校や引きこもりの問題に関して、家族は本人にとって愛憎入り混じる鏡像ではなく、ルールを介した〈他者〉として振舞わなくてはならないという趣旨のことを書いていますが、これも禁欲原則のひとつの応用例といえるでしょう(斎藤「引きこもりはなぜ「治る」のか?:55頁)。



「君の膵臓をたべたい 」における「禁欲原則」

ではここで、SsSの特性を端的に示している例として「君の膵臓をたべたい 」という作品を取り上げておきましょう。作品のあらすじを簡単に紹介しておきます。クラスでなんとなく孤立している【僕】は偶然「共病文庫」なる日記を目にして、明るくてクラスの人気者の山内桜良が余命僅かな膵臓の難病に罹っていることを知る。こうして彼女との間に親友でも恋人でもない不思議な「なかよし」の関係が始まっていく・・・というものです。


君の膵臓をたべたい (双葉文庫)
住野 よる
双葉社 (2017-04-27)
売り上げランキング: 139



「君は、 きっとただ一人、私に真実と日常を与えてくれる人なんじゃないかな。」

「お医者さんは、真実だけしか与えてくれない。 家族は、 私の発言一つ一つに 過剰反応して、 日常を取り繕うのに必死になってる。友達もきっと、 知ったらそうなると思う。 」

「君だけは真実を知りながら、 私と日常をやってくれてるから、 私は君と遊ぶのが楽しいよ」

(住野よる「君の膵臓をたべたい 」より)


桜良の中には、確実に鳴動を始めた「死」という現実があるわけです。そこで彼女のとった選択は「死の受容」でも「死の抑圧」でもないーーー「死ぬまで元気でいられるようにって」ーーーつまりは「共病文庫」という日記の表題からも明らかなように「死との共存」です。

彼女のとった選択は死を客観的にまなざしつつも生を最大限に「欲望」するということ。それは彼女のひとつの「覚悟」の表れということです。

しかしながら、いずれにせよこの選択は尋常ではないエネルギーを要します。すなわち、彼女を限界まで欲望させてくれる〈他者〉が必要となってくるということです。

残念ながら、彼女の親友であるキョウコにはその役割は担えないのです。仮に彼女が真実を知ったとすれば、それこそ死に物狂いで桜のどんな「要求」でも文字通り叶えようとはするでしょう。しかし、ラカンが述べるように「欲望」が弁証法的なものであるのならば、あらゆる「要求」を悉く叶えるであろうキョウコは桜良の良き鏡像とはなり得ても、彼女を欲望させる〈他者〉とは決してなり得ない。だからこそ桜良はキョウコに真実を告げなかった、あるいは出来なかった。

桜良が自らの「欲望」を全うするには、彼女の死を知りつつも、それでも〈他者〉として彼女に接する存在が必要となる。たまたまこの条件を満たす位置にいたのが【僕】という人間です。

【僕】は彼女の取った「選択」を尊重しつつも、生来の閉じた性格からいつも彼女にシニカルで冷淡な態度をとります。

「僕が人に興味がないからだよ。基本的に人は皆、自分以外に興味がない、つまるところね。 もちろん例外はあるよ。 君みたいに、特殊な事情を抱えてる人間には僕も少し興味はある。でも僕自身は、他の誰かに興味を持たれるような人間じゃない。だから、誰の得にもならないことを喋る気にはならない」

(住野よる「君の膵臓をたべたい 」より)


けれどもその一方、【僕】は桜良の内的世界の探索とその解釈にかけては極めて真摯かつ貪欲な姿勢を見せます。

「春を選んで咲く花の名前は、出会いや出来事を偶然じゃなく選択だと考えてる、君の名前にぴったりだって思ったんだ」

(住野よる「君の膵臓をたべたい 」より)


このような【僕】の二重化された態度は分析家的態度と大きく重なるものがあります。結果、【僕】は桜良にとってSsSとして作用して彼女の欲望の領野を開き続けた。このようにも言えるでしょう。彼女のいう「私に真実と日常を与えてくれる人」とは、つまりは、そういうことです。


出会い損ないの悲劇と生の輝きに満ちたハッピーエンド

ただ【僕】は、無自覚的にSsSに位置付けられただけに過ぎない存在であるがゆえに、もちろん最後までその位置にとどまることは出来ていません。関係性の進展のうち、【僕】も知らずしらずのうち、桜良によって「欲望」させられています。

だから物語クライマックスにおいて【僕】は桜良の中に自らの「欲望の原因=対象 a 」を見出し、その結果、例の「君の膵臓を食べたい」という言葉を紡ぐことになるわけです。

けれども、結局、僕は彼女と「出会い損なう」。その時には既に、彼女は欲望の主体のまま、もうこの世から「勝ち逃げ」してしまっているからです。それはつまり、彼女は「死ぬ前に殺された」ことである意味では「死ななかった」ということです。


このように考えると本作は出会い損ないの悲劇と生の輝きに満ちたハッピーエンドという二重構造を含んでいるとも理解できるでしょう。本作の基本構造が美少女ゲーム的文法に則っているにも関わらず、幅広い層の共感を呼んだ理由というのも、何かその辺りにあるような気もするわけです。


posted by かがみ at 22:43 | 文化論