2016年12月31日

エディプスコンプレックスVS劣等コンプレックス(後編)



エディプスコンプレックスVS劣等コンプレックス(前編)

前回述べたように、劣等コンプレックスというのは説明として直感的にわかりやすいけれども、一方、一部のケースはエディプスコンプレックスからの方が上手く説明できる事例もまた確かに存在し、一概にどちらが根源的なコンプレックスだと云い難いものがあるということです。

従って、この両者はいかなる関係に立つと考えるべきか、という問題が生じることになりますが、この点、ジャック・ラカンによる「疎外と分離」「対象 a と根源的幻想」という理論的整理が、一応の整合的説明として成功しているというべきでしょう。

疎外と分離〜欲動と欲望の相転移

まず、フロイトの規定する根源的衝動は周知の通り「欲動」です。もっとも一般的なフロイト理解では「性欲」などと言われますが、性欲といっても幼児性欲のそれであり、むしろ「愛情衝動」と言った方が適当と言えるでしょう。

このあたりの誤解がフロイトという人の不遇たる所以でもあるわけですが、それはともかくいずれにせよ、我々は原則としてこの欲動を完全円満に満足させた状態でこの世に生を受けているということです。これは一人の例外もありません。何となれば、母の胎内は新しい命に必要なすべてが満たされているからです。これはラカンがいう「享楽」と呼べる状態です。

ところが、そこにずかずかと邪魔者が入ってくることで「享楽」は霧消してしまいます。子どもは自らと母親は〈他者〉であり渾然一体でも何でもないことを悟ります(疎外)。そして次に、それどころか母親の関心の対象は自分ではなく、まさにその邪魔者であることに気づくわけです(分離)。

こうして当初の「享楽」は失われてしまい、もはやすべてが満たされることはなくなったのです。しかしこの時に子どもの中には、これを少しでも奪回したいという願いが生じる。

これを称して「欲望」という。これが「母に欲望されたいという母への欲望」という「〈他者〉(へ)の欲望」です。

よくわからないけれども満たされている享楽と異なり、欲望は「〜がしたい」という「言葉」、すなわちシニフィアンで表現されます。いわば人は欲望を持つ者となり初めて「象徴界=理性の世界」へ参入できると言えるでしょう。ここにフロイト第二局所論でいう「超自我」の形成を見出すことができるわけです。

対象 a と根源的幻想

こうして、子どもの中に芽生えた「欲望」は、以降、かつての享楽の残滓物達、すなわち「欲望の原因=対象 a 」により駆動され、死ぬまで満たされない永久運動に従事することになります。ラカンが例示する対象 a の始原的なオリジナルは「乳房、糞便、声、まなざし」の4つあり、以降の人生で見出す様々な対象 a はこれら4つのバリエーションと言えるでしょう。

そしてこの欲望と対象 a の関係性を規定する態度をラカンは「根源的幻想」と呼びます。ヒステリー者と強迫神経症者の根源的幻想は対象 a に対する両極的アプローチといえます。疎外以前に逆行して「対象 a を完全に所有したい」と欲望するのが強迫神経症者である、他方で、分離に執着して「対象 a そのものとして〈他者〉に欲望されたい」と欲望するのがヒステリー者です。


いずれにせよ「欲望」とは「欲動」を禁じられ初めて生じるものであり、両者は相転移の関係にあると言えるのです。

例えば、の話ですが、生まれてからずっと絶海の孤島に絶世の美少女と二人っきりで、それが当たり前の暮らしだった所に、ある日突然、イケメンが現れたとします。

少女はそのイケメンを未だ見せたことのない恍惚の眼差しでうっとりと見つめている・・・そんな情景を思い浮かべてみて下さい。そうすれば、それまでなんとも感じなかった少女との関係性が、たちまちにして、これ以上なく掛け替えの無い大切な物だったように感じらませんか?要するに、その時、湧き上がるであろう何とも名状しがたい感情、これが「欲望」の正体です。

こういう風に説明すれば、少しは想像できるかとは思いましたが・・・却って、わかりにくかったらごめんなさい。

第三項としての〈父の名〉

ともかくも、このように「満たされた享楽」の禁止と相転移的に「満たされない欲望」が生成されるわけです。この一連の疎外と分離の過程において、母と子の「享楽」を切り裂く邪魔者こそが、エディプスコンプレックスを引き起こす第三項、すなわち〈父の名〉に他ならないのです。

要するにフロイトがエディプスコンプレックスと呼んだものは、子供の発達過程における母子分離の神話的表現なんですよ。この世に生まれ落ちた時は動物となんら変わりない「エスの塊」である赤ちゃんに「超自我=理性」を内在させる力動作用と言い得るでしょう。つまり〈父の名〉を担うのは現実的な父親に限りません。

〈父の名〉とは「母の欲望」を名付ける「シニフィアン」という一種の概念であり、母と子を分かつ第三的力動作用であればそれは現実の父親どころか人でさえある必要はなく、例えば母子家庭における母のパート労働による日常的な不在も、そういいう意味で〈父の名〉として機能すると言えるでしょう。

エデイプスコンプレックスVS劣等コンプレックス

このようにして見てみると、「疎外と分離」により「欲望」の萌芽から「根源的幻想」の形成に至るまでの論理の動線はアドラーの優越性の追求からライフスタイルに至るそれと極めて近似していることに気付かされます。

まず、母子分離の過程においてエディプスコンプレックスによる欲動が抑圧されることで、欲望=優越性の追求が発生し、根源的幻想=ライフスタイルが形成されます。

そして、この根源的幻想=ライフスタイルが何らかの挫折経験などで著しく歪んだ時、アドラーが言うところの「〜だから〜できないという偽の因果律」である合理化作用によって劣等コンプレックスが形成されます。

ものすごく端的に言えば、エディプスコンプレックスは欲動の抑圧作用であり、劣等コンプレックスは欲望の合理化作用といえるでしょう。つまり両者は構造的には似ているものの作動する位相が全く異なっているというわけです。

なお、強迫神経症者もヒステリー者も「対象 a を完全に所有したい」「対象 a そのものとして〈他者〉に欲望されたい」という支配関係、つまり縦の関係であり、端的な劣等コンプレックスと言えるでしょう。

つまり、劣等コンプレックスというのは神経症圏においては根源的コンプレックスではあることは間違いない。なので神経症圏を生きる大多数者にとって劣等コンプレックスが直感的に響く説明であることはある意味当然であるといえるのです。

また、劣等コンプレックスは多種多様な亜種を生み出します。カインコンプレックス、学歴コンプレックス、メサイアコンプレックス、クリスマスコンプレックスなどなど・・・学童期以降の子供が同性親に抱くエディプス的な愛憎も理論的には劣等コンプレックスということになります。

この点、エディプスコンプレックスは「異性親への愛情と同性親への憎悪」という、このひとつだけです。つまり言い換えればエディプスコンプレックスというのは多くの人に共通する精神力動と言えるでしょう。

これはユング心理学の個人的無意識と集合的無意識を想起させるものがあります。すなわち、ユングの理論体系に従えば、神経症圏=個人的無意識、精神病圏=集合的無意識、という対応関係となり、個人的無意識というのはエディプスコンプレックス=父性原理による切断により発生するという理解を導き出すことができるわけです。

結語〜根源的幻想の横断と共同体感覚の獲得

さて。最後はなんだかとっ散らかった印象論を並べただけではありますが、エディプスコンプレックスと劣等コンプレックスというものが決して対立するものでないという趣旨がなんとか伝わったのであれば幸いです。

ところで精神分析が目指す分析目標は「根源的幻想の横断(ラカン)」であり、これは畢竟、「〈他者〉との分離」だといえるでしょう。

他方、アドラーの個人心理学の治療目標は「共同体感覚の獲得」であり、これはどちらかといえば「〈他者〉との調和」に重きをおいているように見受けられます。

もちろん「課題の分離」「勇気付け」を始めとするアドラーの数々の技法が日々の暮らしにも簡単に応用できる実用性に優れたものであることは言うに及ばないことですが、これだけアドラー理論が多くの共感を集めるというのは「自己責任」とか「空気を読む」ということが折に触れ強調される現代日本社会の精神病理を端的に例証しているような気がするんですよね。

そういうわけで、今年もいよいよ年の瀬、なんかあっという間でしたね。皆様におかれましてもどうか、よいよいお年を。

【関連】

しあわせ・享楽・対象 a

神託的発話としての解釈と根源的幻想の横断、あるいは「この世界の片隅に」

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2016年12月25日

エディプスコンプレックスVS劣等コンプレックス(前編)



心理療法における一般論としてですが、人の症状や問題行動は、その人に内在するコンプレックスによって引き起こされると言われます。そして、最も根源的なコンプレックスとは何かという問題について、エディプスコンプレックスと劣等コンプレックスがしばし対立的なものとして説明されます。

しかしながら両者はほんとうに「対立」しているのでしょうか?仮にそうでないのであれば両者はどのような関係に立つと言えるのでしょうか?

そういうめんどくさいわりにはあんまり需要のなさそうなテーマについて、自分なりに現時点で整理したことに基づく解釈を2回に分けて書いてみようと思ったのが本稿の着想の発端だったりします。何卒よろしくお願いします。

エディプスコンプレックス

エディプスコンプレックスとは周知の通り、精神分析の創始者、ジークムント・フロイトの「発見」によるものでして、これを定義的に述べれば「異性親への愛情と同性親への憎悪」ということになります。

フロイトは当初、ヒステリー患者の供述を真に受けて、神経症の原因は幼少期における親からの性的な誘惑体験であるとする「誘惑理論」なる説を唱えていましたが、程なくこれをあっさり放棄してしまいます。何となれば当時のウィーンでは、神経症に苦しむ若い女性が相当数に上っており、彼女たちの父親全員がペドフェリア的な性的倒錯者だと考えるというのはいくら何でも苦しい説明だと言わざるを得ないからです。

誘惑理論を放棄したフロイトは当時の親友ヴィルヘルム・フリースとの幾度とない往復書簡を通じて自己分析を重ねていった結果、自らの内奥に「母親への惚れ込みと父親への嫉妬」という秘められた感情を発見するに至ります。

そして、この感情こそ、神経症の原因を形成する「早期幼児期の一般的な出来事」だと看破したフロイトはこれをギリシア神話のエディプス王の悲劇になぞらえて「エディプスコンプレックス」と名付けました。

しかし、現代の日本社会においてエディプスコンプレックスなどと言われても、何か荒唐無稽な御伽噺を聞かされている気分になるでしょう。普通の人に対して「あなたは近親相姦ないし父殺しの願望がある」などと言い放ったところで、多分、困惑されるか、ヘタすれば怒らせてしまうかもしれません。

劣等コンプレックス

これに対してフロイトと並び称される心理学の巨峰、アルフレッド・アドラーが擁する劣等コンプレックスは遥かに解りやすく、シンプルです。

アドラーは人の根本衝動は「劣等感の補償としての優越性の追求」だと規定します。その優越性に追求の駆動された結果として形成される動線、つまり個人的な信念・世界観を「ライフスタイル」と呼びます。ライフスタイルと言うのは認知行動療法でいうところの「スキーマ」に概ね重なる概念と考えて差し支えないでしょう。

人は自らのライフスタイルを正当化し論証する「目的」で様々な症状や問題行動を起こし、またライフスタイルというプリズムを通してこの世界を「認知」する(目的論・認知論)。

つまり重要なのは、どのようなライフスタイルを形成するかという問題であり、そこでは精神分析でいう意識・無意識の区別は重要ではなく、あくまで「全体」としての個人という「主体」の在り方が問われている(全体論・主体論)。

そして、いかなるライフスタイルを形成するかといういわば「目的の原因」は畢竟、「対人関係」をどのように捉えるかにかかってくる(対人関係論)。

ここで対人関係を「縦の関係」、すなわち操作したり評価する支配関係として捉えてしまえば、歪んだライフスタイルが形成される。これがアドラーのいう劣等コンプレックスに他ならないのです。

そこでアドラー心理学では対人関係を「横の関係」、すなわち、尊敬、共感、感謝といった関係で捉える「共同体感覚」というライフスタイルの涵養が目標とされ、かかる共同体感覚を育むための援助技法を「勇気付け」と呼んでいるわけです。

精神病圏におけるエディプスの欠落

こうして並べてみると、どう考えても劣等コンプレックスの方が説明としてはスマートですよね。例の「嫌われる勇気」の空前の大ヒットを待つまでもなく、日本ではもともと「コンプレックス=劣等感」というイメージが成り立っているので、アドラーの理論は直感的に響くものがあると言えます。

しかしながら、なかなか一筋縄でいかないと言べきでしょうか。一方でエディプスコンプレックスの方がより上手く説明できるケースというのもまた確実に存在します。例えば、パラノイア(妄想性障害)という精神病は、その急性期においては精神自動症や言語性幻覚などと呼ばれる意味不明な幻聴が発生しますが、これらは多くの場合、患者が何らかの社会的責任(昇進・結婚・妊娠)を引き受けた時に発症することが臨床上、確認されています。「社会的責任を負う」とはまさに自らの父性機能(理性やセクシュラリィティ)を参照するべき場面に他なりませんが、パラノイアの場合、参照すべき父性原理がないが故に、その参照エラーが意味不明な幻聴などの形で返ってくるわけです。また、その安定期においては、よく荒唐無稽な妄想的世界観が患者の口から披瀝されることが少なくないですが、これらの妄想も父性原理の不在を自分なりに補完しようとして作り上げた代替原理ということができます。

このような症状はエディプスコンプレックスの欠落という点から初めて合理的に説明ができるでしょう。すなわちエディプスコンプレックスは精神病圏と神経症圏を分かつ重要なメルクマールであり、換言すれば、人はエディプスコンプレックスを経由することで精神病圏から神経症圏へと遷移するということです。そういう意味からいえばエディプスコンプレックスとはむしろ「引き起こされなければならないもの」といえるのです。

神経症圏と精神病圏の鑑別診断

なお、このように神経症圏と精神病圏を区別することは精神分析の臨床上も極めて実際的な問題となります。例えば精神病圏者に自由連想を施して解釈を投与した場合、父の名の参照エラーが生じ精神病的症状が発症してしまう危険があると言われており、このため通常は分析の前段階の予備面接において、精神病圏と神経症圏の鑑別診断が実施されるわけです。

ただ、誤解しないで頂きたいのは、決して精神病圏の人が神経症圏の人に比べ「劣っている」という意味ではない、ということなんですよ。これらの精神構造の相違は「優劣」ではなく、あくまでも「個性」として理解すべきものだということです。このことはどれだけ強調しても、決してし過ぎることはないでしょう。

こうしてみると、エディプスコンプレックスと劣等コンプレックスは「あれかこれか」という二項対立的な関係に立つものではないことが明らかになります。では両者はどのような関係に立つのでしょうか?

(後編に続きます)

エディプスコンプレックスVS劣等コンプレックス(後編)

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posted by かがみ at 01:30 | 心理療法

2016年12月16日

神託的発話としての解釈と根源的幻想の横断、あるいは「この世界の片隅に」



精神分析の過程においては、自由連想がある程度、機が熟した時、分析家が患者の無意識の中を詳らかにすること、すなわち解釈投与が行われます。

とはいえ、どのような解釈が望ましいかは、諸派によって見解が分かれてくるところです。この点、ラカン派における「解釈」とは患者が意識レベルで納得するような「説明による安心」ではなく、むしろ「衝撃による動揺」を与える「神託的発話」であることこそが望ましいとされています。そのような解釈こそが、むしろ患者(主体)のFrustrationを呼び込み、連想過程を胎動させるということをラカン派においては熟知しているからです。

従ってラカン派においては「解釈」の意味は「解釈の解釈」を要する多義的なものであることが多いと言われます。その謎めいた意味作用は主体の内面で反響して、無意識の主体が鳴動し始める。日常的理性的な思考過程が退き、無意識の連想過程がこれに取って代わり欲望を弁証法化させていくことで、ずっといままで主体が言葉にできないまま、不安や症状として、その周囲の堂々巡りに終始していた「何か」を穿っていく。

この辺り、無意識の主体を顕現させるという意味で句読法や短時間セッションと同様の思想が通底しているといえるでしょう。フロイトの言葉を借りれば、「解釈とはその真偽よりも生産的であるか否かが問題」となるわけです。例えば、愛の言葉が多くの場合そうであるように、解釈とは相手の最も深い処、もっと大げさに言えば「いのちそのもの」に突き刺さらないといけない。そういう意味において「解釈とは現実的なものを打つ」ものでなければならない。

こうした過程を経ることで「欲望の主体(=代替可能な象徴的主体)」の中に、かつて母子分離の過程(ラカン派でいう「疎外と分離」)で失われた「欲動の主体(代替不能な現実的主体)」を再び顕現させることが可能となります。換言すれば、現実的なものが言語化、シニフィアン化されていくわけです(ラカンの娘婿のジャック=アラン・ミレールはこれを「干拓」と表現しています)。

これが、フロイトのいう「かつてエスがあったところに、自我を成らしめよ」という言葉の意味するところであり、ラカンがセミナールXI「精神分析の四基本概念」において宣明した「根源的幻想の横断」に他ならない。あるいはもっとシンプルに「〈他者〉からの分離」もしくは「自己実現の過程」とも言い得るでしょう。

さて、また長い前置きになってしまいましたが、そんなことをなんとなく考えているタイミングで「この世界の片隅に」という作品を観て参りました。柔らかいタッチの絵だけれども描写は細密。本作では徹底的な史実研究がされているそうで、穏やかな日常の営みにじわじわと戦争という「異物」が侵入してくる様相が、すずさんの視点から非常に丁寧に描き出されています。このような一つ一つのシークエンスの積み上げが、中盤以降で、物語に圧倒的かつ静かな狂気性を孕ませる動線となっている。

そのひとつの頂点に位置していたのは玉音放送の場面だったと思います。こうの史代さん自身もあの場面は「ヤマ」と考えておられたようで、映画では原作に比べてさらに演出が盛られており、一見かなり唐突な印象さえ与えます。

けれども、あの時を境に、彼女の世界観は、それまでの「私には右手がない(=もう生きている価値がない)」から「私には左手も両足もある(=生きていれば何でもできる)」というように、明らかに変容を被っています。

つまり、あの「玉音」はラカン的な意味での「解釈」として考えるべきなんでしょう。漢文で紡がれる難解極まりないディスクールは図らずも「説明による安心」ではなく「衝撃による動揺」を与える「神託的発話」としてすずさんの無意識に作用し、作品の文脈に沿って言えば一度喪失した「居場所」を回復したといえる。そういう意味で、そこには明らかな「根源的幻想の横断=自己実現」の過程が見て取れるでしょう。

少し穿った視点からの所感となってしまいましたが、普通に観ても「この世界の片隅に」は本当に素晴らしい作品なのは言うまでもありません。「君の名は。」や「シン・ゴジラ」を観て「イヤ、ホント凄く良かったけど、ちょっとね、何か足りないような・・・」と思った人にこそ、この作品は是非見て頂きたいですね。


posted by かがみ at 01:54 | 文化論