*「わかる」ための方法論としての精神病理学
精神医学のうちの一つの分野である精神病理学 Psychopathologieは「精神」と呼ばれる人間独自の領域における様々な病理的現象を扱う学問です。この点、精神病理学者の松本卓也氏は『症例でわかる精神病理学』(2018)において「精神病理学とは、精神障害を持つ患者さんの心の状態や動きを、⑴すぐさま「わかって」しまうことを避けるために一定の方法論を設定し、⑵何をどんなふうに「わかる」ことができるのかを厳しく限定し、⑶「わかりえない」ものがあることを尊重しながらも「わかろうとする」営みから生まれた学問である」といいます。
すなわち、精神病理学においてはまず⑴様々な精神病理を直ちに「脳(身体)」や「こころ(心理)」の問題に還元して「わかって」しまうことなく、そもそも患者の心の状態や動きが「わかる」とは果たしてどういうことなのかという方法論について原理的な検討が行われます。そして⑵このような方法論から患者の心の状態や動きを「わかる」ための臨床実践が展開されます。もちろん⑶このような方法論をいかに駆使したところで患者の心や状態や動きを完全に「わかる」ことは不可能です。しかし精神病理学においてはそのような「わかりえない」という不可能性そのものがさらに検討され、ここからさらに「わかろうとする」ための新たな思考が紡ぎ出されていくことになります。
ここで挙げられた3つの特徴はそれぞれ精神病理学における⑴原理⑵実践⑶倫理に関わるものであるといえます。そして、このような「わかる」をめぐる方法論について精神病理学には「記述精神病理学」「現象学的精神病理学」「力動精神医学」という3つの立場があります。
* 記述精神病理学
精神医学の歴史はフランス革命の後、パリのビセートル病院院長に就任したフィリップ・ピネルに始まるとされています。ピネルはそれまで単なる狂人のうわ言と見なされていた精神を病んだ患者の言葉からよく似たものとそうでないものを区別し、ここから様々な精神症状と精神障害を分類していきました。こうして誕生したのが疾患分類学と精神症候学であり、これが後の精神病理学の原型を形作ることになります。
このようにして始まった精神病理学は様々な精神症状と精神障害の分類を行うため、精神障害者が語る言葉や彼らの行動や表情に見られる表出を「記述」するという方法をとりました。そして20世紀に入るとカール・ヤスパースにより精神病理学は方法論的に基礎付けられることになります。彼はエトムント・フッサールの記述心理学やヴィルヘルム・ディルタイの「了解 Vestehen」という概念を用いて精神症状の的確な記述、分類、命名、類型化などを主として行う記述精神病理学を初めて体系化することになります。
すなわち、記述精神病理学における「わかる」とはこの「了解」という方法によって可能となります。精神科臨床において精神科医は患者が語る心的体験を写し取ります。つまり自分の頭の中に思い浮かべるということです。そして、その写し取った心的体験を、類似の体験と同じものか違うものかを意識しながら、名前をつけて区別してカルテなどに「記述」します。こうしたプロセスの中で精神科医は患者の心的体験に「感情移入 Einfühlung」ができるようになります。これが「了解」です。逆に精神科医が患者の心的体験に感情移入ができなければそれは「了解不能」であるということです。
このようにヤスパースが体系化した記述精神病理学は記述心理学に基づき患者の心的体験を的確に記述し、命名し、分離するものであり、その際には「了解」という方法が用いられるというものです。そしてヤスパース以降の記述精神病理学は主としてハイデルベルク学派と呼ばれる流れの中で発展していくことになります。
* 現象学と精神病理学
いま述べたように記述精神病理学では患者が話し、医師がそれを聞き取って頭の中に思い描くというプロセスが想定されており、ここでは患者は客体(対象)であり、医師はその客体を観察する主体であり、この関係は固定されたものであるという前提があります。ところがこのような主体と客体の間には主体と客体がまだはっきりわかれていないような場所、文字通りの「あいだ Zwischen」のような場所が存在します。
そうであれば記述的精神病理学のように主体と客体をはっきりと分離することは精神障害において生じている根本的な現象を見逃している危険性があるともいえます。こうしたことから、記述精神病理学が「記述」し得ない「あいだ」の領域における異常、つまり患者の「世界への棲み方」を検討する方法論が現象学的精神病理学です。
現象学的精神病理学は主にフッサールの現象学や、その批判的継承者であるマルティン・ハイデガーの存在論をその理論的基盤に置いています。もっとも我が国を代表する精神病理学者である木村敏氏は「精神医学と現象学」(『自己・あいだ・時間』(1981)所収)という論考において「哲学の一分野としての現象学と精神医学における現象学的方法との間には見逃しえない本質的差異がある」といいます。
まず哲学的現象学では例えばフッサールのように意識の志向性を問題にするにしても、あるいはハイデガーのように現存在の「現」における存在の露呈を問題にするにしても、この意識や現存在は差し当たりフッサールその人自身、ハイデガーその人自身に対して直接無媒介的に開かれ、与えられているものではなくてはなりません。すなわち哲学的現象学は現象学者その人自身の経験を出発点として展開されることになります。
これに対して精神科医が精神医学的な諸問題を現象学的に問う場合、彼が第一次的に眼を向けるのは決して彼自身の意識や彼自身の現存在ではなく、彼にとって他者である患者のうちに生じている病的事態であり、またそのような病的事態の生起している場所としての患者の意識ないしは現存在のありようです。
このような現象学と現象学的精神病理学における差異は「従来主題的に考察の対象にされたことがまったくなかった」と木村氏は述べ、続けて「これを不問に付すならば、精神医学における現象学的方法は単に哲学的現象学者の考案した気のきいた表現を借用してきて文章を飾るだけのレトリックにすぎないか、たかだか哲学的現象学の成果を精神病者の世界に適用してみる皮相な応用哲学程度のものになりさがってしまうだろう」と述べています。
* 自己と他者の「あいだ」
そもそもある事柄を現象学的に問おうとするとき、われわれはまず第一にその事柄と直接的無媒介的に向き合わなければなりません。そのためにはその事柄にまつわるいっさいの理論的先入観が取り払われなくてなくてはならないだけでなく、自然な日常的認識に属している「世界」や諸事物の存在に関する自明性も認識主体としての自我の存在に関する自明性も、すべて現象学的直観にとっての障碍として排除されなければなりません。こうして問われている事柄それ自体とそれを問うものとの間に介在したいっさいの障壁が取り除かれて、事柄それ自体が直接無媒介的にわれわれに与えられる地平が、フッサールのいう意識の構成的志向作用であり、ハイデガーのいう存在一般の開けの場所としての現存在の「現」であるということになります。
ところが精神医学においては現象学的に問うもの(例えば精神科医)と問われている事柄(例えば統合失調症における基礎的病変)との間には理論的先入観や常識的自明性といったもののみならず、問いの生じる場所と問われるものの生起する場所とが互いに別々の人間に属しているという如何ともし難い深淵が口を開いています。そうであれば診察者にとって他者である病者が現実に体験しているままの精神状態を直接無媒介的に「わかる」ことなど原理的に不可能であるかのように思われます。このような現象学的精神病理学における根本的なアポリアを乗り越えるための鍵こそが先述した「あいだ」という場所にあります。
この点、同論考において木村氏は精神分裂病(現在の統合失調症)の診断に関して、現象学的精神病理学を代表するルートウィヒ・ビンスワンガーにおける「感情診断」やウジェーヌ・ミンコフスキーにおける「洞察診断」を取り上げ、このような「現象学的直観診断」を行うとき彼らの目は「彼自身の「内部」における意識や現存在に向かうのではなく、彼がそこで直接に他者の人格に触れ、他者における人格の病理として分裂病的事態それ自体が明証的に彼に現前してくるような場所へと、つまり自己と他者の「あいだ」の場所へと向けられていることになる」と述べます。つまり「現象学的直観診断」を行うには「診察者は病者とともに両者の「あいだ」を間人格的・間意識的・間主観的・間ノエシス的な場所として、厳密な意味で共有しているのでなくてはならない」「この共有は客的的「共有」ではなく主体的共有でなくてはならない」ということです。
* 自己の生成と絶対の他
ここで木村氏のいう「あいだ」という場所はそれ自体としては「自己ならざるもの」としての他者であるといえます。しかし自己が自己でありうるためには自己は他者を必要とすると木村氏はいいます。他者が他者として現れてこない限り、自己は自己となることはなく、自己は「自己ならざるもの」としての「あいだ」の場所において他者と出会うことを通じて、そのつど他者から自己を分離し、自己を自己自身と一致させていく必要があります。つまり自己は常に「自己ならざるもの」という自己にとって否定的契機を自己存在の根拠としているということです。こうした「あいだ」の構造を論じるなかで木村氏は西田幾多郎の次のような文章を引用しています。
「私が汝を知り汝が私を知るとは何を意味するか。私は直観といふことを自己が自己を知ることから考へた、そして自己が自己を知るといふことは自己に於いて絶対の他を認めることであると云った。併しかかる関係は直に之を逆に見ることができる。自己が自己の中に絶対の他を認めることによって無媒介的に他に移り行くと考へる代りに、かかる過程は絶対の他の中に私を見、他が私自身を限定することであると考へることができる。私が内的に他に移り行くといふことは逆に他が内的に私に入ってくるといふ意味を有っていなければならない。」
「自己の底に絶対の他を認めることによって内から無媒介的に他に移り行くといふことは、単に無差別的に自他合一するといふ意味ではない。却って絶対の他を媒介として汝と私が結合するといふことでなければならない。自己が自己自身の底に自己の根底として絶対の他を見るといふことによって自己が他の内に没し去る。即ち私が他に於て汝自身を失はなければならない、汝はこの他に於て汝の呼声を、汝はこの他に於て私の呼声を聞くといふことができる。」
(西田幾多郎「私と汝」(『無の自覚的限定』(1932)所収)より)
つまり木村氏のいう「あいだ」とは、ノエマ(意識内容)としての自己によって知覚される場所ではなく、西田のいう「私」と「汝」の両者にとっての「絶対の他」としての包括者であり、ノエシス(意識作用)としての自己と他者がともにノエシス的に構成する「ノエシスのノエシス」というべき場所であるということです。それゆえに「この同じ「あいだ」を共有している他者のノエシス的自己は、われわれ自身の自己を構成するその同じノエシス的な作用によって、それと全く同時にかつ等根源的に構成されることになる」ことになります。
このように我々のノエシス的自己と他者のノエシス的自己とは同じ一つの「ノエシスのノエシス」によって同時に構成されることになります。これによって自己と他者とは唯一の「あいだ」を共通のノエシスとして分有し、これを通じて互いに直接無媒介的に他に移り行くことができるということです。こうして「診察者と病者との人間的な触れ合いにおいては、病者の自己そのものが診察者にとって現象学的に接近可能なしかたで自らを示す」ことが可能となります。つまり「わかる」ことができるということです。
*「あいだ」の機能不全と自他の融解
このように診察者と病者の「あいだ」とは両者のノエシスを構成する「ノエシスのノエシス」という性格を持っています。そうであれば診察者がノエシス的印象として感じとる「あいだ」の病変は病者の側においても同様に直接無媒介的なノエシス的体験として感じ取られているはずです。ここで木村氏は21歳の女性患者が語った言葉を引用しています。
「お母さんとのあいだが気づまりなんです。間がもたないっていう感じなんです。中学生のとき、自分を出そうとすると何かがひっこんで出せなかった。自分の自然な感情が出せなくなってすごく苦痛だった。なにか索莫とした感じだった。なめらかな感情が出せないから、自分というものが出せず、自分ではないという感じだった。自分を出したい出したいと思って出せずにいるうちに、人が自分の中にどんどんはいってくるようになった。人がはいってくると自分がなくなって他人が中心にいるようになってしまう。人が自分の中に入って自分のまねしているんじゃないかと思ったり、一人の人間として、他人として、パッと分かれて見ることができない。……自分と他人とのあいだにうるおいが持てなくなった。うるおいの中にひたることができなくなってしまったんです。……はじめはお母さんとのあいだだけだったけれど、このごろはだれとでも気づまりで、間がもたない。気押されるというのか、すごい圧迫感を感じるのです。痛い感じがして、それで自分が傷つくのがいやだから自分の中に閉じこもる。自分が外に出せないのです。ゆとりがまったくなくて、安心感がない。気を張っていないと人が自分の中へどんどん入って来ちゃって、自分と他人の区別がなくなってしまう……。」
(木村敏「精神医学と現象学」(『自己・あいだ・時間』(1981)所収)より)
まずこの語りの中で患者は「気づまり」であり「間がもたない」と述べています。この点「気」とは元来、天地や森羅万象の「あいだ」を支配している創造的原理、生命的原理であるとされており、現在でも「気にかかる」「気をくばる」「気がねする」といった他者との「あいだ」的な性格を帯びた用いられ方がされています。そして「間」とはいうまでもなく「あいだ」と読むことができます。もっとも「あいだ」という言葉はどちらかというと空間的なイメージに結びつきやすく「間」という言葉は時間的なイメージに馴染みやすいでしょう。けれども「あいだ」を離れて「間」は存在することはなく、換言すれば「間」のはたらくところには必ず「あいだ」が形成されます。つまり「気づまり」であり「間がもたない」とは、いずれも「あいだ」が自然な親しさを失って機能不全に陥っている状態を示しています。
そしてこの患者はこのような「あいだ」の変化を「自分が出せない」「自分ではない」「人が自分の中にどんどんはいってくるようになった」「自分と他人の区別がなくなってしまう」という体験と関連づけています。先述したように「あいだ」とはそこで自己が自己として、独立的なノエシス的主体として成立し、そこから自他のノエシスの分離が可能となる場所であるといえます。それゆえこのような「あいだ」が機能不全に陥った状態では病者は自己をもはや自己としてノエシス的に立てることができなくなり、それゆえに自他の分離も危機に瀕してくることになります。
* 精神病理学における3つの立場
なお精神病理学の3つ目の立場である力動精神医学とは、ウィーンの医師であったジークムント・フロイトによって体系化された精神分析を精神医学に応用した立場です。
フロイトの精神分析は症状の背後にある無意識的な機制を重視します。彼が「無意識 das Unbewusste」と呼ぶ心の領域においては、ある観念や欲動が他の観念や欲動とぶつかりあっていると考えられており、一方の力が他方の力を抑え込もうとしたときにさまざまな病理的な現象が出てくると考えられています。力と力の関係に注目するこのような立場のものとでは、その力の大小にによってその関係が刻一刻と変化することになります。力動精神医学はこのような「変化」に注目します。
記述精神病理学においても現象学的精神病理学においても、患者の心的体験ないし世界への棲み方は診察の前後でほとんど変化しないという前提があり、これらの立場はある意味では「静止しているもの」としての精神を対象としています。これに対して力動精神医学はダイナミックに動き、刻一刻とその状態と姿を変えるような精神を対象としています。すなわち、このよう症状を形成する動的な力のせめぎあいを把握することこそが力動精神医学における「わかる」ということです。
松本氏は臨床においては以上のような3つの視点を緩やかに視点移動しながら患者に相対するのが望ましく、欲を言えばそこにさらにもう2つ、身体医学の視点と広義の社会との関係に注目する視点を加えることが重要であるとして、この計5つの視点を組み合わせながら患者の人生をトータルで見ていき、適切な援助を行うことが精神科臨床の本質ではないかと述べています。そして、こうした精神病理学が提示する複数的な視点は精神科臨床や心理療法のみならず、広くケアや教育をはじめとした様々な領域における対人コミュニケーション実践においても重要な視点であるといえるのではないでしょうか。