【参考リンク】

フランス現代思想概論

ラカン派精神分析の基本用語集

現代アニメーションのいくつかの断章

2021年09月27日

デプレッション・欲動の処理不全・紛い物の享楽の洪水の中で



* デプレッションとメランコリー

「新型うつ病」という言葉が定着してそろそろ久しいかと思います。また最近は「コロナうつ」という言葉も聞くことが多いでしょう。これらの「うつ病」は古典的な精神医学用語においてデプレッションに分類されてきました。そして、もう一つの「うつ病」にメランコリーというものがあります。実は両者はまったく出自の異なる概念です。

この点、デプレッションの範例となるのはアメリカの神経学者、ジョージ・ビアードの「神経衰弱」という概念です。ビアードは疲労、不安、頭痛、神経痛、抑うつ気分などを特徴とする神経疲弊状態を「神経衰弱」と名指し、その原因を19世紀中盤のアメリカの産業革命下における非人間的な工場労働に帰しています。

これに対してメランコリーは、18世紀末のフランスにおいて近代精神医学の父と呼ばれるフィリップ・ピネルによって見出され、19世紀末のドイツにおいて現代精神医学を確立したエミール・クレペリンによって体系的位置を与えられました。


* 両者の統合と差異

このような歴史的経緯から、かつてデプレッションといえば内科外来で治療しうる「ストレス反応」であり、かたやメランコリーは精神病院への入院必須な「狂気」という大まかなイメージがありました。けれども三環系抗うつ薬イミプラミンの登場を期に、近年ではメランコリーの中でも外来において治療可能な症例が増加します(イミプラミンはその製品名「トフラニール」として広く知られています)。

こうしてデプレッションとメランコリーは重症度以外では本質的に同じものであるとする見解が主流になっていきます。1980年に改訂された「精神障害の診断と統計マニュアル(DSM)」の第三版においては、デプレッションとメランコリーは一括して「感情障害」に分類され、以降両者の鑑別診断を不問とする臨床と研究が世界中を席巻することになります。

もっとも、いかにデプレッションとメランコリーが接近したとしても両者は鑑別可能です。両者を鑑別するための最も有用な特徴とされてきたのは「アンヘドニア」と呼ばれる症状です。

通常デプレッションでは何か楽しいことがあったり、患者を苦痛に至らしめた状況が好転したりすれば、患者は喜びを感じて病それ自体も好転する傾向にあります。他方、メランコリーではどんなに楽しいことがあろうとも、たとえ発病の誘引となった状況が変わろうとも症状は変化しません。「アンヘドニア」とはこのような事態をいいます。

すなわち、デプレッションが「悲しみ」という感情の病であるとすれば、メランコリーとは「感情」それ自体が廃棄された病ともいえます。


* フロイトのデプレッション論

精神分析の始祖であるジークムント・フロイトもまた、デプレッションとメランコリーを峻別する立場を取っています。そして実はフロイトはかなり早い段階でデプレッションへ注目しています。1890年代においてフロイトは、ビアードが「神経衰弱」と名指した雑多な集団から、ある共通した特徴を持つ病態を「不安神経症」として切り離すことに成功しています。

この「不安神経症」の諸特徴(全般的な易刺激性、予期不安、不安発作など)は現代で言われる「パニック障害」のそれとほとんど一致しています。そしてこの分離作業によって「不安神経症」を除く「真の神経衰弱」が残ります。デプレッションとは、この「真の神経衰弱」の中に数多く含まれていると考えられます。そしてフロイトは、このような「不安神経症」と「真の神経衰弱」を合わせた診断カテゴリーを「現勢神経症」と呼びました。

この点、フロイトは(真の)神経衰弱の病因として「自慰」や「夢精」を挙げ、不安神経症の病因として「禁欲」や「中絶性交」を挙げています。ここでフロイトの挙げる病因は現代からすれば何とも奇天烈なものに聞こえてしまいますが、むしろここで注目すべきは、すぐれて「身体」にまつわる事柄が現勢神経症の病因として想定されている点です。


* 欲動の処理不全

この点、フロイトは「身体的な性的興奮の処理」という考えから現勢神経症のメカニズムを説明しています。フロイトによれば(真の)神経衰弱は「(身体的な性的興奮によって生じた緊張状態に対する)十分な加重の解除が不十分な加重の解除によって代替された場合」に起きると言います。フロイトにとって、ここでいう「十分な加重の解除」とは「正常な性交」であり「不十分な加重の解除」が「自慰」や「夢精」ということになります。

ところで、ここで言われている「身体的な性的興奮」とはフロイトによれば「内因性に出現する(性的な)興奮」であり、一定に閾値に達すると心的興奮へと変化することができるという性質を持っています。これは後に「欲動」と名指されるものに相当します。

端的にいえば現勢神経症とは「欲動の処理不全」によって引き起こされるある種の「生活習慣病」ということです。そして、こうした「生活習慣病」を引き起こす要因は個人の側だけでなく社会の側にもあると言わざるを得ないでしょう。


* 資本主義のディスクール

この点、フランスの精神分析家、ジャック・ラカンが1972年〜73年のイタリア講演および「テレヴィジオン」の中で「資本主義のディスクール」と名指した図式は資本主義システムによる享楽と欲望の制御が人をこうした「欲動の処理不全」に否応なしに陥らせているものとして読むことができます。

資本主義のディスクール.png


「資本主義のディスクール」が引き起こすのは享楽の氾濫と欲望の搾取です。高度に消費化/情報化された資本主義システムの下では、人々の要求は、速やかに統計学的処理によりデータベース化され、その最適解は新製品や新サービスとして次々と市場に供給されます。いまや享楽は到達不可能なジュイッサンスから計量可能なエンジョイメントへと変容し、人々は獰猛な超自我に「享楽せよ!」と命じられ、ただわけもわからず資本主義システムという回し車を回し続けるネズミのような人生を送る事になるわけです。

まさにこれはフロイトが指摘した「十分な加重の解除が不十分な加重の解除によって代替された場合」に相当する事態であるといえるでしょう。すなわち、デプレッションを一種の生活習慣病だというのであれば、それはまさに享楽と欲望に関する生活習慣病といえるのではないでしょうか。


* 紛い物の享楽の洪水の中で

こうしてみるとラカンのいう「資本主義のディスクール」から排出される紛い物の享楽の洪水はフロイトが「不十分な加重の解除」の例として挙げる「自慰」「夢精」の現代版と言えなくもないでしょう。では、こうした「不十分な加重の解除」を超えた処にある「十分な加重の解除」に到達するにはどうすればいいのでしょうか。

先に述べた通り、フロイトならばそれは「正常な性交」であると答えるのでしょう。けれども「性関係はない」というラカンの有名なテーゼを経由したところに立つ我々はむしろ、性関係に依存しないひとつきりのシニフィアンと特異的享楽の奪還こそに「十分な加重の解除」を、すなわち資本主義のディスクールを逃れるための道標を見出すべきなのでしょう。

ひとつきりのシニフィアンと特異的享楽の奪還。おそらくその過程は時には壁に突き当たり、時には同じ場所を堂々巡りする困難な道となるでしょう。けれども、そんな傷だらけにして泥まみれの試行錯誤の中にこそ、我々は自らの中に「欲望する主体」を発見する事ができるのではないでしょうか。











posted by かがみ at 00:06 | 心理療法

2021年08月26日

精神分析にとって〈少女〉とは何か



* 女児におけるエディプス・コンプレックス

精神分析の始祖、ジークムント・フロイトは19世紀末のヨーロッパで流行した謎の奇病ヒステリーの臨床において試行錯誤を繰り返す中で、その原因が幼児期の性生活に由来する性的欲望と性的空想のなかにある事を突き止めます。そして、フロイトは自らの「自己分析」を通じて幼児期の性生活の中核には「エディプス・コンプレックス」いう心的葛藤があることを発見しました。

「エディプス・コンプレックス」とは異性の親への愛情と同性の親への憎悪からなる無意識的欲望の複合体をいいます。この点、フロイトは当初、男女においてエディプスコンプレックスは単純な対称性を持つと考えていました。つまり、男児の場合は母への愛情と父への憎悪が、女児の場合は父への愛情と母への憎悪が、それぞれ幼児期の性生活の中核を占めることになります。

だが、いずれにせよエディプス・コンプレックスはやがて抑圧される運命にあります。これを可能とする別の心的葛藤をフロイトは「去勢コンプレックス」と名付けます。つまり母親の身体にペニスがないことを知った幼児は自分のペニスを失う恐怖から母親への愛情を断念して父親への同一化を目指すようになる。このペニスを失う恐怖をフロイトは「去勢不安」と呼びます。

確かに男児に関してならこの説明は一応合理的といえるでしょう。しかし言うまでもなく、女児の場合にはこの説明はまったく整合性を持ちません。女児においては「去勢」はいわば最初に見出され、男児のようにそれを怖れる理由がないからです。では女児においては、どのような過程を経てエディプス・コンプレックスが構成されることになるのでしょうか?


* ペニス羨望と去勢の岩盤

フロイトはようやく1920年代になってこの疑念への暫定解を提示することになります。しかしここでも答えはやはり「去勢」のうちにありました。

フロイトの説明はこうです。女児は自身におけるペニスの不在を知ると自身がひどく「損なわれている」と感じ、男児と同じようなペニスを持つことを熱望するようになる。同時に自らと同様に「損なわれている」存在である母親に幻滅し、父親なら自分にペニス(の代わりの子ども)をくれるかもしれないと、これまで母親に向けていた愛情をまるごと父親の方へ振り向ける。このように父親に転移された欲望こそがやがて女性を「正常な」異性愛へと導いていくだろう云々。

つまり、女児の場合は男児とは逆に「去勢コンプレックス」を出発点として「エディプス・コンプレックス」へと発展していくというのがフロイトの到達した結論です。ここでの女児のペニスへの執着をフロイトは「ペニス羨望」と呼びます。

このようにフロイトは男女のセクシュアリティを「去勢」という同一の基盤の上で考えました。男児は「去勢」を恐れて父親に阿り、女児は既に「去勢」されているがゆえに父親を憧憬する、というわけです。そしてフロイトはまさしくこの「去勢の岩盤」に精神分析の限界をみたのでした。


* アーネスト・ジョーンズのひそかな離反

このようなフロイトの置き残した「宿題」に触発される形で、1920年代から1930年代にかけての精神分析界においては女性のセクシュアリティに関する論争が盛んになります。

この点、フロイトの最側近であり英国精神分析の基礎を築いたアーネスト・ジョーンズはフロイト理論の忠実な守護者を自認しつつも、当時気鋭の女性分析家として頭角を表していたカレン・ホーナイやメラニー・クラインの影響の下で、女児の性的発達に関してフロイト説の実質的な修正を試みる議論を展開しました。

周知の通りフロイトは幼児の性的発達は、口唇期、肛門期、男根期の順に形成されると仮定しました。通常、3歳〜5歳頃と想定される男根期はエディプス・コンプレックスが絶頂に達する時期となります。フロイトはこの時期において男児も女児も共に、その性的関心を方向付けるのは、ペニス(および女児におけるその解剖学的対応物であるクリトリス)というただひとつの性器のみであり、そこではまだ女性性器(膣)が発見されていないことを強調していました。

これに対してジョーンズは1926年の論文「女性のセクシュアリティの早期発達」で「去勢」を相対化する方向へと向かい、あらゆる神経症のベースにある根源的恐怖として性的享楽そのものの喪失を意味する「アファニシス」の概念を導入し、1932年の論文「男根期」においては、男女ともに男根期以前に既に女性器の存在に関する無意識知があるとするホーナイやクラインの側に立ってフロイト説を退けています。

その上でジョーンズは男根期を2つに分割してフロイト説との中和を図りつつ、女児においては母親から自らの女性器を破壊されるかもしれないという根源的恐怖があり、ペニス羨望とは畢竟、この恐るべき結末を回避するための二次的な防衛にほかならないと主張します(こうしたジョーンズの主張は複数の女性同性愛のケースを分析した彼自身の臨床経験に基づいているようです)。つまりここでは去勢不安とペニス羨望はエディプス・コンプレックスからの撤退として一元的に把握されることになります。

フロイトの理論では女児の場合、エディプス・コンプレックスがなぜ始まりいつ終わるのかが今ひとつ明確ではありませんでした。こうしたことから、フロイトは真のエディプス・コンプレックスは男児にのみ生じるという立場を終始とっていました。これに対してジョーンズの立場からは女児においても男児とほぼ同様のエディプス・コンプレックスのメカニズムが作動している事になります。

これをもってジョーンズは「王よりも王党主義的(フロイト本人よりもフロイト主義的)」であることを余儀なくされるなどと嘯いていましたが、実質的に見ればジョーンズの主張はフロイト説からの離反以外の何者でもないでしょう。


* 少女=ファルス

そんな中で、女性のセクシュアリティ論争において全く新しい機軸を打ち出したのが当時の精神分析教育のメッカであったBPI出身の俊英、オットー・フェニフェルです。

フェニヒェルは1936年に発表した論文、その名も「象徴的等式:少女=ファルス」において自身が分析した女装患者のケースを取り上げ、彼の少女願望が自身のペニスへのナルシシズム的愛情と分かち難く結びついていることを指摘して、フロイト以来の象徴的等式である「ペニス=子ども」は時として「ペニス=少女」という形を取ることがあると主張します。

実際、フェニヒェルによれば、少女たちが無意識において自らをペニスに同一視する事実はしばし観察されるといいます。フェニヒェルはこれを「根源的な自己愛的ペニス羨望を克服する方法」の一つと位置付けます。

ここでいう「ペニス羨望」とは、ジョーンズ的な意味ではなく、元々のフロイト的な意味で用いられています。もっとも、ここでフェニヒェルは、ペニス羨望を「父からペニス(の代わりの子ども)を貰う願望」から「父のペニスに『なる』という願望」に置き換えています。

ここで彼が引き合いに出すのは、覗き症の傾向を持つ一人の女性患者のケースです。この患者は2度にわたり「ペニスの代わりに子どもを腹からぶら下げた男(たち)」の夢を見ています。ここには「子ども=ペニス」に同一化するある種の「父体空想」を見出すことができます。

この空想において、少女はペニスのように父の身体にぶら下がります。言い換えれば彼女は父と分かち難く結びつき、父の身体の部分になっています。この部分はあくまでも全体の一部に過ぎませんが、しかし、なくてはならない一部であり、その最も重要な部分に他なりません。

ここに見出されるのは、古来の伝説や御伽噺にお馴染みの、偉大な英雄の危機を救う少女というモチーフです。「彼」は強いけど、私がいないと何もできないのだから−−まさにこの少女の「全能空想」のうちにフェニヒェルはペニス羨望の克服の試みを認めます。

ここからフェニヒェルはペニスの発見により脅かされた少女の幼児的全能はペニスの象徴的等価物たる「ファルス」への同一化によって回復されるという結論を取り出してきます。


* 構造としてのエディプス・コンプレックス

このような1920〜30年代の議論を総括し、1950年代に構造主義の立場からエディプス・コンプレックスを再解釈したのがフランスの精神分析家、ジャック・ラカンです。

ラカンは、形式的にはフロイトの顔を立てつつ、実質的にはむしろホーナイやクラインの説に立つジョーンズの二枚舌を「弁証法的スケーティング」などと揶揄する一方で、フェニヒェルが打ち出した等式「少女=ファルス」への評価は常に肯定的です。

まず前提としてラカンは解剖学的存在としてのペニスと言語的存在であるファルスを厳密に区別します。ラカンはエディプス・コンプレックスを徹頭徹尾「ファルス」という特権的なシニフィアンを軸としたセクシュアリティの構造化の運動として捉えます。

ここでファルスはまず母親(養育者)の現前不在運動の超越論的シニフィエとしての場に現れます。これを「想像的ファルス」といいます。子どもはまずこの想像的ファルスへの同一化を試みます。この点、フェニヒェルが見出した等式「少女=ファルス」という無意識の幻想は、このような子どもの「(母親の)ファルスである」に根ざしているとラカンは述べています。

けれども当然母親(養育者)の現前不在は止まらないので、その同一化は失敗に終わります。そこで子どもそこにひとつの欠如を発見し、これが超越論的シニフィアンの場としてのファルスを構成します。これを「象徴的ファルス」といいます。男女のセクシュアリティはこの「象徴的ファルス」への態度の相違に起因します。

この点、ラカンにおいて「欲望」とは「要求」の間で弁証法的に生じてくるものであり、この二つの水準が男女のセクシュアリティにおける非対称性を生み出すことになります。すなわち、まず男女ともに「欲望の水準」においては「ファルスをもつ」というポジションを取ることになります。

ところが「要求の水準」においては「ファルスである」というポジションが女性のセクシュアリティを構成します。ここでは「少女=ファルス」というポジションが無意識へ一旦抑圧された上で回帰していることになります。そしてラカンはこうした意味での「ファルス」がレヴィ=ストロースのいう親族の基本構造を安定させる装置として長らく機能してきたといいます。

ここでラカンはいわば〈少女〉に導かれる形でセクシュアリティの問題を解剖学的性差から決定的に切り離す事に成功しています。そしてその後、ラカンは言語と享楽(欲動満足)の絡み合いを考えていく中で、女性のセクシュアリティが持つ特異的な享楽を発見し、ここにフロイトのいう「去勢の岩盤」を乗り越える可能性を見出すことになります。

昨今においては、ますます「男らしさ」「女らしさ」などといったセクシュアリティの問題は「生きづらさ」に直結する問題となりました。こうした中、セクシュアリティの問題を解剖学的性差から切り離し、言語と享楽の問題として考えようとするラカンの理論は既存の「男らしさ」「女らしさ」に囚われることなく、我々がそれぞれ自らの特異的なセクシュアリティを生きる上でのひとつの道標を照らし出していると言えるのではないでしょうか。


















posted by かがみ at 22:47 | 心理療法

2021年07月25日

構造と欲望・享楽と希望・その紙一重の先にあるもの



* 実存から構造へ

時は1960年代、フランス現代思想のモードは「実存主義」から「構造主義」へと変遷しました。ジャン=ポール・サルトルに代表される実存主義は、人は独自の「実存」を切り拓いていく自由な存在=主体であることを限りなく肯定しました。ところがクロード・レヴィ=ストロースに代表される構造主義は、我々の文化は主体的自由の成果などではなく、歴史における諸関係のパターン=構造の反復的作動に過ぎないという事実を暴き出しました。

このような中、構造主義の立場から独創的な精神分析理論を立ち上げたのがジャック・ラカンです。ラカンが構築した理論の特徴は、基本的には構造主義の立場に依拠しつつも、その枠組みの中で「構造」と「主体」の統合を試みた点にあります。

すなわち、ラカンによれば「主体」とは「構造」によって産出される存在であると同時に「構造の外部」を絶えず希求する存在でもあります。こうしてラカンは構造主義における一つのリミットを示しました。


* オイエディプスから千の欲望へ

ところが1970年代になると、こうした構造主義およびラカンの理論を乗り越えようとする動きが台頭化します。その急先鋒となった論客がジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリです。彼らが1972年に発表した共著「アンチ・オイエディプス−−資本主義と分裂症(1972)」はいわゆる「68年5月」において人々が求めていた「何か」を理論的に究明し、 1970年代の大陸哲学における最大の旋風を巻き起こしました。

今や目指すべきは構造の解明でも安定でもなく、それ自体の変革あるいは破壊でなければならない。AOでは激烈極まりない精神分析批判、近代資本主義批判が展開されます。オイエディプスの首を切り飛ばし、千の欲望を表出せよ!このようなドゥルーズ=ガタリのメッセージは当時、革命の夢が潰えた時代においてある種の解毒剤の役割を果たしました。こうしてフランス現代思想のモードは「構造主義」から「ポスト・構造主義」へと遷移しました。


* 制御社会と資本主義のディスクール

その後、約半世紀の月日が流れ「68年5月」は遠い記憶となり、フランス現代思想も半ば懐古趣味となってしまいました。2021年現在、オイエディプス的価値観はポストモダン状況の進行の中で完全に失墜し、いまや切り飛ばそうにもその首自体がもはや無いという状況ですらあります。

そして今、我々の生きる現代社会とはオイエディプスよりも「さらに悪いもの」が出現した社会です。こうした社会の到来をかつてドゥルーズは「制御社会」として的確に予見していました。制御社会においては、人々を命令と懲罰で従属させる「規律権力」よりも、人々の生活環境に恒常的に介入する「生権力」が優位となり、様々なアーキテクチャによる統制の下、個人はデータベース化され、あたかもモルモットか何かのように飼い殺されていくことになります。

一方、こうしたドゥルーズのいう制御社会の到来をラカンもかなり早い段階で「享楽」の変容という観点から捉えていました。もともとラカンのいう「享楽」というのは「構造の外部」にあると想定される到達不可能な過剰快楽です。ところが1970年以降の消費化/情報化社会の進行はこの「享楽」を「構造の内部」に取り込み始めます。享楽とはもはや「禁じられた遊び」ではなく「押し売られる商品」へと変わっていきます。こうした享楽のデフレーションを図式化したのが、1972年にラカンが提出した「資本主義のディスクール」です。

資本主義のディスクール.png

高度に消費化/情報化された資本主義システムの下では、人々の要求は、速やかに統計学的処理によりデータベース化され、その最適解は新製品や新サービスとして次々と市場に供給されます。こうしていまや享楽は到達不可能なジュイッサンスから計量可能なエンジョイメントへと変容し、人々は獰猛な超自我に「享楽せよ!」と命じられ、ただわけもわからず資本主義システムという回し車を回し続けるネズミのような人生を送る事になるわけです。

こうした制御社会あるいは資本主義のディスクールの台頭は従来の神経症的欲望の衰退を引き起こします。実際に1952年の初版発行以来、今や精神医学のグローバル・スタンダードとして君臨する「精神疾患の診断・統計マニュアル(DSM)」は、1980年発行の第3版において「精神分析の母」とも言える「ヒステリー」を診断カテゴリーから削除しています。では「ポスト・神経症的欲望」とはどのようなものでしょうか?


* ふつうの精神病とふつうの倒錯

この点、ラカン派精神分析では、人の精神活動を「想像界」「象徴界」「現実界」という三つの位相で捉えます。そしてラカンによれば、人の精神構造は「象徴界」を内在化させているか否かで「神経症」「精神病」「倒錯」のいずれかに分類されます。ところが1990年代以降、ラカン派においても「神経症」「精神病」「倒錯」のいずれにも収まらない臨床例が増加し出します。

こうした事態を受けて「École de la cause freudienne(フロイト大義学派)」を率いるラカンの娘婿、ジャック=アラン・ミレールは「ふつうの精神病」なる暫定的カテゴリーを提唱します。「ふつうの精神病」とは古典的な「並外れた精神病」のような幻覚や妄想はないけれど、その心的構造に明らかな精神病的特徴が見られるような主体をいいます。

これに対して「Association Lacanienne Internationale(国際ラカン協会)」を創設したジャン=ピエール・ルブランは「ふつうの倒錯」なる概念を提唱します。「ふつうの倒錯」は「真正の倒錯」と同様「否認」というメカニズムによって基礎づけられます。この点「真性の倒錯」においては「象徴的去勢=享楽の喪失」という「欠如」を「拒絶」するという「積極的否認」により自らを主体化します。けれども「ふつうの倒錯」の場合、この主体化自体を「回避」するという「消極的否認」にその特徴がある。そして、このような「ふつうの倒錯」における主体化を回避した主体を「ネオ主体」といいます。


* 倒錯的な精神病

そして日本では、もっぱらドゥルーズ=ガタリの強い影響下にある現代思想の文脈で「ポスト・神経症的欲望」をめぐる議論が活性化しました。1980年代における浅田彰氏のスキゾ・キッズ支持、1990年代の宮台真司氏のコギャル支持、そしてゼロ年代の東浩紀氏のオタク支持など、それぞれの時代に一世を風靡した言説はまさにこうした流れの中に位置づけることができるでしょう。

この点、千葉雅也氏は「ポスト・神経症的欲望」を〈別のしかたでの欲望〉と名指した上で、これまでの議論を以下の三類型に整理しています。

(a)〈別のしかたでの欲望〉を全く精神分析的ではない「動物的な欲求」へと振り切れさせるパターン。これは東浩紀氏が「動物化するポストモダン(2001)」において展開した議論です。

(b)〈別のしかたでの欲望〉をあくまでも神経症的欲望を前提とした多かれ少なかれの倒錯化として捉えるパターン。これはスラヴォイ・ジジェクや斎藤環氏の立場に近いとされます。

(c)〈別のしかたでの欲望〉を肯定されるべき「分裂病」の解放とみなすパターン。これは古典的なドゥルーズ=ガタリ主義です。

こうした三類型を前提として氏が提示する〈別のしかたでの欲望〉とは「非-精神分析的主義(a)」と「(神経症の前提をカットした)故障させられた精神分析主義(b’)」を「倒錯的な精神病(c’)」を媒介として縫合するという、かなりアクロバティックな欲望です。

その論理はおおまかに言えば次の通りです。ドゥルーズ=ガタリはAOにおいて「神経症の精神病化」を誇張的に肯定したが、その背景にはマゾヒズム論としての倒錯論が潜んでいる。この事実は〈別の仕方での欲望〉をいわば精神病と倒錯のオーバーダブとして捉える立場を示唆している。そうであれば、ドゥルーズ=ガタリの言う「神経症の精神病化」とはいわば「否認的な排除」であり、彼らの狙いは〈倒錯的な精神病〉という折衷案であったことになる、ということです。

こうした千葉氏の議論を現代ラカン派の枠組みの中に無理やり接続するのであれば、おそらく「(ふつうの)精神病」である「かのように」振る舞う「(ふつうの)倒錯」ということになるのではないでしょうか。


* 現代ラカン派の自閉症論

これに対して、松本卓也氏は、現代ラカン派の立場から「ポスト・神経症的欲望」の手がかりを自閉症の臨床に求めます。

ラカン派において自閉症は長らく「子どもの精神病」と考えられてきましたが、1980年代以降、テンプル・グランディンの「我、自閉症に生まれて」や、ドナ・ウィリアムズの「自閉症だった私へ」といった自閉症者の伝記出版が相次ぎ、自閉症者の内的世界が徐々にあきらかになりました。そしてラカン派内部でも、ルフォール夫妻による「〈他者〉の不在」とエリック・ロランによる「縁の上への享楽の回帰」という概念の導入によって、自閉症は精神病から決定的に切り離されることになります。

こうした観点から現代ラカン派における自閉症論を「縁の上の享楽の回帰」「分身」「合成〈他者〉」という三つ組の概念により体系化したのがジャン=クロード・マルヴァルです。このマルヴァルによる自閉症論の体系はドナ・ウィリアムスの次の言葉に集約されています。

これはふたつの闘いの物語である。ひとつは、「世の中」と呼ばれている「外の世界」から、私が身を守ろうとする闘い。もうひとつは、その反面なんとかそこに加わろうとする闘いである。

−−自閉症だった私へ(24頁)


世界から身を守りつつ世界へ加わろうとすること。閉じることによって開かれるということ。自閉症の世界における様々な事象は「症状」というよりも、むしろ世界に棲まうための「闘い」であり、もはやそれは一つの「技法」と呼ぶべきものでしょう。そしてこうした「自閉的技法」は「ポスト・神経症的欲望」を生きる我々現代的主体のパラダイムを照らし出しているように思えます。


* 一般性と特異性のあいだ

こうしてみるとなかなか百花繚乱の感はありますが「ポスト・神経症的欲望」を倒錯的に捉えるか自閉症的に捉えるかという議論は実質的にはかなり重なり合う部分があります。例えば、千葉氏のドゥルーズ論「動きすぎてはいけない(2013)」におけるセルフエンジョイメント論は、松本氏のラカン論「人はみな妄想する(2015)」における一者の享楽論に相当するでしょう。そして両者に共通するのは切断と再接続からなる一般性と特異性のあいだの往還運動です。

人はそれぞれその人だけの特異性をもった存在として、一般性の中で折り合いをつけながら生きています。こうした特異性と一般性の巡り合わせが良ければ、それは「個性」として承認されますが、その巡り合わせが悪ければ「社会不適合者」として排除されてしまいます。

本当に、この差はほんの紙一重なんだと思います。けれどそれでもなお、自らの特異性と上手くやるための試行錯誤をあきらめなければ、あるいはいつか自ずと一般性との巡り合わせも変わってくるかもしれません。こうした一般性と特異性のあいだを往還する中で見出される一つの希望こそが、おそらく「ポスト・神経症的欲望」の核心なのではないでしょうか。
















posted by かがみ at 23:35 | 心理療法

2021年06月26日

リゾーム・接続と切断・世界を有限化するということ



* ファルス−−〈欠如〉としての欲望

人間とは無限に欲望する生き物です。あれをしたい、これをしたい、あんな風になりたい、この人に愛されたい・・・といったように、人はある欲望を成就させても必ず次の欲望を産み出します。こうした欲望の無限連鎖をフランスの精神分析家ジャック・ラカンは〈欠如〉への欲望として捉えました。そして、ラカンはこのような〈欠如〉を示すシニフィアンである「ファルス」へと向かう欲望を「純粋欲望」と呼びました。

1950年代のラカンは「純粋欲望」を欲望の理念形として捉えていました。けれどもラカンがその範例として取り上げたアンティゴネーの悲劇がまさにそうであるように「純粋欲望」の実践は端的に人としての破滅を意味します。そこで1960年代になるとラカンはむしろ純粋欲望からの退避を強調するようになります。ここで「純粋欲望」に至る手前で欲望の無限連鎖を有限化する安全装置としての役目を果たすのが「対象 a 」です。

「対象 a 」は人や物や出来事といった様々な表象に宿り「欲望の原因」として機能します。こうして人は「ファルス」という究極的な欲望を憧憬しつつも、実際はその周囲で「対象 a 」を日常的に欲望し続けることを欲望することになる。そして、このような純粋欲望との「絶対的な差異」を得ようとする欲望こそ精神分析における欲望に他ならないとラカンはいいます。


* リゾーム−−別のしかたでの欲望

もっとも、こうしたラカン的欲望は「ファルス」という単一の超越論的シニフィアンが欲望の無限連鎖を吊り支える否定神学構造となっています。これに対してフランスの哲学者ジル・ドゥルーズと精神分析家フェリックス・ガタリはラカン的欲望とは異なる「別のしかたでの欲望」を提示しました。

いわゆる「1968年5月革命」において人々が求めていた「何か」を理論的に究明したドゥルーズ=ガタリの共著「アンチ・オイエディプス(1972)」は、 1970年代の大陸哲学における最大の旋風の一つを巻き起こしました。そして、その続編「千のプラトー(1980)」においては「ファルス」に対するオルタナティヴとして「リゾーム」という概念が打ち出されます。

「リゾーム」とはタケやハスやフキのように横に這って根のように見える茎、地下茎のことをいいます。このような「リゾーム(根茎)」は「ツリー(樹木)」と異なり全体を統合する特権的な中心も階層もなく、ただただ限りなく連結し、飛躍し、逸脱し、横断する諸要素の連鎖からなります。いかなる事物もリゾーム上に接続されており、あらゆる事物は相互に生成変化し続けていくということです。


* リゾームにおける接続と切断

こうしてみるとリゾームとはあらゆる事物が渾然一体となった「万物斉同の世界」のように見えます。そして実際、ありがちなドゥルーズ=ガタリ主義においてリゾームは概ねこうした「接続の原理」によって一元的に把握されてきました。けれども、そのようにリゾームを捉えてしまうと、単一の原理で全体を統制するという意味では結局のところラカン的ファルスと選ぶところがないということになってしまいます。

この点、気鋭のドゥルーズ研究者として知られる千葉雅也氏は晩年におけるドゥルーズの「生成変化を乱したくなければ、動きすぎてはいけない」という箴言を導きの糸として、リゾームにおける「非意味的切断」を際立たせる読解を提示します。

確かにドゥルーズ=ガタリの魅力はあらゆる事物が渾然一体となった「万物斉同の世界」へと向かう華やかさと危うさにあります。けれどもドゥルーズは「華やかさ」と「危うさ」の裏で、同時に「慎重さ」をも求めています。持続可能な生成変化を行う上では「接続過剰」によるオーバードーズの手前での「いい加/減な切断=非意味的切断」が必要となるということです。

こうした観点からすれば、リゾームにおける生成変化は「接続の原理」と「切断の原理」のせめぎあいによって駆動しているという事になります。リゾームは多方向に接続されていくと同時に多方向に切断されていく。ではその具体的な過程はどのようなものでしょうか?


* 生成変化の原理

ドゥルーズ=ガタリによれば、ある事物Nへの生成変化とは、Nを模倣することでもNに同一化することでもありません。Nへの生成変化とは識別不可能かつ非人称的な〈知覚しえぬもの〉としての「x」への生成変化をいいます。

こうして我々はリゾームの中で潜在的に、言ってみれば「猫」になったり「トマト」になったり「魔法少女」になったりする事ができるわけですが、こうした様々な生成変化はいずれも〈知覚しえぬもの〉としての「x」へと「消去/匿名化」されることになる(Nになる=Nでなくなる)。けれどもその一方で「猫」とか「トマト」とか「魔法少女」などといった具体的な名辞は依然として「反復/維持」されることになる(Nになる=Nである)。

つまりドゥルーズ=ガタリにおいて「猫」とか「トマト」とか「魔法少女」などと言い表される「何か」への生成変化は、単数的な〈知覚しえぬもの〉としての「X」へ接続された「万物斉同の匿名化」ではなく、複数的な〈知覚しえぬもの〉としての「x」「y」「z」へと切断された「区別のある匿名化」であるということです。

要するに、ある事物Nへの生成変化とは「いわゆるN」とはズレた「分身としてのN’」の増殖であるということです。

この点、ドゥルーズ=ガタリは「区別のある匿名性」を「微粒子」と呼びます。すなわち、生成変化の原理は微粒子群を成立させる関係束(出来事=述語の束)の組み変わり(アレンジメント)にあります。

そして生成変化の実践は「モル状」ではなく「分子状」に行われます。ここでいう「モル状」とは「いわゆる〜」という粗雑なステレオタイプであり、これに対して「分子状」とはそのモル状の「いわゆる〜」を成り立たせる関係束が限定されずに、組み変わりへ開かれている状態をいいます。


* 身体と無意識

そして、こうした「関係束の組み変わり」としての生成変化は単なるパフォーマンスのレベルの変化に止まらず、脳神経のシナプス結合といった身体的なレベルの変化を引き起こします。

こうした生成変化論における心身問題の背景には、近世を代表する大哲学者の一人に数えられるバールーフ・デ・スピノザの心身並行論があります。スピノザはその主著「エチカ(1677)」において「精神」と「身体」は存在論的なレベルで全く対等に、同じ出来事をそれぞれ表現するといいます。

この点、ドゥルーズは「自らの認識の所与の制約を超えた身体の力能」を掴むことが、我々にもしできるようになるとすれば、同様の運動によって「自らの意識の所与の制約を超えた精神の力能」を掴むことができるようになるだろうと述べ「身体のもつ未知の部分と同じくらい深い思惟のもつ無意識の部分」が、ここに発見されるといいます。

すなわち、生成変化に伴う身体の変容は、新たなる無意識の生産とパラレルの関係に立つということです。すなわちここにラカン的ファルスに回収されない「別のしかたでの欲望」との出会いが見出される事になります。


* 世界を有限化するということ

こうしたドゥルーズ=ガタリの生成変化論はある種の世界を有限化するアプローチでもあります。様々なネットワークによってリゾーム化した現代社会において我々の日常は放っておいても勝手に接続過剰になってしまう。そして我々はこうした接続過剰に耐えきれず、しばし自身の思い込みで世界を色々と決めつけてしまう。けれども決めつけた世界と現実は当然整合しない。このような決断主義的な有限化は生きづらさと隣合わせです。

これに対して、接続過剰に対する非意味的切断とはある種、自身と世界を「無関係化」する事で有限化するアプローチです。動きすぎるのでも動かないのでもなく、動きすぎないということ。世界とは無関係に普段の日常を半歩ずつずらす事で様々に関係束の組み変わりを繰り返していくということ。こうしたしなやかな有限化のアプローチとしてもドゥルーズ=ガタリの生成変化論は読めるように思います。












posted by かがみ at 21:39 | 心理療法

2021年05月24日

反復・自閉・リトルネロ



* 象徴的秩序における「時間」

我々は普通「時間」というものを「過去→現在→未来」へとあたりまえに進むものだと考えています。そして、こうした連続的に発展していく線状の「時間」の上に、我々は「記憶」を形成し「自己(物語的自己)」を規定しています。

もっとも、この「過去→現在→未来」という「時間」とは、あくまで人の象徴的秩序に属するものです。すなわち、我々の生きる「時間」とは自然発生的なものではなく、ある種の象徴的決定を経ることにより初めて生じるものであるということです。


*「記憶」の形成

この点、フランスの精神分析医、ジャック・ラカンは「盗まれた手紙のセミネール」において「Fort/Da」で有名な「エルンスト坊やの糸巻き遊び」を例に象徴的決定のシステムの組成を論じています。

すなわち、全くの偶然の連鎖にすぎない糸巻きの現前(+)/不在(−)は、コード化されることで、連鎖を支配する秩序が帰結される事になりますが、そこで同時に連鎖の不可能性が生じる事にもなる。

もっとも、ラカンによれば、まさにこの連鎖から常に抜け落ちる不可能な一点により我々は「記憶」が可能になるということです。


* 想像的縮約と象徴的共存

そして、フランスの哲学者、ジル・ドゥルーズは「差異と反復」において、上のラカンの議論を下敷きにした時間論を展開します。

ここでドゥルーズは「時間」をある種の保存能力として捉えます。この保存能力は想像的縮約と象徴的共存の二段階があります。

まず、ある瞬間が次の瞬間には保持されていない不連続的瞬間が次々と継起する非時間的位相のカオス状態から、直近と直後の瞬間を「いま、ここ」という「現在」へ構成するのが想像的縮約です。これはドゥルーズの「反復」においては「裸の反復」に対する「着衣の反復」の行使として位置づけられます。

もっとも、想像的縮約は、あくまで直近の瞬間と直後の瞬間のみを暫定的な「現在」として留めることができるに過ぎない。そこで、不連続的瞬間を個別要素として縮約した「現在」それ自体を、さらに個別要素としてその中に含み保存する大域的な時間形式である「過去」を構成するのが象徴的共存です。


* タイムスリップ現象

こうした想像的縮約と象徴的共存という二段階の保存を経たものが、多くの人にとっての「時間」という事になります。けれども、その一方でこうした「時間」とはまったく別の「時間」が存在します。この別の「時間」の位相を端的な形で示すのが自閉症におけるタイムスリップ現象です。

タイムスリップ現象とは感情的な体験が引き金となり、同様の過去の記憶体験をあたかも現在の体験であるかのように扱う現象を言います。そして、その記憶体験は言語獲得以前(つまりは、ラカンのいう象徴的決定のシステムの組成以前)まで遡ることがあります。

こうした不思議な現象を理解するには、自閉症者の棲まう時間の特異性を考えてみる必要があります。すなわち、自閉症者において時間は「過去→現在→未来」と線状に進むのではなく、むしろその都度その都度の様々な時間が点状に散在している可能性があります。このような時間構造の中では、普通の意味での「自己(物語的自己)」は成立していないことになります。


* 点状に散在する「記憶」

すなわち、自閉症者にとっては過去の記憶は巨大なデータベースの中に、時間によって整序されていない等価な「あの出来事」「この出来事」として格納されているということです。つまり、これは一つ一つの記憶(出来事)がそれぞれ、他のものには還元できない「此性」をもっている事になります。

定型発達者の「記憶」とは言語により抽象化・一般化された記憶であり、言語獲得以前の時期に体験したことは記憶に残りません。反対に自閉症者の「記憶」は言語により抽象化・一般化されていない「此性」を持った「純粋な出来事」としての「記憶」である。ゆえに自閉症者は言語獲得以前の記憶をも持ちうるということです。

自閉症者はこうした点状に散在する「記憶」を生きていながら、社会的時間に適応するため、これらの「記憶」をなんとか自力で仮にまとめあげているということです。

けれども、そこに自身が揺さぶられるような不快な体験が起こったとしたら、その仮のまとめあげが崩れ、過去が現在に侵入してくる事になります。これがタイムスリップ現象の構造です。


*「能力/技法」としての自閉的行動

このタイムスリップ現象はドゥルーズの時間論を裏側から説明しているようです。すなわち、自閉症者は大域的な時間形式としての「過去」に支えられていない暫定的なまとまりである「現在」の連続としての「時間」を生きているということです。

これはまさに底沼なしのカオスと紙一重の綱渡りに他ならない。けれども、このことは同時に自閉症者が持つ特異的な「能力/技法」の存在を示唆しています。

例えばDSM-Xは自閉症スペクトラム障害の診断基準の一つとして「限定的で反復的な行動、関心、活動」をあげています。これは具体的には⑴常同的で反復的な行動⑵同一性保持、ルーティーンへの固執、儀式化された行動、⑶きわめて限局的で固定された関心、⑷感覚的入力や環境の特定の側面に対する鋭敏と鈍感、などを言います。

こうした常同的で反復的な行動がなぜ自閉症の特徴とされるのか?それは自閉症者の生きる「時間」と密接に関わっているからです。すなわち、自閉症における常同的で反復的な行動は「症状」というよりは、むしろ象徴的共存なきところでの想像的縮約により「裸の反復」に対する「着衣の反復」を生み出す「能力/技法」であるということです。



* リトルネロ

そして後に、ドゥルーズは後にこうした「裸の反復」に対する「着衣の反復」をより肯定的な概念へと洗練させます。すなわち、それがフェリックス・ガタリとの共著「千のプラトー」において提出された「リトルネロ」です。



暗闇に子どもがひとり。恐くても、小声で歌を歌えば安心だ。子どもは歌に導かれて歩き、立ち止まる。道に迷っても、なんとか自分で隠れ家を見つけ、おぼつかない歌を頼りにして、どうにか先に進んでいく。

歌とは、いわば静かで安定した中心の前ぶれであり、カオスのただなかに安定感や静けさをもたらすものである。子どもは歌うと同時に跳躍するかもしれないし、歩く速度を早めたり、緩めたりするかもしれない。だが、歌それ自体がすでに跳躍なのだ。

歌はカオスから跳び出してカオスのなかに秩序をつくりはじめる。しかし、歌には、いつ分解してしまうかもしれないという危険もある。

(千のプラトーより)



リトルネロ。同じ節や文句の反復。それは絶えず生成流転するカオスを相対的に減速させる暫定的な秩序を設立する営みに他ならない。もちろん、それはあくまで暫定的なものであり、ひとたび紡ぎあげたリトルネロも、いつまたバラバラになるかわからない。

こうしてリトルネロは、まさに子どもが暗闇の中で歌を口ずさむことで、おぼつかないながらも歩き出したり足を止めたりするように、途切れ途切れに展開していきます。それはある種の環境調整でもあると同時に、世界を「有限化」する技法でもあります。


* 世界に「住み処」を見出すということ

周知の通り「千のプラトー」の枢要概念となるのは「リゾーム」です。確かに近代秩序という「ツリー」が曲がりなりにも機能していた当時において、そのオルタナティブとしての「リゾーム」は、ある種の「華麗なる逃走」としての輝きを放っていました。

けれども、近代秩序という「ツリー」が完全に解体され、全世界がグローバル化/ネットワーク化という「リゾーム」に覆われた現代においては、むしろ接続過剰な世界の中に自分なりの「住み処」を見いだす「リトルネロ」の方に我々は賭け金を置くべきなのでしょう。

そういった意味で、現代における哲学/精神分析が切り開くべきフロンティアは、まさしく自閉症者の懸命な日常実践の中にこそ見出されるのではないでしょうか。











posted by かがみ at 23:19 | 心理療法