【参考リンク】

フランス現代思想概論

ラカン派精神分析の基本用語集

現代アニメーションのいくつかの断章

2021年05月24日

反復・自閉・リトルネロ



* 象徴的秩序における「時間」

我々は普通「時間」というものを「過去→現在→未来」へとあたりまえに進むものだと考えています。そして、こうした連続的に発展していく線状の「時間」の上に、我々は「記憶」を形成し「自己(物語的自己)」を規定しています。

もっとも、この「過去→現在→未来」という「時間」とは、あくまで人の象徴的秩序に属するものです。すなわち、我々の生きる「時間」とは自然発生的なものではなく、ある種の象徴的決定を経ることにより初めて生じるものであるということです。


*「記憶」の形成

この点、フランスの精神分析医、ジャック・ラカンは「盗まれた手紙のセミネール」において「Fort/Da」で有名な「エルンスト坊やの糸巻き遊び」を例に象徴的決定のシステムの組成を論じています。

すなわち、全くの偶然の連鎖にすぎない糸巻きの現前(+)/不在(−)は、コード化されることで、連鎖を支配する秩序が帰結される事になりますが、そこで同時に連鎖の不可能性が生じる事にもなる。

もっとも、ラカンによれば、まさにこの連鎖から常に抜け落ちる不可能な一点により我々は「記憶」が可能になるということです。


* 想像的縮約と象徴的共存

そして、フランスの哲学者、ジル・ドゥルーズは「差異と反復」において、上のラカンの議論を下敷きにした時間論を展開します。

ここでドゥルーズは「時間」をある種の保存能力として捉えます。この保存能力は想像的縮約と象徴的共存の二段階があります。

まず、ある瞬間が次の瞬間には保持されていない不連続的瞬間が次々と継起する非時間的位相のカオス状態から、直近と直後の瞬間を「いま、ここ」という「現在」へ構成するのが想像的縮約です。これはドゥルーズの「反復」においては「裸の反復」に対する「着衣の反復」の行使として位置づけられます。

もっとも、想像的縮約は、あくまで直近の瞬間と直後の瞬間のみを暫定的な「現在」として留めることができるに過ぎない。そこで、不連続的瞬間を個別要素として縮約した「現在」それ自体を、さらに個別要素としてその中に含み保存する大域的な時間形式である「過去」を構成するのが象徴的共存です。


* タイムスリップ現象

こうした想像的縮約と象徴的共存という二段階の保存を経たものが、多くの人にとっての「時間」という事になります。けれども、その一方でこうした「時間」とはまったく別の「時間」が存在します。この別の「時間」の位相を端的な形で示すのが自閉症におけるタイムスリップ現象です。

タイムスリップ現象とは感情的な体験が引き金となり、同様の過去の記憶体験をあたかも現在の体験であるかのように扱う現象を言います。そして、その記憶体験は言語獲得以前(つまりは、ラカンのいう象徴的決定のシステムの組成以前)まで遡ることがあります。

こうした不思議な現象を理解するには、自閉症者の棲まう時間の特異性を考えてみる必要があります。すなわち、自閉症者において時間は「過去→現在→未来」と線状に進むのではなく、むしろその都度その都度の様々な時間が点状に散在している可能性があります。このような時間構造の中では、普通の意味での「自己(物語的自己)」は成立していないことになります。


* 点状に散在する「記憶」

すなわち、自閉症者にとっては過去の記憶は巨大なデータベースの中に、時間によって整序されていない等価な「あの出来事」「この出来事」として格納されているということです。つまり、これは一つ一つの記憶(出来事)がそれぞれ、他のものには還元できない「此性」をもっている事になります。

定型発達者の「記憶」とは言語により抽象化・一般化された記憶であり、言語獲得以前の時期に体験したことは記憶に残りません。反対に自閉症者の「記憶」は言語により抽象化・一般化されていない「此性」を持った「純粋な出来事」としての「記憶」である。ゆえに自閉症者は言語獲得以前の記憶をも持ちうるということです。

自閉症者はこうした点状に散在する「記憶」を生きていながら、社会的時間に適応するため、これらの「記憶」をなんとか自力で仮にまとめあげているということです。

けれども、そこに自身が揺さぶられるような不快な体験が起こったとしたら、その仮のまとめあげが崩れ、過去が現在に侵入してくる事になります。これがタイムスリップ現象の構造です。


*「能力/技法」としての自閉的行動

このタイムスリップ現象はドゥルーズの時間論を裏側から説明しているようです。すなわち、自閉症者は大域的な時間形式としての「過去」に支えられていない暫定的なまとまりである「現在」の連続としての「時間」を生きているということです。

これはまさに底沼なしのカオスと紙一重の綱渡りに他ならない。けれども、このことは同時に自閉症者が持つ特異的な「能力/技法」の存在を示唆しています。

例えばDSM-Xは自閉症スペクトラム障害の診断基準の一つとして「限定的で反復的な行動、関心、活動」をあげています。これは具体的には⑴常同的で反復的な行動⑵同一性保持、ルーティーンへの固執、儀式化された行動、⑶きわめて限局的で固定された関心、⑷感覚的入力や環境の特定の側面に対する鋭敏と鈍感、などを言います。

こうした常同的で反復的な行動がなぜ自閉症の特徴とされるのか?それは自閉症者の生きる「時間」と密接に関わっているからです。すなわち、自閉症における常同的で反復的な行動は「症状」というよりは、むしろ象徴的共存なきところでの想像的縮約により「裸の反復」に対する「着衣の反復」を生み出す「能力/技法」であるということです。



* リトルネロ

そして後に、ドゥルーズは後にこうした「裸の反復」に対する「着衣の反復」をより肯定的な概念へと洗練させます。すなわち、それがフェリックス・ガタリとの共著「千のプラトー」において提出された「リトルネロ」です。



暗闇に子どもがひとり。恐くても、小声で歌を歌えば安心だ。子どもは歌に導かれて歩き、立ち止まる。道に迷っても、なんとか自分で隠れ家を見つけ、おぼつかない歌を頼りにして、どうにか先に進んでいく。

歌とは、いわば静かで安定した中心の前ぶれであり、カオスのただなかに安定感や静けさをもたらすものである。子どもは歌うと同時に跳躍するかもしれないし、歩く速度を早めたり、緩めたりするかもしれない。だが、歌それ自体がすでに跳躍なのだ。

歌はカオスから跳び出してカオスのなかに秩序をつくりはじめる。しかし、歌には、いつ分解してしまうかもしれないという危険もある。

(千のプラトーより)



リトルネロ。同じ節や文句の反復。それは絶えず生成流転するカオスを相対的に減速させる暫定的な秩序を設立する営みに他ならない。もちろん、それはあくまで暫定的なものであり、ひとたび紡ぎあげたリトルネロも、いつまたバラバラになるかわからない。

こうしてリトルネロは、まさに子どもが暗闇の中で歌を口ずさむことで、おぼつかないながらも歩き出したり足を止めたりするように、途切れ途切れに展開していきます。それはある種の環境調整でもあると同時に、世界を「有限化」する技法でもあります。


* 世界に「住み処」を見出すということ

周知の通り「千のプラトー」の枢要概念となるのは「リゾーム」です。確かに近代秩序という「ツリー」が曲がりなりにも機能していた当時において、そのオルタナティブとしての「リゾーム」は、ある種の「華麗なる逃走」としての輝きを放っていました。

けれども、近代秩序という「ツリー」が完全に解体され、全世界がグローバル化/ネットワーク化という「リゾーム」に覆われた現代においては、むしろ接続過剰な世界の中に自分なりの「住み処」を見いだす「リトルネロ」の方に我々は賭け金を置くべきなのでしょう。

そういった意味で、現代における哲学/精神分析が切り開くべきフロンティアは、まさしく自閉症者の懸命な日常実践の中にこそ見出されるのではないでしょうか。











posted by かがみ at 23:19 | 心理療法

2021年04月25日

閉じることによって開かれるということ−−自閉症の世界



* はじめに

「自閉(Autism)」という言葉の起源は1911年、スイスの精神科医、オイゲン・ブロイラーの統合失調症論に見出されます。ここで「自閉」とは、外界との接触が減少して内面生活が病的なほど優位になり、現実からの遊離が生じることを指しています。

それからおよそ30年後の1943年、アメリカの児童精神科医レオ・カナーが「早期幼児自閉症」という論文を発表し、ここで「自閉」という言葉は単独の疾患概念となります。もっとも当時は自閉症は幼児期に発症した統合失調症と考える見解が依然として多数でした。ところがその後、認知領域・言語発達領域における研究の進展に伴い、1970年代には自閉症は脳の器質的障害であり、統合失調症とは別の疾患だと考えられるようになります。

その一方でカナー論文の翌年、1944年にはオーストリアの小児科医ハンス・アスペルガーによる「小児期の自閉的精神病質」という論文が発表されています。このアスペルガー論文は諸般の事情があり長らく日の目を見ることがなかったわけですが、1980年代になってイギリスの精神科医ローナ・ウィングにより再発見されます。

ウィングは成人の症例にもアスペルガー論文の症例と同様の特徴が見られることを発見し、その一群をアスペルガー症候群と名付けます。アスペルガー症候群はカナー型自閉症の診断基準を部分的に満たす症例であり、とりわけ非言語的コミュニケーションに難がある点に特徴があります。

ここで自閉症は「社会性障害」「コミュニケーション障害」「イマジネーション障害」として再定義されます(ウィングの三つ組)。こうしたことから自閉症を「スペクトラム(連続体)」と捉える考え方が有力となり、2013年に改訂された「精神障害の診断と統計マニュアル第5版(DSM-X)」において、カナー型自閉症とアスペルガー症候群は「自閉症スペクトラム障害(Autism Spectrum Disorder)」として統合されることになります。その診断基準は概ね以下の通りです。



以下のA、B、C、Dを満たしていること。

A 社会的コミュニケーションおよび相互関係における持続的障害(以下の3点で示される)

 1 社会的・情緒的な相互関係の障害。

 2 他者との交流に用いられる非言語的コミュニケーション(ノンバーバル・コミュニケーション)の障害。

 3 年齢相応の対人関係性の発達や維持の障害。

B 限定された反復する様式の行動、興味、活動(以下の2点以上の特徴で示される)

 1 常同的で反復的な運動動作や物体の使用、あるいは話し方。

 2 同一性へのこだわり、日常動作への融通の効かない執着、言語・非言語上の儀式的な行動パターン。

 3 集中度・焦点づけが異常に強くて限定的であり、固定された興味がある。

 4 感覚入力に対する敏感性あるいは鈍感性、あるいは感覚に関する環境に対する普通以上の関心。

C 症状は発達早期の段階で必ず出現するが、後になって明らかになるものもある。

D 症状は社会や職業その他の重要な機能に重大な障害を引き起こしている。


その他、知的障害やその他の発達の遅れではうまく説明できないことが確認された時、当該疾患は自閉スペクトラム障害と診断されることになります。端的にいうと、ASDの特性とは「社会的コミュニケーションの持続的障害」と「常同的反復的行動・関心」という2点から成り立ちます。具体的には「相手の気持ちや場の空気を読めない」「言葉をそのままの意味で受け取ってしまう」「他人の表情や態度などの意味が理解できない」「相手が2人以上になるとわけがわからなくなる」「独自のルール・こだわりに執着する」といった特性をいいます。

もっとも自閉症における様々な臨床例は、こうしたDSMの操作的診断基準だけで捉えきれるものではありません。以下では、今日の精神病理学からみた自閉症の世界をいくつか素描してみようと思います。


* 同一性保持

いわゆる「症例ドナルド」は1943年にカナーが発表した自閉症における世界初の症例報告です。本症例の患者、ドナルドは驚くべきことに1歳の時点で多くの詩歌を暗唱することができて、2歳前には23番の讃美歌と長老派の25もの教義問答の質問と答えを覚えたそうです。

ところが彼は様々な言葉を覚えることは得意だけれども、これらをを分節化して臨機応変に組み変えて使うことができなかった。定型発達者の場合、おおよそ1歳で一語文を獲得して、2歳で二語文を獲得します。つまり定型発達における2歳児は「ママ、いた」「ぼく、ごはん」などのように、2つの言葉を組み合わせて使えるということです。これに対してドナルドは、最初の一語文しか使えない状態のままで様々な言葉を覚えてしまったわけです。

例えばドナルドは母親の「あなたの靴を引っ張って」というひとかたまりの言葉と「靴を脱ぐ」という行動を1対1で結びつけています。ドナルドにとって「あなたの靴を引っ張って」という母親の言葉は「あなた/の/靴/を/引っ張って」というふうにいくつかの単語が分節化されたものではなく、むしろ「開けゴマ!」のような「靴を脱ぐための呪文」として扱われています。ゆえにドナルドは「あなたの靴を引っ張って」という呪文を、後日、自分が靴を脱ぎたくなったときにもそのまま反復的に使用するようになります。

彼は最初に覚えた言葉を、まるでテープを再生するかのように同じ形で、つまりは臨機応変に組み変えることなく、最初に覚えた時のままの状態で繰り返しています。このような特徴をカナーは「同一性保持」と表現します。


* タイムスリップ現象

カナー型の自閉症例においては、しばし「此性」の充溢というべき事態が出現することがあります。その一つがタイムスリップ現象です。タイムスリップ現象とは感情的な体験が引き金となり、同様の過去の記憶体験をあたかも現在の体験であるかのように扱う現象を言います。そして、その記憶体験は言語獲得以前まで遡ることがあります。

こうした不思議な現象を理解するには、自閉症者の棲まう時間の特異性を考えてみる必要があります。普通、我々にとって時間とは「過去→現在→未来」へとあたりまえに進むものであり、記憶もまた過去のことが現在に至るまで連続的に発展してきたものとして与えられており、未来もまた現在から連続的に発展するものだと漠然と考えられます。そしてそのような線状の時間の上に、自分が何者であるかをある種の「物語」として規定する自己(物語的自己同一性)が成立します。

これに対して自閉症者において時間は「過去→現在→未来」と線状に進むのではなく、むしろその都度その都度の様々な時間が点状に散在している可能性があります。このような時間構造の中では、普通の意味での自己(物語的自己同一性)は成立していないことになります。

すなわち、自閉症者にとっては過去の記憶は巨大なデータベースの中に、時間によって整序されていない等価な「あの出来事」「この出来事」として格納されているということです。つまり、これは一つ一つの記憶(出来事)がそれぞれ、他のものには還元できない「此性」をもっている事になります。

定型発達者の記憶とは言語により抽象化・一般化された記憶であり、言語獲得以前の時期に体験したことは記憶に残りません。反対に自閉症者の記憶は言語により抽象化・一般化されていない「此性」を持った「純粋な出来事」としての記憶である。ゆえに自閉症者は言語獲得以前の記憶をも持ちうるということです。

自閉症者はこうした点状に散在する記憶を生きていながら、社会的時間に適応するため、これらの記憶をなんとか自力で仮にまとめあげているということです。けれども、そこに自身が揺さぶられるような不快な体験が起こったとしたら、その仮のまとめあげが崩れ、過去が現在に侵入してくる事になります。これがタイムスリップ現象の構造です。


* 此性の不在

その一方で、アスペルガー症候群においては逆に「此性」の不在というべき事態が出現します。これは具体的には人の顔や名前を覚えるのが苦手という事象として現れます。

定型発達者の場合、顔を一つのゲシュタルト(まとまり)として認識しています。ところがアスペルガー症候群の症例においては、他人の顔を一つのまとまりとして認識できないケースが見られます。その場合、人物の特定は、目や鼻や髪型など顔の構成要素、身体的特徴、あるいは出会う場所と時間など様々な情報の組み合わせによって行われます。従って、この組み合わせが少しでも変わってしまうと人物の特定がたちどころに困難になるわけです。

この点「此性」の機能は固有名をめぐる記述主義と反記述主義の対立から理解できます。記述主義の立場では固有名は確定記述(=その固有名を定義する属性や説明)の束に還元できるとされます。例えば「アリストテレス」という固有名は「古代ギリシアの哲学者」「アレクサンダー大王の師」といった一連の確定記述の束に還元されます。他方で反記述主義の立場からは、固有名は確定記述の束には還元できず、むしろ確定記述に還元しようのない「あのアリストテレス」「このアリストテレス」という「此性」こそが固有名を支えているとされます。

つまりカナー型自閉症に見られる「此性」の充溢は「固有名」を「此性」が支える反記述主義の立場から、アスペルガー症候群に見られる「此性」の不在とは「固有名」を「此性」が支えることなく確定記述の束に還元する記述主義の立場から、それぞれ並行的に理解できるということです。この二つのケースはまさしく両極端に見えますが、自閉症者の中ではしばしばこれらの特徴が矛盾なく同居することがあります。


* 志向性遮断とブラックホール体験

先述したドナルドは他者にまるで興味がなく、人見知りもせず、その一方でフライパン回しなど一人遊びを好み、それを他者に妨げられるとかんしゃくを起こすことがあったそうです。こうしたドナルドの振る舞いは他者から自分に向けられた「志向性」を遮断しているように見えます。

ここでいう「志向性」とは他者からの「まなざし」や「声」という形で自分の側に向けられたベクトルのことを言います。他者と自然と目を合わせたり、呼びかけに応じたり、他者の存在を前提にした振る舞いなどは志向性に気づくことで生じる間主観的な行動ということです。

他者からの「まなざし」や「声」を遮断することで自閉症者は自分だけの他者性のない安定した世界を作り上げようとします。そしてこの志向性遮断が破れ世界に他者性が侵入してくる時、自閉症者の世界は破滅的な状況に陥ってしまい、この混乱をより強い刺激で収めようとして、時には飛び降りやリストカットといった衝動的な自傷行為を起こしてしまうことがあります。

こうした破滅的な状況は「ブラックホール体験」と呼ばれます。この「ブラックホール体験」は自閉症の世界が「欠如の欠如した世界」であることを示しています。自閉症者がパニックに陥るのは他者の「まなざし」や「声」が彼らを触発して、その内的世界の中になんらかの「不在」が現れる時です。この点、定型発達者は不在を「あるべきものがない」という「欠如」として象徴的に処理します。ゆえに定型発達者は「不在」に対してそれほどパニックになることはありません。

ところが自閉症者はこの象徴化が上手くいっていない為「不在」を「欠如」として象徴的に処理することができない。こうして何の「不在」のないはずの「欠如の欠如した世界」の中に突如現れた「不在」はこれまで体験したことのない「現実的な穴=ブラックホール」として現れて根源的不安を引き起こすことになるわけです。


* 閉じることによって開かれるということ

このように見ていくと、自閉症における様々な「症状」は、定型発達者のように「言語」という象徴化の回路とは別の仕方でどうにか世界へ棲まうための営みという側面も持ち合わせているように思えます。

この点、ラカン派精神分析では自閉症を「シニフィアン」と「享楽」の2つの側面から把握します。まず、自閉症をもっぱら「シニフィアン」の側面のみで捉えた時、それはラカン派のタームでいうところの原初的象徴化の失敗、疎外の拒絶に他ならず、この限りにおいては自閉症と精神病(統合失調症)は同一圏内にあるということになります。こうしたことからラカン派において自閉症は長らく「子どもの精神病」と考えられてきました。

ところが1980年代以降、テンプル・グランディンの「我、自閉症に生まれて」や、ドナ・ウィリアムズの「自閉症だった私へ」といった自閉症者の伝記出版が相次ぎ、自閉症者の内的世界が徐々にあきらかになりました。そしてラカン派内部でも、自閉症を「シニフィアンの病理」のみならず「享楽の病理」という側面から仔細な検討が加えられ、ルフォール夫妻による「〈他者〉の不在」とエリック・ロランによる「縁の上への享楽の回帰」という概念の導入によって、自閉症は精神病から決定的に切り離されることになります。

こうした観点から現代ラカン派における自閉症論を「縁の上の享楽の回帰」「分身」「合成〈他者〉」という三つ組の概念により体系化したのがジャン=クロード・マルヴァルです。このマルヴァルによる自閉症論の体系はドナ・ウィリアムスの次の言葉に集約されています。

これはふたつの闘いの物語である。ひとつは、「世の中」と呼ばれている「外の世界」から、私が身を守ろうとする闘い。もうひとつは、その反面なんとかそこに加わろうとする闘いである。

−−自閉症だった私へ(24頁)


世界から身を守りつつ世界へ加わろうとすること。閉じることによって開かれるということ。自閉症の世界における様々な事象は「症状」というよりも、むしろ世界に棲まうための「闘い」であり、もはやそれは一つの「技法」と呼ぶべきものでしょう。そしてこうした「自閉的技法」はエディプス的幻想が失墜した「ポスト・神経症時代」における現代的主体のパラダイムを照らし出しているように思えます。












posted by かがみ at 21:28 | 心理療法

2021年03月27日

形而上学・否定神学・郵便空間



* 反-哲学としての脱構築

西洋哲学史はプラトン哲学の註釈史であるという有名な言葉があります。西洋哲学の父は周知の通りプラトンの師であるソクラテスですが、ソクラテス自身は何も書き残さなかった人ですので、ソクラテスの言葉を書き留めたプラトンの哲学をもって西洋哲学は始まったともいえます。
 
そしてプラトンが創始した哲学は別名「形而上学」と呼ばれています。形而上学は世界を「内部/外部」という二項対立へ切り分けることで構築されてきました。近代の自然科学の発展を支えたのも、まさしくこうした形而上学的思考に他なりません。
 
こうした形而上学に対して叛旗を翻したのが、しばし20世紀最大の哲学者と形容されるマルティン・ハイデガーです。ハイデガーの主著である「存在と時間」はこうした形而上学の歴史を「解体」することで、歴史の彼方に置き去りにされた根源的な「存在」の経験を問うという巨大な構想を持つものでした。
 
けれども、ハイデガーは、形而上学の解体をまさに当の形而上学の言葉で行おうとしたため「存在と時間」の構想は破綻し同書は未完の憂き目を見る。その後、同書はハイデガーの意に反して形而上学の極みともいえる「実存哲学の聖典」として祀りあげられた。その一方で、同書の真の目的であった「存在の問い」を遂行し続けた後期ハイデガーの言説は何かわけのわからない秘教的言説のように思われ、これが長らくハイデガーの「転回」として理解されてきました。
 
いわばハイデガー哲学とは形而上学の「解体(デストルクチオーン)」を目指した「反-哲学」と呼べるものです。こうしたハイデガーの「反-哲学」を「脱構築(デコンストリュクシオン)」の名において継承したのが、フランスの(反)哲学者、ジャック・デリダです。
 

*「いわゆる脱構築」と「もう一つの脱構築」

「脱構築」とは既存の枠組みを「脱」して新しい枠組みを「構築」する事を言います。このような「脱構築」を武器に、1960年代におけるデリダは様々なシステム/テクストにおける「内部/外部」の二項対立を快刀乱麻の如く斬り捨てていきます(「グラマトロジーについて」「エクリチュールと差異」)。ところが1970年代になるとデリダは何を思ったのか、これまでの明晰な文体を放棄して、何が言いたいのかよく分からない奇妙なテクストばかり書くようになります(「弔鐘」「絵葉書」)。

70年代におけるデリダのテクスト群は謎の実験文学として、デリダ研究の中でも長らく見て見ぬふりをされてきました。こうした中で「なぜデリダはそのような奇妙なテクストを書いたのか?」という問いに徹底してこだわり、ここからデリダの「いわゆる脱構築」とは別の「もう一つの脱構築」を取り出すことに成功したのが東浩紀氏のデビュー作「存在論的、郵便的」です。

同書はかつての「ニューアカデミズム」を牽引した浅田彰氏の激賞とともに世に送り出され、東氏は一躍、現代思想界の若き俊英として脚光を浴びることになりました。では、ここで示された「いわゆる脱構築」とは別の「もう一つの脱構築」とは一体何なのでしょうか?


*〈かもしれない〉という幽霊

ある具体的なシステム/テクストの「こうである/そうでなかった」という解釈の背後には「こうでなかったかもしれない/そうだったかもしれない」という「可能性の束」が無数にひしめいています。こうした「可能性の束」をデリダは「幽霊」と呼びます。

「幽霊」とは反復可能性がもたらす「こうでなかったかもしれない/そうだったかもしれない」という変異のことであり、同時に事実としては「こうである/そうでなかった」という唯一性でもあります。所詮「幽霊」は「幽霊」でしかない。けれどこうした〈かもしれない〉という「幽霊」の声に真摯に耳を傾けようとした結果が、まさに70年代におけるデリダの変化でもあります。これがデリダの「郵便空間」です。


* 手紙は宛先に届かないかもしれない

この点、フランスの精神分析医、ジャック・ラカンがその難解極まりない事で知られる主著「エクリ」の冒頭に置いた「盗まれた手紙のセミネール」はラカン派精神分析の基本的思考が集成されたテクストとして知られています。

このセミネールは表題通り、エドガー・アラン・ポーの有名な短編小説「盗まれた手紙」をラカンが解釈するものです。そこでラカンは、ポーの小説の中で特権的な役割を果たす「手紙」に注目し「手紙は常に宛先に届く」というテーゼを提出します。

「言うなれば送信機は受信機から自分自身の伝言を逆さまの形式をとおして受け取るのです。それゆえ〈盗まれた手紙〉さらには〈保管中の手紙〉なる言葉の真意は、手紙というものはいつも送り先に届いているということなのです。(E41)」

これに対してデリダは「盗まれた手紙のセミネール」の批判的読解である「真理の配達人」において「手紙は宛先に届かないかもしれない」というテーゼを提出します。どういうことでしょうか?


* 形而上学・否定神学・郵便空間

この点、東氏によれば「真理の配達人」においてデリダは二重の批判を行なっている事になります。すなわち、それは「形而上学的システム」への批判と「否定神学的システム」への批判ということです。

まず形而上学的システムにおいて、全てのシニフィアンはそれぞれ対応するシニフィエに回付され、こうしたシニフィアンの循環運動は最終的には超越論的シニフィエによって担保されます。ここではオブジェクトレベルとメタレベルは完全に峻別される。この認識構造を図式化すれば底面が頂点によって吊り支えられた円錐構造となる。こうした形而上学的システムの例としてルードヴィヒ・ウィトゲンシュタインの論理実証主義やエトムント・フッサールの超越論的現象学があげられます。

これに対して否定神学的システムにおいては、シニフィアンの循環運動の完全性を不可能にする「穴」を発見する。しかしこの「穴」は「シニフィエなきシニフィアン」という超越論的シニフィアンで名指され、全てのシニフィアンの運動はこの超越論的シニフィアンに回収される。ここでオブジェクトレベルとメタレベルは短絡される。この認識構造を図式化すれば底面と頂点の間で循環運動が生じるクラインの壺構造となる。

こうした否定神学システムを整備したのがハイデガーの存在論であり、これをより洗練させたのがラカン派精神分析ということになります。すなわち、ラカンがいう「手紙は常に宛先に届く」とは「全てのシニフィアンは常に唯一のシニフィエなきシニフィアンへ回付される」という事です。

否定神学システムは形而上学システムでは説明できない世界の「限界」や「過剰」を巧妙に説明してくれます。しかし同時に否定神学システムは世界の「限界」や「過剰」を単数的な超越性へと回収してしまいます。ここに複数的な超越性の「可能性の束=幽霊」を導入するのがデリダの郵便空間システムです。

すなわちデリダのいう「手紙は宛先に届かないかもしれない」とは「全てのシニフィアンは想定外のシニフィアンに誤配されるかもしれない」ということです。手紙は宛先に届かない〈かもしれない〉。仮にそれが正しい宛先に届いた時だって、別の宛先に届いた〈かもしれない〉。こうした「可能性の束=幽霊」が常に郵便空間には内在しています。


* 存在論的、郵便的

こうしたことから東氏はデリダの脱構築を二つに分けます。すなわち、まず「差延」などに代表される「いわゆる脱構築」をハイデガー由来の否定神学システムからなる「(論理的-)存在論的脱構築」として名指した上で、ここから逃れる「もう一つの脱構築」の可能性としてフロイト由来の「(精神分析的-)郵便的脱構築」を提示することになります。

この点、存在論的脱構築も郵便的脱構築も世界(Da)から排除された「不可能なもの」を言語化しようとする点では共通します。もっとも存在論的脱構築にとって「不可能なもの」とは単数的な観念です。そして「不可能なもの」の存在論化においては哲学素の固有名化が利用されるため、その言説は後期ハイデガーのようにかなり秘教じみたものになります。

これに対して、郵便的脱構築は「不可能なもの」を複数的な物質として捉えます。そしてここで用いられるのは精神分析における転移のメカニズムです。いわば哲学素の転移化です。

郵便的脱構築において用いられる転移技法は「古名」の操作と呼ばれます。これはまず⑴ある概念に還元される様々な確定記述が抜き取られ、次に⑵残ったその概念の名を利用した確定記述の「接木/拡張」という二段階で行われます。

こうした「古名」の操作を可能とするのが、あらゆるシニフィアン(表象)に宿る確定記述の束に等置不可能な「剰余(plus)」です。そしてこの「剰余(plus)」はあらゆるシニフィアンと、その背後に取り憑いている「コーラ(=器)としてのエクリチュール」との間に生じる差延から生じます。
 

* シニフィアンとエクリチュールの二重性

すなわち、ハイデガーとデリダの世界(Da)の相違は以下のようなものです。ハイデガーの世界(Da)はシニフィアン(存在者)のみで構成されており、そこにはひとつの穴(存在)が空いている。ここからクラインの壺の底面と頂点を短絡させるクラインの管を経由して超越的審級から「存在の声」が降り注ぎます。

これに対してデリダの世界(Da)はシニフィアン(存在)とエクリチュール(幽霊)の二重構造になっており、その二重性の間から崩落したものが無意識という「郵便空間」を経由して「幽霊の声」として再来する。こうした「コミュニケーションの失敗=誤配」の可能性をあらゆるレベルのコミュニケーションに見出すのが「存在論的、郵便的」の理論的核心となります。


* 「大きな物語」の失墜と郵便的不安

「存在論的、郵便的」は「なぜデリダはそのような奇妙なテクストを書いたのか?」という問いから出発しました。ではなぜ東氏はデリダの奇妙なテクストを読み解くテクストを書いたのでしょうか?それは畢竟、本書が書かれた当時の日本社会がまさにデリダ的な状況にあったからに他なりません。

1995年以降の日本社会は社会共通の価値観である「大きな物語」が失墜した、いわゆる「ポストモダン」と呼ばれる状況へと突入しました。これはラカン派精神分析でいうところの「象徴界の機能不全」と呼ばれる状況です。そして、こうした状況で生じる感覚を東氏は「郵便的不安」と呼びます。それは「大きな物語」という上位審級なきところで乱立する「小さな物語」同士が衝突した時に生じる「誤配」を恐れる不安のことです。

こうした郵便的不安から逃れるための処方としてひとまず考えられるのは、一方ではフェイクでもなんでもいいから「大きな物語」を強引に捏造する方向性と、他方ではただただ「小さな物語」の中で充足する方向性です。

けれども前者が極端化すればこれはカルト宗教となり、後者が極端化すればこれは引きこもりとなる。結局、一番穏当な処方としては両者の間をいく道でしょう。すなわち「大きな物語」なきところで乱立する「小さな物語」の間を横に突き抜けていく契機を作り出すということです。

そこで必要なのは「コミュニケーションの失敗=誤配」から生じる「郵便的不安」から逃げるのではなく、これを反転させて、むしろ「郵便的享楽」とでも呼ぶべきものに変えていく方略です。デビュー以降、東氏の哲学の根底には一貫して、こうした「コミュニケーションの失敗=誤配」をいかに肯定していくかという問題意識があります。


*「誤配」を歓待するということ

こうした東氏の問題意識は同時にゼロ年代という時代を規定した問題意識でもありました。そして、そのひとつの到達点が「つながり」という名の想像力です。

異なる物語を生きる他者同士の交歓から芽生える可能性への信頼としての「つながり」。それは一見して、異なる物語を生きる他者同士の理想の関係性の有り様に思えます。こうしたことから、ゼロ年代後半から2010年代初頭においては「つながり」こそが世界を変えるというどこか希望めいた空気感がありました。

もちろん、こうした「つながり」自体が直ちに悪いものというわけではありません。けれども、こうした「つながり」が閉じたものになるのであれば、それは自ずから「新たな小さな物語」となり、その内部には同調圧力を発生させ、その外部には排除の原理が作動します。そういった意味で2010年代とはまさに様々な「つながり」たちによる「動員と分断の時代」でもありました。

人は常に何かしらの物語に囚われてしまう存在です。けれども物語を内に閉じる限り、不可避的に他者は友と敵に切り分けられる。そうならない為には、物語を内に閉じることなく常に外に開き続ける必要がある。それがまさしく「誤配」を歓待するということです。

「誤配」を歓待するということ。物語の外で手を取り合うことで物語は書き換わる。人は物語に囚われてしまう存在です。けれど同時に人は物語を書き換える事ができる存在でもあります。そしてこの「ある物語」から「別の物語」への跳躍の間にこそ、人の実存的な生の輝きの在り処を見ることができるのではないでしょうか。












posted by かがみ at 23:59 | 心理療法

2021年02月26日

別のしかたでの欲望−−アンチ・オイエディプスから動物化するポストモダンへ




* ふつうの精神病とふつうの倒錯

1970年代以降、フランスや日本を含む西側先進諸国では、消費化情報化社会の進展を背景に「ポストモダン」と呼ばれる社会の断片化が加速していきました。「ポストモダン」とはある特定の社会を統合する共通秩序としての「大きな物語」がもはや機能不全となった社会ということです。

こうした「大きな物語」の機能不全をラカン派精神分析では「象徴界」の機能不全として捉えます。フランスの精神分析医、ジャック・ラカンは人の精神活動を「想像界」「象徴界」「現実界」という三つの位相で捉えました。そしてラカンによれば人の心的構造は「象徴界」を内在化させているか否かで「神経症」「精神病」「倒錯」のいずれかに分類されます。

すなわち「大きな物語=象徴界」の機能不全とは「いわゆる正常=神経症」という等式を揺るがせる事態ということです。こうしてラカン派内部では「ポスト神経症時代」の主体をいかに捉えるかという議論が活性化しました。

この点「École de la cause freudienne(フロイト大義学派)」を率いるラカンの娘婿、ジャック=アラン・ミレールは「ふつうの精神病」なる暫定的カテゴリーを提唱します。「ふつうの精神病」とは古典的な「並外れた精神病」のような幻覚や妄想はないけれど、その心的構造に明らかな精神病的特徴が見られるような主体を言います。

これに対して「Association Lacanienne Internationale(国際ラカン協会)」を創設したジャン=ピエール・ルブランは「ふつうの倒錯」なる概念を提唱します。「ふつうの倒錯」は「真正の倒錯」と同様「否認」というメカニズムによって基礎づけられます。この点「真性の倒錯」においては「象徴的去勢=享楽の喪失」という「欠如」を「拒絶」するという「積極的否認」により自らを主体化します。けれども「ふつうの倒錯」の場合、この主体化自体を「回避」するという「消極的否認」にその特徴があります。そして、このような「ふつうの倒錯」における主体化を回避した主体を「ネオ主体」と言います。


*「アンチ・オイエディプス」から考える

これに対して「ポスト・構造主義」の代表と目されるフランスの哲学者、ジル・ドゥルーズと精神分析家、フェリックス・ガタリはその共著である「アンチ・オイエディプス−−資本主義と分裂症(1972−−以下AO)」において精神分析における「いわゆる正常=神経症」という等式自体をラディカルに批判し、いわば「神経症の精神病化」を目指す「分裂分析」を提唱しました。

AOはフランス内外で熱狂的に歓迎され1970年代の大陸哲学における最大の旋風の一つを巻き起こしました。日本でも1980年代における「ニュー・アカ」と呼ばれる思想的流行以降、ドゥルーズ&ガタリは現代思想や批評に少なからぬ影響力を行使しています。

そしてその核心にあるのは精神分析的欲望=神経症的欲望から解放された「新たな欲望」の主体の肯定です。1980年代における浅田彰氏のスキゾ・キッズ支持、1990年代の宮台真司氏のコギャル支持、そしてゼロ年代の東浩紀氏のオタク支持など、それぞれの時代の思想をリードした言説はまさにこうした流れの中に位置づけることができるでしょう。

では、こうした「新たな欲望」の主体はラカン派における「いわゆる正常=神経症」「(ふつうの)精神病」「(ふつうの)倒錯」の枠組みのどこに位置づけられるのでしょうか?この点に関して千葉雅也氏は〈倒錯の強い定義〉という極めて興味深い概念を提示しています。


* 欲望の二重性

まず千葉氏は、精神分析的欲望=神経症的欲望から解放された「新たな欲望」を〈別のしかたでの欲望〉と名指した上で、この「欲望の二重性」のバランスを前者と後者のどちらに寄せるかについて以下の三類型を挙げています。

(a)〈別のしかたでの欲望〉を全く精神分析的ではない「動物的な欲求」へと振り切れさせるパターン。これは東浩紀氏が「動物化するポストモダン(2001)」において展開した議論です。

(b)〈別のしかたでの欲望〉をあくまでも神経症的欲望を前提とした多かれ少なかれの倒錯化として捉えるパターン。これはスラヴォイ・ジジェクや斎藤環氏の立場に近いとされます。

(c)〈別のしかたでの欲望〉を肯定されるべき「分裂病」の解放とみなすパターン。これは古典的なドゥルーズ=ガタリ主義です。

こうした三類型を前提として氏が提示する〈別のしかたでの欲望〉とは「非-精神分析的主義(a)」と「(神経症の前提をカットした)故障させられた精神分析主義(b’)」を「倒錯的な精神病(c’)」を媒介として縫合するという、かなりアクロバティックな議論です。


* 精神病と倒錯のオーバーダブ

ラカンは「欲望とは他者の欲望である」という有名なテーゼを提示しました。すなわち、神経症的欲望とは他者との間主観的なネットワークを前提として、究極的には千葉氏のいう〈性別化のリアル〉に回収される欲望ということです。

これに対してAOにおいてドゥルーズ=ガタリは、他者との間主観的なネットワークから切断された他方向にどうでもよく発散する〈欲望機械〉が〈全体化しない全体=器官なき身体〉として個体化されると主張します。

以上のような「欲望機械→器官なき身体」という説はAO以前にドゥルーズ単著である「ザッヘル=マゾッホ紹介(1967)」において萌芽的に見出される。そこでドゥルーズはマゾヒストが他者からの暴力を勝手に(他者の欲望から切断された)快楽と化してしまうことを欲望のあり方として肯定した。こうした欲望のあり方を千葉氏は〈欲望の間主観的な因果性を「否認」して勝手に享楽する個体性の肯定〉といいます。

すなわち、ドゥルーズ=ガタリはAOにおいて神経症の精神病化を誇張的に肯定しましたが、その背景にはマゾヒズム論としての倒錯論が潜んでいる。この事実は神経症的欲望ではない〈別の仕方での欲望〉をいわば精神病と倒錯のオーバーダブとして捉える立場を示唆しています。


* 否認的な排除−−〈倒錯の強い定義〉

すなわちAOにおいて展開される「分裂症論」はそれ自体、精神病的というわけではない。彼らの理想化する「分裂症者」は〈性別化のリアル〉を初めから排除しているのではなく、排除している「かのように」逃げ続ける主体だと思われる。

この「かのように」という偽装性を「否認」的であると解釈する余地がある。ドゥルーズ=ガタリの言う「神経症の精神病化」とはいわば「否認的な排除」であり、彼らの狙いは〈倒錯的な精神病〉という折衷案であったことになる。

この〈性別化というリアル〉を排除している「かのように」否認するという「否認的な排除」を極めて強く誇張するならば、倒錯は神経症/精神病をベースとした精神分析の有効性を「無効化せずに否認する立場」として再定義されうる。

すなわち「否認的な排除」とは非-精神分析主義における「精神分析はオワコン」というある種の断定に他ならない。こうして倒錯は「精神分析圏内の否認」と、精神分析それ自体の否認により開かれる「精神分析圏外の否認」をショートサーキットすることで〈性別化のリアル〉を「否認的に排除」する態度として再定義される。これが精神分析それ自体に対する「メタ倒錯」としての氏のいう〈倒錯の強い定義〉です。


* 動物化するポストモダン再読−−「クィアな動物化」と「頭空っぽ性」

ここから氏はさらに論を進め、東浩紀氏の「動物化するポストモダン」における議論を「否認的な排除」の観点から読み直します。すなわち氏によれば、東氏のいう「動物化」とは「非-精神分析主義」の方へ振り切れた動物的な欲求から、文字通り動物的に「異性愛-生殖規範性」をストレートに肯定し、その上に「認知的習慣化」としての対象(二次元美少女)へのアディクション(萌え)が便乗している「異性愛-生殖規範性的な動物化」を言います。

そして、ここから氏は「クィアな動物化」の可能性を思弁して、その範例を「女装する女性」としての「ギャル(男)」に見出します。神経症的囚われを「否認」した軽量化された身体性と有限化された社交性。その欲望の多すぎる理由づけを忘却したかのような「どうでもよさ」の中心にある「どうでもよくなさ」。こうした「ギャル(男)」の特性を氏は「頭空っぽ性 airhead-ness」という言葉で概念化しています。

こうしてみると「否認的な排除」という観点は現代サブカルチャー批評に新たな視界をもたらす可能性があるように思えます。そして、こうした千葉氏の議論を現代ラカン派の枠組みの中に無理やり接続するのであれば、おそらく「(ふつうの)精神病」である「かのように」振る舞う「(ふつうの)倒錯」ということになるのではないでしょうか。だとすれば〈動物化〉とはラカンのいうところの特異性としての「症状」に相当する事になるのではないでしょうか。

いずれにせよ「大きな物語」という規範性が失墜した現代において「神経症から倒錯へ」という流れは避ける事のできない現実と言えます。そして確かに言えることは、こうした現実それ自体を「否認」して従来の「いわゆる正常=神経症」である「かのように」振る舞う態度は、おそらく多くの場合において、様々な「生きづらさ」が降りかかる茨の道となるようにも思えます。



参考:あなたにギャル男を愛していないとは言わせない−−倒錯の強い定義(千葉雅也「意味のない無意味」より)











posted by かがみ at 19:51 | 心理療法

2021年01月31日

実存と構造



* 果たして主体は存在するのか

我々は普段、自らを自由意志に基づいた主体として行動しているように思い込んでいます。けれど我々は時として、自由意志を超えた「何者か」によって「行動させられている」ようにも感じる事があります。

果たして自由意志に基づいた主体なるものは本当に存在するのでしょうか?ここで問題になるのが「実存」と「構造」の関係です。


* 実存は本質に先立つ

この点、自由意志に基づいた主体の存在を最大限に肯定したのがジャン=ポール・サルトルに代表される「実存主義」です。サルトルは1945年に行われた「実存主義はヒューマニズムか?」と題する講演において、次のように言います。

いま仮にここに1本のペーパーナイフがあるとする。これがどのようにして作られたのかというと、職人がまず頭の中にこれから作るペーパーナイフの姿を、いわばその「本質」を思い浮かべてから制作に取り掛かったはずである。すなわち物品の場合、その「本質」は「実存」に先立つ事になる。

ところが、人間の場合は全く逆である。もし神が天地の創造者だとすれば、神は一人の職人になぞらえることができる。そうであれば神は人間を創造する前に、自分がこれから作り出す人間の「本質」をあらかじめ知っていなければならない。従って人間の「実存」に先立ち、神の思考のうちに人間の「本質」が存在しなければならない。

けれども、今ここで仮に神の存在を括弧に入れるのであれば、全ての人間に共通した一つの「本質」というものが始めに存在することはあり得ないことになる。したがって人間の場合は物品の場合と異なり「実存は本質に先立つ」と言わねばならない。


* 実存とは何か

実存は本質に先立つ。こうしたサルトルのテーゼは、何か我々を勇気づける素晴らしい力を宿しているような気がします。では一体、ここでいう「実存」とは何なのでしょうか?

ここでサルトルが行ったのは「本質(essence)」と「実存(existence)」の区別です。この点「実存(existence)」の語源はラテン語の「existentia」ですが、中世のスコラ哲学は「SはPである=本質存在(essentia)」と「Sがある=現実存在(existentia)」を区別していました。

従って、この区別を踏まえると「実存(existence)=現実存在(existentia)」ということになりそうです。けれどそうだとすれば「実存が本質に先立つ」のは何も人間に限らず、例えばその辺にいる犬だって「実存が本質に先立つ」ことになってしまいます。

しかし当然のことながら、ここでサルトルがいう「実存」は、そういった「本質存在/現実存在」という伝統的形而上学の枠組みに依拠したものではありません。意味合いとしてはむしろマルティン・ハイデガーのいう「現存在(Dasein)」に近いでしょう。

ハイデガーは「存在」と「存在者」を厳格に区別します。この点、その辺にいる犬は「ある」という「存在」を了解していない「存在者」です。これに対して、我々人間は自らが「ある」という「存在」を朧げながらも了解している「存在者」です。そこでハイデガーは人間を「存在が開示される場/存在の現れの場」としての「現存在」として定義します。

この点、フランス語の「existence」という単語は、もともとはドイツ語の「Existenz」と「Dasein」の両方の意味を含んでいましたが、ハイデガーが「Dasein」にこのような特殊な意味を持たせて以降、フランスでは「Dasein」は「existence」ではなく直訳である「être-l à」が当てられています。

この「現存在(être-l à)」という語を、サルトルはその実質的意味である「人間存在(réalité humanine)」と言い換えています。すなわち、この「人間存在」こそが、ここでいう「実存」に相当するということです。

そして、サルトルによれば人間の「実存」とは一つの企てであるといいます。すなわち、事物が単に「あるもの」で「ある」に対して、人間は、自分が現に「あるもの」で「あらぬ」ように、かつ「あらぬもの」で「ある」ように、自己の外にある彼方へ向かって常に「自己」から「脱出」していく「脱自」的な存在であるという事です。


* 野生の思考

こうした「実存主義」に対して真っ向から鋭い批判を提起したのがクロード・レヴィ=ストロースに代表される「構造主義」です。

レヴィ=ストロースは1949年に公刊された学位論文「親族の基本構造」において従来の人類学において難問とされていた2つの謎を解明しています。その一つは「インセスト・タブー」と呼ばれる、なぜ近親間で婚姻が禁止されるのかという謎です。そしてもう一つはなぜ多くの部族で「平行イトコ婚(母の姉妹の子ども、父の兄弟の子ども)」が禁止され「交叉イトコ婚(母の兄弟の子ども、父の姉妹の子ども)」が奨励されるのかという謎です。
 
ここでレヴィ=ストロースはロマーン・ヤコブソンの音韻論を手掛かりに理論を構成し、これをブルバキ派の現代数学によって論証したことで、世界中の様々な親族関係を規定する一連の規則的な変換パターン、すなわち「構造」の存在を明らかにしました。
 
「構造」の発見は、それまで素朴に信じられてきた「進んだ西洋社会」と「遅れた周辺社会」という西洋中心主義的世界観を転倒させることになりました。周辺社会の人々が現代数学でようやく解明できた「構造」に基づく思考によって親族関係を作り上げていた事が明らかになり、もはや知的レベルの優劣で西洋社会と周辺社会を区別する事は適切ではなくなったということです。そしてこうした「構造」に基づく思考をレヴィ=ストロースは「野生の思考」と呼びます。
 
この点、サルトルによれば主体的決断の「正しさ」はマルクス主義という「現代的な思想」が明らかにした「歴史」の審級によって保証されるとされます。けれどレヴィ=ストロースに言わせれば、その「歴史」の「正しさ」など「構造」という点では周辺社会の部族民の掟と何ら変わらないということです。


* 無意識の主体

では、サルトルのいう「実存」とはレヴィ=ストロースのいう「構造」の前では所詮、まやかしに過ぎないのでしょうか?この点、構造主義の枠組みを前提としつつ、その中で「主体」の占める位置を究明したのがジャック・ラカンです。

ラカンは「無意識はひとつのランガージュのように構造化されている」といいます。もっともここでいう「ランガージュ」とは「ラング(既存の言語体系)」としての「言語」ではなく、既存の言語体系を超えた「シニフィアン連鎖(順列組み合わせ)」による自律的な構造化を行う「言語」です。そしてラカンはこうした自律的な構造化の中に「無意識の主体」を認めます。

「無意識の主体」は、語りの中における言い間違い、言い淀み、情動的な反応などの「裂け目」として現れ、次の瞬間消えていく拍動する点のようなものです。そして精神分析は、こうした「無意識の主体」を鋭く捉えて、解釈を投与することで「構造の変化」を引き起こします。

このように、ラカンの構造主義は「構造の変化」を問題にします。すなわち、ラカンの理論はレヴィ=ストロース的な「構造」を前提としつつも、その外部からサルトル的な「実存」のダイナミズムを再導入していると言えるでしょう。


* 実存が構造を乗り越えるということ

多くの人は普通、かけがえのない自らの生を主体的な「実存」として生きたいと思っているでしょう。けれども実際には「実存」は「構造」に規定されているということです。

しかし「構造」は揺り動かす事はできます。その限りで「実存」は「構造」を乗り越ることができる。少なくとも乗り越えたふりをすることができるでしょう。それはもとより錯覚なのかもしれません。けれど、そんな錯覚の中にこそ、生きているという手ごたえがあるのではないでしょうか。














posted by かがみ at 20:55 | 心理療法