2016年07月14日

精神分析の倫理とまどか的享楽



「美の機能は人間が自らの死と関係する場をわれわれに示してくれる 。そしてそれも眩しい光の中でのみである 」 (ラカン『精神分析の倫理』下巻194頁 )


ラカンは『精神分析の倫理』の中で「罪があると言いうる唯一のこととは、少なくとも分析的見地からすると、自らの欲望に関して譲歩したことだ、という命題を私は提出します」と述べています。有名なテーゼ「汝の欲望に譲歩してはならぬ」です。

神経症者というのは精神分析的見地から言うと〈他者(両親)〉の欲望からの分離に失敗している人でして、分析関係とは〈他者〉の欲望からの分離を目指す作業に他ならない。

分析家は自らをして分析主体の欲望の原因(=対象 a)の位置を占めることにより、分析主体の欲望の原因への固着に揺さぶりをかけていくわけです。

そしてこの「汝の欲望に譲歩してはならぬ」という精神分析の倫理を体現するものとしてラカンが引き合いに出すのがギリシャ悲劇「アンティゴネー」です。

アンティゴネーという人は例のエディプス・コンプレックスのモデルとなったエディプス王の娘です。周知の通り、エディプス王は父殺しと近親相姦の罪悪感で自らの目を潰した後で叔父のクレオンによってデーバイを追放されるんですが、その時に付き添ったのがアンティゴネーとイスメーネーの姉妹。父の死後、2人はテーバイに戻ってくるんですけど、アンティゴネーは反逆して戦死した兄のポリュネイケスの亡骸の処遇を巡りクレオンと対立することになる。

クレオンは、ポリュネイケスを国の法を破った者として、彼の亡骸を葬ることを禁じ 、野ざらしのままに腐敗するに任せることを命じます。これに背けば死刑も覚悟しなければならない。にもかかわらずアンティゴネーはポリュネイケスの亡骸を葬ろうとして、結果、彼女は地下に幽閉される。

結局、最後にはクレオンの方が折れてアンティゴネーへの処罰を取り下げるんですが、時は遅く 、彼女は地下で首を吊って死んでいました・・・まあ、こういうあらすじです。

クレオンは 、統治者として万人の幸せを計ろうとし 、そのために法から外れるものを容認できない立場にあります。これは一つの善の体現といえるでしょう。けれどもアンティゴネーにとって重要なことは 、万人のための法ではなく彼女自身の固有な欲望であり、欲望に譲歩しない生き方を選択することである。こうしたアンティゴネーのあり方をラカンは善に対する美の極北として称揚し、精神分析における倫理の体現者として位置づけるわけです。

それでなんかね、これを読んでいて、まどか☆マギカって現代のアンティゴネーの物語なのかも、って思ったんですよ。


キュゥべえというのは魔法少女達にとっては三百代言を弄する悪辣な搾取者そのものですが、そのエコシステム自体は魔法少女が魔女に転じる刹那に発生する莫大な希望と絶望の相転移エネルギーを利用して宇宙の寿命を延ばすという最大多数の最大幸福の為の装置であり、その意味で彼らは善に仕えるクレオンです。

これに対して、まどかちゃんの祈りは魔法少女達の最期に安らかな救済を齎すことになりますが、その祈りの本質はエコシステムの根幹の破壊に他ならない。それはまさしく法に背き死者の亡骸に土をかけるアンティゴネーの欲望であり、QB的善の対極に位置している。

「欲望」って言葉は、日本語にしてしまうと何だか、爛れた感じに響くんですけどね。そもそものフランス語の「désir」はもっと価値中立的な、例えば「望み」とか、あるいは「願い」とか、そういう意味なんですよ。

こうしてみると、まどかちゃんの「希望を抱くのが間違いだなんて言われたら、私、そんなのは違うって、何度でもそう言い返せます。きっといつまでも言い張れます」という台詞は『精神分析の倫理』における「汝の欲望に譲歩してはならぬ」というテーゼそのものです。

そういう意味で「まどか」というのは、ファリックマザー(=詢子)の下で「良い子」として〈他者〉の欲望を生きて来た女の子が自らの欲望を主体化させ、遂には享楽に至る物語として読むことができるでしょう。

ラカンの言う「享楽」とはあらゆるすべての欲望が満たされた完全な状態を言う、いわば究極のエゴイズムとも言えます。けれどそれは時として、ものすごく禁欲的で、気高いものとして人の心を打つことがあるということです。
posted by かがみ at 07:14 | 文化論

2016年07月07日

鏡像段階の反復運動としての共感的理解

誰かから「悩み相談」など受けた時、ついつい、人というのは何かしらの「アドバイス」をしたくなるものです。しかし、アドバイスは概して役に立たないことが多い。時にはその内容が正論であればあるほどに反感を買ってしまうこともある。悩みを打ち明ける人はアドバイスを聞きたいのではなく、共感が欲しくて悩みを打ち明けていることが多いのです。

一般的には「悩み相談に対してはアドバイスではなく、共感的理解が大事」だと言われていますよね?共感的理解とはカウンセリングの神様と言われたカール・ロジャーズの定義に依れば「クライエントの内的な主観的世界を、セラピストがあたかも自分のものであるかのように感じ取り、 しかも巻き込まれずに、『あたかも〜のような(as if)』という性質を失わないこと」などと言われます。

それではなぜ人は共感を求めるのでしょうか?ここを原理的に理解せずして、単に話し手のキーワードをマニュアル的に鸚鵡返しして、適当な所で「辛かったんだよね」とか「苦しかったね」などとリフレクションしていれば共感的理解になるとか思ってしまうと、そういう気持ちはあっさり話し手に見抜かれてしまうでしょう。

なので自分なりに「なぜ共感をすべきなのか」という物語を持っておく事は大事なんだと思うんですよ。この点、一つの説明としてこれは人が共感を求めるのはそれは「かつての鏡像段階を反復しているからである」ということが言えると思います。

鏡像段階というのは簡単に言えば、生後6ヶ月から18ヶ月の間の時期の幼児が鏡を見て自我を獲得するという、フランスの精神分析家ジャック=ラカンの提唱した発達段階概念です。生まれて間もない赤ちゃんは、いまだ神経系が未発達であるため、寸断された身体イメージの中に生きている。鏡像段階において、幼児は身体興奮の束に過ぎなかったみずからの身体イメージを、鏡の中にはじめて全体的・統合的なものとして発見し、そこにおいて自己イメージを先取りする。

そしてこの鏡とは他者のことをも意味します。つまり、人は、他者を鏡像として、他者の中に自らを見出すということです。すなわち「これが自分だ」と自己イメージを同定し、自我を生じさせる為には「他者」が必要なのです。

この「他者」という用語にはまた少々注釈が必要でしょう。鏡像段階を図式化したものとしてシェーマLですが、この図は自我aと想像的他者a'を結ぶ想像的軸と、無意識の主体Sと大他者Aを結ぶ象徴的軸により構成されるものです。



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Sとは主体を指します。これは自我という意味での「わたし」とは違います。Sは仏語のSujet(シュジェ)の頭文字であり、またフロイトの第二局所論でいう「エス・自我・超自我」における「エス」でもあります。英語で「雨が降る」は”It rains.”と表記しますが、丁度Sはこのときの”It”にあたるでしょう。”It”は形式上は主語であるが、それ自体に意味はない。言うなればSとは「わたし」という自我を越えた「その人の存在そのもの、生命そのもの」を指しているのです。

かかる主体Sと象徴的軸上において対極に位置するのが大他者Aです。これも「あなた」という誰か具体的な人ではありません。ざっくりいうと、この世界を形作る言語や倫理といった象徴的秩序のことをいいます。

これに対して、「あなた」というべき身近にいる人々は想像的他者a’として想像的軸上に配置される。大他者と想像的他者は概念上は区別されますが、もちろん実際は具体的な1人の人間が両者の役割を体現するケースも多いでしょう。例えば幼児にとって両親はもっとも身近な人々という意味では想像的他者a’であり、同時に世界の秩序を代表する大他者Aでもあります。

そして、幼児(主体)はこの想像的他者a’を鏡像関係として自らの自我aを形成するというわけです(鏡像段階)。つまり「わたし」は「あなた」によって作り出されることになります。

鏡像段階によって作り出された自我はその後も他者を鏡として二次的同一化を続けていき、その反復運動は死ぬまで続けられることになる。人は常に誰かに大他者Aあるいは想像的他者a'のイメージを投影して生きているのです。

以上、ものすごく乱暴に鏡像段階論とシェーマLを眺めてきましたが、ここから以下のような事が言えるでしょう。

まず「悩み相談」においてアドバイスが有効に機能するのは聴き手が大他者Aの位置に来る時、すなわち秩序の代弁者と見做される場合だけです。これは極めて限定的なものと見るべきでしょう。例えば連立方程式の解き方がわからない子が数学に詳しいクラスメイトに聞きに来たというような場合、あるいはiPhoneを買ったばかりの初心者がiPhoneに詳しい人に操作方法を聞きに来たというような場合、この時「数学に詳しい人」「iPhoneに詳しい人」は「連立方程式の解き方」「iPhoneの操作方法」といういうある意味での秩序を代弁する大他者の位置に来ます。従ってこの限りにおいては普通にアドバイスをしていればいい。

他方で、話し手の人生観や世界観といった私的な領域に密接に関連する悩み相談の場合、「正しい人生観や世界観」なるものが存在しない為、よっぽど相談者が助言者に心酔していない限り、助言者が大他者の位置に来ることは通常はありえないわけです。

すなわち、悩み相談において話し手にとっての聴き手とは基本的に想像的な軸上にいる想像的他者a’の位置にいるわけです。従って話し手(わたし)は聴き手(あなた)に「あたかも自分のものであるかのように」共感してくれる鏡としての役割を基本的に期待しているということになります。なので共感的理解が大事だという事になるわけです。

実際の「悩み相談」の場合、鏡を演じて話し手の感情を照射すべき場面と秩序の代弁者としてアドバイスをすべき場面が入り混じるんだと思います。ただ、何れにしても自分の価値観を押し付けるアドバイスというのは、基本的には自己陶酔にしかならないというべきなんでしょう。

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posted by かがみ at 00:00 | 心理療法