【参考リンク】 ラカン派精神分析の基本用語集

2020年01月30日

資本主義のディスクールと生の物語




* 理想・夢・虚構

人はその想像力をもって世界を照らし出し、自分なりの「生の物語」を紡ぎ出すことで、世界の中に自らの居場所を作りだす。

いわば人は「物語」の中で生きているということです。こうした「物語」を紡ぎだす想像力は、それぞれの時代において共有される想像力にある程度は規定されることになります。

戦後社会学の泰斗である見田宗介氏はこのような時代的想像力を「反現実」と呼びます。すなわち、我々の「現実」は「反現実」によって規定されているということです。

こうした観点から、見田氏は戦後日本史を3つの時期に区切り「プレ高度成長期(1945年〜1960年頃)」は「理想の時代」であり「高度成長期(1960年頃〜1970年前半)」は「夢の時代」であり「ポスト高度成長期(1970年後半以降)」は「虚構の時代」であると、それぞれ規定しました。


* ポスト・虚構の時代における「反現実」

そして戦後50年目、阪神大震災が起きた1995年は、戦後日本社会が曲がり角を迎えた年であり、国内思想史においてもある種の特異点に位置付けられています。

この年、一方で平成不況の長期化により社会的自己実現への信頼低下が顕著となり、他方で地下鉄サリン事件が象徴する若年世代のアイデンティティ不安の問題が前景化した。

こうして高度成長期以後、かろうじて日本社会を支えていた「理想・夢の残骸としての虚構」も、それはまさに文字通りの「虚構」でしかないことが明らかになった。こうして、ここで「虚構の時代」は臨界点を迎えたとひとまずは言えます。では、こうしたポスト・虚構の時代における「反現実」はどのように捉えるべきなのでしょうか?


* 動物の時代と不可能性の時代

1995年以降、日本社会においてはいわゆるポストモダン状況が大きく加速したと言われます。「ポストモダンの条件(1979)」を著したフランスの哲学者、ジャン=フランソワ・リオタールは「ポストモダンとは大きな物語の失墜である」と規定します。ここでいう「大きな物語」とは宗教やイデオロギーなど社会を規定する大きな価値体系の事です。

すなわち、現代は「大きな物語」の失墜した時代と言えるでしょう。この点、東浩紀氏は「物語消費」から「データベース消費」への移行という現代における消費行動分析を切り口として、人間的欲望よりも動物的欲求を優先させる現代的主体を「データベース的動物」と名付け、1995年以降の現代を「動物の時代」であると規定します。

そして、大澤真幸氏は東氏がいう「動物の時代」における「反現実」とは「不可能性」であると言います。大澤氏によれば「虚構の時代」は⑴「虚構」に反するかのような「現実への回帰」⑵「虚構」を強化するかのような「極端な虚構化」という一見相反する二つの傾向の間で分裂・解消されているという。そして、大澤氏はそこに「他者性なき他者」という「不可能性」を隠蔽する構造があるといい、1995年以降の現代を「不可能性の時代」であると規定します。


* 資本主義のディスクールと享楽社会

このように1995年以降の日本で加速したのは「大きな物語の失墜」「動物の時代」であり、ここで時代を規定する「反現実」とは「不可能性の時代」にあるとひとまずは捉えられます。そして、こうした時代の「反現実=内的現実」と照応する「実際の現実=外的現実」はフランスの精神分析医、ジャック・ラカンの提出した「資本主義のディスクール」によって記述する事ができます。

精神分析の創始者、ジークムント・フロイトは人の中に内在する根源的衝迫を「欲動」と規定しました。そしてラカンはその欲動満足を「享楽」と呼びました。

ラカンは当初「享楽」とは本来的には到達不可能なものであり、人は「対象 a 」を通じて辛うじて部分的侵犯が可能であると捉えていました。ところが70年代以降の消費化情報化社会の進行は享楽の性質に変容をもたらします。これは端的に言えば享楽のデフレーションです。消費化情報化社会の進行の中、もはや享楽とは到達不可能なジュイッサンスではなく、計量可能なエンジョイメントへと変質し始めます。

こうした時代の変化を早々に察知したラカンが、かつて示した「4つのディスクールの理論」を更新すべく1972年に提出したものが「資本主義のディスクール」です。

資本主義のディスクール.png


資本主義のディスクールが表すのは資本主義システムが生み出す際限なき享楽の氾濫と個人の生を支える幻想の失墜です。こうして「享楽せよ!」という超自我が支配する社会が到来し、溢れんばかりの対象 a の洪水の中、我々はネズミのように「資本主義のディスクール」という回し車を回し続けることを強いられる。「大きな物語の失墜」とは、いよいよ「資本主義のディスクール」が前景化して「享楽せよ!」が規範化されてしまった「享楽社会」に他なりません。



* エヴァが描き出した「他者の両義性」

以上に見たように現代とは内的には「大きな物語の失墜/動物の時代/不可能性の時代」によって規定され、外的には「資本主義のディスクール」によって規定された時代であるといえます。いずれにせよ、もはや何が「正しい生き方」なのかよくわからなくなった時代が幕を開けたということです。では、そうした時代において、人は「他者」とどのように関係して行けばよいのでしょうか?

こうした現代における「他者」との関係性を、あの時代の変わり目において真正面から問いに付した作品が「新世紀エヴァンゲリオン」でした。周知の通りエヴァは1995年秋よりTV版全26話が放送され、1997年春夏には劇場版2作が公開されました。この二つのエヴァの物語において提示されたのは両極端な「他者」のモデルでした。

すなわち「おめでとう」という承認を与える「反現実の他者=他者性なき他者」と「キモチワルイ」という拒絶を貫く「現実の他者=異質な他者」です。そしてこの両者は、実際問題として同一の他者の中に同居する。すなわち、我々はこうした「他者の両義性」を前提として他者との関係性を構築していかなければならないということです。


* ゼロ年代の想像力は「他者」をいかに描いたか

こうしてゼロ年代以降のサブカルチャー文化圏はエヴァが提示した「物語において他者をいかに描くか」という、いわば「エヴァの命題」に規定されることになります。

この点、最もわかりやすい答えは、エヴァTV版のような「他者性なき他者」を幼児的に希求する態度です。こうしてゼロ年代前期には「君と僕の優しいセカイ」の中に引きこもるような想像力が一世を風靡しました。これが「セカイ系」と呼ばれる想像力です。

ところが世の中はこうした甘い夢を許さなかった。2000年以降、米国同時多発テロ、構造改革による格差拡大といった社会情勢が象徴するように、グローバル化とネットワーク化が極まった世界において「異質な他者」は遠慮なく我々のセカイを壊しにくることが明白となった。

こうして時代は剥き出しの欲望がしのぎを削るバトル・ロワイヤルへと突入する。そこにもはや普遍的な正義が無いのであれば、人は自ら正義をでっち上げて生き延びるしかない。こうしてゼロ年代中期には「異質な他者」との間に正義の簒奪ゲームを繰り広げる「決断主義」と呼ばれる想像力が台頭する。

けれども「決断主義」の台頭は同時に、このある意味で不毛な簒奪ゲームをいかにして乗り越えるのかという問題意識をもたらしました。こうしてゼロ年代後期には「異質な他者」との間にコミュニケーションを通じて「他者性なき他者」を発見していく「ポスト・決断主義」というべき想像力が前景化していきます。


* 「きずな」と「生きづらさ」

こうした「他者」をめぐる様々な想像力が錯綜する状況で2007年、エヴァは全4部作の新劇場版として再起動しました。総監督を務める庵野秀明氏はその所信表明において、エヴァという作品を「曖昧な孤独に耐え他者に触れるのが怖くても一緒にいたいと思う、覚悟の話」だと再定義します。

その第1部「序」はTV版の6話までをほぼなぞるような構成ですが、その後に続く「破」は驚きを、そして「Q」は困惑を、多くの観客にもたらしました。

すなわち「破」が「異質な他者」との間に「他者性なき他者」を発見していくというゼロ年代的想像力を体現する「きずなの物語」だったのに対し「Q」は様々なクラスターや格差によってズタズタに寸断されていくゼロ年代的現実を告発する「生きづらさの物語」だったとも言えるわけです。


* 時に、西暦2020年

この「破」から「Q」に至る流れはかつてのTV版から劇場版へ至る流れを想起させます。かつてエヴァ劇場版はエヴァTV版に共感する「エヴァの子供達」に冷や水をぶっかけるような結末を提示しました。ここで示されたのも「おめでとう」という幻想ではなく「キモチワルイ」という現実を見ろという警鐘ではなかったでしょうか。

「おめでとう」から「キモチワルイ」へ。「きずな」から「生きづらさ」へ。こうしてみると庵野氏の立ち位置はある意味で一貫しているといえるでしょう。

そしていま、平成から令和へと移り変わったこの時に、新劇場版が完結を迎えるのは一つのめぐりあわせのように思えます。かつて時代の変わり目において巨大な「問い」を突きつけたこの作品は、いま再び時代の変わり目においていかなる「答え」を見せてくれるのでしょうか。


* もう一つの「反現実」

こうして我々は「大きな物語の失墜」という内的現実と「資本主義のディスクール」という外的現実の下で、「きずな」と「生きづらさ」の間にある隘路を行くことになる。すなわち、こうした時代性を逆手に取る想像力こそがいま必要とされているということです。

この点、宇野常寛氏は見田氏や大澤氏の議論を引き継ぎつつ、グローバル化とネットワーク化の極まったこの現代における「反現実」とは、理想や夢や虚構、あるいは不可能性といった「ここではない、どこか」を夢想する「仮想現実」ではなく、我々が生きる「いま、ここ」を多重化していく「拡張現実」であると言います。

こうした「拡張現実」を「反現実」に位置付けることで、ある種の価値観の転換が可能となるでしょう。人はこの何気ないありきたりな「いま、ここ」の現実に深く潜っていく事で様々な豊かな「生の物語」をいくらでも紡ぎ出していけるということです。


* 物語を書き換えていく知

人は「物語」の中で生きています。これまで人の「生の物語」を基礎付けていた「大きな物語の失墜」は我々に「不安」をもたらしたことは確かです。けれどその反面で、人は多様な「小さな物語」の中で自分だけの「生の物語」を選択していく「自由」を手にしたことも確かです。また「資本主義のディスクール」から日々産出される様々なガジェットやコンテンツ達は使い方次第で現実を拡張していく上で良き媒介にもなるでしょう。

こうした時代の闇と光を見はるかし、内的-外的な現実における様々なめぐりあわせの中で自らの「生の物語」を自在に書き換えていく。このような「物語」に対するリテラシーこそが、享楽のデフレーション、幸福の規制緩和の時代ともいうべき現代を生きる上での知となるのではないでしょうか。













posted by かがみ at 23:15 | 心理療法

2019年12月31日

「現実界」と「生の現実」



* 帝国の体制と制御社会

今世紀初頭に出版され世界中でベストセラーとなった「〈帝国〉」において、その共著者であるアントニオ・ネグリとマイケル・ハートは「国民国家の体制」と「帝国の体制」を対置して「国民国家」の衰退が「帝国」の到来を告げる主要な兆候の一つであると指摘しています。

つまり現代においては「国民国家(ナショナリズム)」というイデオロギーに代わり「帝国(グローバリズム)」というシステムが世界を席巻しつつあるということです。

この点「国民国家の体制」と「帝国の体制」では作動する権力の質が異なります。ミシェル・フーコーの分類に準拠すれば、前者では権力者が命令、懲罰を与える事で対象者を望ましい態度へ矯正する「規律訓練」が優位となりますが、後者では対象者の自由意志を尊重しつつその生活環境に介入する事で結果的に権力者の目的通りに対象者を動かす「生権力(環境管理型権力)」が優位となります。

そして後者が優位になる時、アーキテクチャによる統制の下、人間がモルモットのように飼い殺されていく社会、ジル・ドゥルーズの言うところの「制御社会」が出現します。


* 現代における「悪」の病理

こうして、いまや「帝国の体制=制御社会」というシステムの下、ヒト・モノ・カネの流動化・情報化は日々際限なく加速し続け、そこで不可避的に生じる矛盾や衝突は「システムのコスト」としてどんどん社会的弱者へと転嫁されていく。そしてそのコストは時に悲惨な形で無関係な人々にさらに転嫁されてしまう。

これが現代における「悪」の病理です。それは例えば、世界レベルで見ればグローバル化の反作用としての原理主義者のテロリズム、国内レベルで見れば格差社会の不適応としての「無敵の人」の無差別殺人事件という形で噴出する。

今年秋に公開され世界中で物議を醸し出した映画「JOKER」はまさにこうした現代的な「悪」の病理を描き出した作品と言えます。社会の「ババ」を押し付けられた存在として、あるいはもはや何も失うものがない「最強の存在」として、多くの人にドミノ的に災厄をばら撒く「悪い冗談」として。こうした何重の意味においてジョーカーは文字通りの「ジョーカー」として君臨する。

けれども当然のことながら、我々はジョーカーになるわけにはいかない。こうして現代に生きる我々にはシステムに飼い殺される事なく生のリアリズムを見出すための想像力が求められることになります。


* 現実界と対象 a

この点、フランスの精神分析医、ジャック・ラカンが「精神分析の四基本概念(1964)」において提示した理論は近代哲学の一つの到達点を示しています。

イマヌエル・カントによって確立された近代哲学は、認識システムで捕捉可能な「現象」の外部にある不可知の「物自体」に人の超越性を見出しました。そして、ここでラカンが示したのはこの超越性を操作するための理論装置と言えます。

ラカンは人の精神活動を以下の3つの次元で捉えます。イメージの次元である「想像界」、言語の次元である「象徴界」、そして、イメージでも言語でも捕捉不可能な「現実界」です。

つまり「想像界」「象徴界」から構成される我々の認識システムは「現実界」という「穴」を中心にぐるぐると旋回しているということです。

ここでラカンのいう「現実界」とは、カント哲学における「物自体」に相当します。ラカンはこうした本来不可知の「現実界」を「欲動の往還運動」の中に囲い込むことで「欲動の対象=対象 a 」として切り出します。つまり精神分析においては、分析家が「対象 a 」の場を演じることで、分析主体の症状を規定する「幻想=$♢a」へ介入が可能となるわけです。


* 幻想と生きづらさ

ここで示されたラカンの理論は、当時の最も革新的な精神分析理論であると同時に、最も洗練された近代哲学でもありました。そしてその有効性と輝きは現在においても未だ失われてはいないでしょう。

けれども一方、これだけではあらゆる状況や価値観が夥しく出現しては目まぐるしく流転していく現代に対応する想像力としては不十分です。

わかりやすい例でいうと「一流大学を出て一流企業に入り、それなりの恋愛を経てそれなりの家庭を持つ」などという、もはや古色蒼然というしかないロールモデルに「幻想」を見出してしまい、そのプロセスのどこかで挫折した時、多くの場合、その「幻想」は「生きづらさ」として跳ね返ってくるでしょう。

いまや、何かしらの特定の「幻想」に夢を見出して、人生全てを預けてしまうかの如き態度は、相当にリスクを伴う生き方と言わざるを得ない。こうして現代における想像力は、ラカン的「現実界」の外側にある何かに求められることになります。


* 否定神学システムと郵便的誤配

この点、東浩紀氏は「存在論的、郵便的(1998)」において、上に述べたようなラカン理論を「否定神学システム」と呼び「現実界」から脱出する思考として「郵便的誤配」の概念を提出しました。

かつてラカンは人の認識システムが「現実界」を中心に巡る必然性を「手紙は常に宛先に届く」と表現しました。これに対して、ポスト構造主義を代表するフランスの哲学者、ジャック・デリダは「手紙は宛先に届かないことが常にありうる」と応答しています。

そして、東氏はある時期のデリダの著作の読解を通じて、単数的穴である「現実界」ではなく、複数的他者の交差する「端的な現実」におけるコミュニケーションの「誤配=すれ違い」の中に超越性を見出すことでラカン的否定神学システムの乗り越えを試みます。


* 物質界と思弁的実在

またゼロ年代以降のフランス現代思想の潮流も、東氏とは別のアプローチで「否定神学システム」からの脱出を試みます。

例えば、カトリーヌ・マラブーは、脳神経に物質的な変化や障害が起きれば、その「可塑性(外因的変化)」によって精神は変容を強いられるといい、ラカン的「現実界」とは別に「物質界」を位置付けます。

また、カンタン・メイヤスーは、カント的な認識論(つまりはラカン的否定神学システム)を「相関主義」といい、この相関主義の外部にある「思考不可能な実在」が非合理的な「信仰主義」の拠点となるとする。

そして、メイヤスーは「思考不可能な実在」とは別に「思考不可能ではない実在(物質的世界)」を措定し、この世界のあり方に必然性はなく、全くの偶然性で別様の世界に変化する可能性もあるし、このまま世界が維持されるとしてもそれは偶然の結果に過ぎないという思弁的な結論を導き出す。こうした考え方は「思弁的実在論」と呼ばれており、現代哲学における新しい潮流として注目を集めています。


* サントーム

さらに、近年はラカン派内部でも、ラカンが1970年代に行ったセミネールの再検証が進んでおり、晩年のラカンも、かつて自らが構築した「否定神学システム」の外側に精神分析の終結条件を見出していた事が明らかになっています。

ラカンは精神分析の終結条件について「主体の歴史の書き直し」「幻想の横断」「主体の廃位」「対象 a の転落」と様々な角度からの説明を試みていますが、1977年に決定的な定式を与えます。すなわち「症状への同一化」です。

ここでいう「症状」とは分析の果てに見出されたその人だけがもつ特異性あるいは単独性の結晶、すなわちラカンのいう「サントーム」です。

ここでラカンは「否定神学システム」の外側に「症状=サントーム」を見出していることになります。すなわち、人は自らの中にサントームを発見し、あるいは発明することで「否定神学システム」の呪縛を解き放ち、その人なりの幸福を生きていくことができるという事です。


* 特異点としての「生の現実」

誤配、物質界、思弁的実在、そしてサントーム。ここで共通する発想は「現実界」から自由になるための特異点を人それぞれ固有の「生の現実」に求めているところにあります。

「生の現実」。それは「象徴界のリミット」「不可能な領域」「世界の果て」という意味での「現実界」とは位相を異にする「いま、生きている」という「あたりまえの現実」です。

一見、ある種の開き直りとも取れる発想です。これはバカバカしいことなのでしょうか?2016年に映画化され、大きな反響を呼び起こした「この世界の片隅に」の作者、こうの史代さんは原作のあとがきで次のように書いてます。

「平成一八年から二一年の『漫画アクション』に、昭和一八年から二一年のちいさな物語の居場所があった事。のうのうと利き手で漫画を描ける平和。そして今、ここまで見届けてくれている貴方が居るという事。すべては奇蹟であると思います。」

(「この世界の片隅に(下)」より)


本作の主人公、北條すずは太平洋戦争末期に時限爆弾の炸裂に巻き込まれ、自分を慕っていた義理の姪と右手を一瞬のうちに喪ってしまいます。こうした悲劇は決して遠い昔の他人事ではない。マラブーの「可塑性」やメイヤスーの「思考不可能ではない実在」ではないですが、我々は次の瞬間も生きているという保証はどこにもないし、もしかして次の瞬間にこの日常が灰燼に帰している可能性だってある。

そうであれば次の瞬間も「のうのうと」と生きていられる「あたりまえの現実」があるという事は「すべては奇蹟である」という事ではないでしょうか。

こうして我々の前には、一方で日常的に生起する困難や理不尽な現実があり、一方で「いま、生きている」という瑞やかな現実があるということです。世界がディストピアになるか、可能性に満ちたものになるかの分岐点は、まさにこのどちらの「現実」を引き受けるかという選択にかかっているのでしょう。










posted by かがみ at 01:56 | 心理療法

2019年11月29日

抑圧無意識とアメンチア無意識



* 心身症とヒステリー

「こころ」の問題が「からだ」の症状として現れる病理といえば、今日ではまず「心身症」と呼ばれるカテゴリーが想起されるでしょう。

1991年、日本心身医学会によって心身症は「その発症や経過に心理社会的な因子が密接に関係し、器質的ないし機能的障害が認められる病態を指す。ただし、神経症やうつ病などの精神障害に伴う身体症状は除外する」として定義され、1996年、厚生省(当時)によって心身症を専門とする「心療内科」が標榜科として認められました。

心身症は人によって様々な症状が見られますが、一般的によくみられるのは頭痛、胃痛、下痢、便秘、吐き気などです。その中でも特定の身体症状が顕著な場合は「緊張性頭痛」「片頭痛」「急性胃潰瘍」「慢性胃炎」「過敏性腸炎」などの診断名が付きます。

ところで、かつてこうした「こころ」の問題が「からだ」の症状として現れる病理の代名詞といえば「ヒステリー」でした。ヒステリーは古代より長らく謎の奇病とされていましたが、周知の通り19世紀末に精神分析の始祖であるジークムント・フロイトによってその治療法がひとまず確立されることになります。

しかしながらその後、ヒステリーは急速に往時の勢いを失ってしまい、アメリカ精神医学会が1980年に発行した「精神疾患の診断・統計マニュアル第3版(DSM-V)」においてヒステリーは診断カテゴリ一覧から削除されます。

こうした「心身症の前景化」と「ヒステリーの衰退」という変化は如何に理解されるべきなのでしょうか?そこには何らかの「こころ」の問題の変容があるのでしょうか?


* 生物学的身体とエロース的身体

この点、フランスの精神科医、クリストフ・ドゥジュールは「リビドー転覆」の理論によって神経症と心身症を切り分けます。

まず、ドゥジュールによれば人は「生物学的身体」と「エロース的身体」という二つの身体を生きているといいます。

「生物学的身体」とは人体を構成する臓器や神経系統の物理的総和としての身体であり、これに対して、「エロース的身体」とはセクシュアリティと密接に関連した、あらゆる主観的・心理的経験の舞台となる身体です。

ドゥジュールは、心身医学・生物学および精神分析の比較研究を踏まえ「生物学的身体」と「エロース的身体」は同じ肉体に宿りながらも異質な身体であるといいます。


* 寄りかかり理論

そして、ドゥジュールは「エロース的身体」は「生物学的身体」に寄りかかって発達してくるといいます。

ここでドゥジュールが参照するのはフロイトの欲動論です。周知の通りフロイトは人間に内在する根源的衝迫を「欲動」であると規定します。もっともフロイトの欲動論は時期によって様々に遷移していきますが、ある時期のフロイトは「欲動」を「自我欲動(自己保存欲動)」と「性欲動(リビドー)」として把握しています。

「自我欲動(自己保存欲動)」は、飢え、乾き、排泄、睡眠といった、人体の生命維持に関わるものです。我々が通常「生理的欲求」と呼んでいるものはこちらに属します。これに対して「性欲動(リビドー)」は人のセクシュアリティ形成に関係するものです。

そしてフロイトによれば生命維持に関わる自我欲動は生の初めから活動を開始するのに対して、性欲動はこの自我欲動に「寄りかかり」ながら遅れて発達してくるということです(寄りかかり理論)。

例えば口唇欲動(唇、口腔、咽喉を中心とした領域の快=満足を求める欲動)であれば、もともと母乳を吸飲するという行為(空腹という生理的欲求を満たすための行為)の中で芽生え、徐々に自己目的化して、最終的に自律性を獲得する。

こうした「寄りかかり」は口唇以外の−−肛門、尿道、目、耳、皮膚といった−−あらゆる身体器官におよび、それぞれの身体器官の機能に「リビドー化(性欲動による属領化)」がもたらされることになります。


* リビドー的転覆

このフロイトの自我欲動と性欲動の関係は、ドゥジュールのいう生物学的身体とエロース的身体に対応します。

すなわちエロース的身体は生物学的身体に寄りかかって発達した後、やがて生物学的身体を乗っ取ってしまうということです。

これをドゥジュールは「リビドー的転覆」といいます。こうして「リビドー転覆」によりエロース的身体が生じる。そして神経症とはこのエロース的身体の上で形成される病理ということです。


* 症例ドーラ

神経症における症状形成のメカニズムは「リビドーの固着と退行」です。

フロイトによれば、口唇期→肛門期→男根期と進んだ性欲動(リビドー)の発達は、その後、潜在期を経て思春期(第二次性徴)の訪れとともに再び活性化されて性器段階に達する一方、過去の各段階に一定量の「固着」を残すことになる。

こうした固着が強いとリビドー備給が阻害された時(例えば、意中の人にフラれた時)、このリビドーは過去の固着点へ「退行」し、そこで症状が形成される。この場合、症状は失われた愛の代理物(象徴)としての役割を果たしているわけです。

こうした神経症の古典的症例として有名なのがフロイト5大症例の1つに数えられる「症例ドーラ」です。

フロイトの分析によれば、彼女が繰り返していた神経症性の咳は、性的不能者であった父親が愛人との間で行なっていたクンニリングスの空想に結びついている、ということになります(ヒステリーにおいては一般に口唇期の固着が支配的であるため、口唇領域に症状が現れることが多いと言われます)。

このような手の込んだ症状は咽頭の機能が十分にリビドー化されているからこそ表現可能なものといえます。


* 抑圧における隠喩構造

こうしたエロース的身体の成立は「抑圧」と呼ばれる心的メカニズムによって説明できます。

この点、フランスの精神分析医、ジャック・ラカンは周知の通り「抑圧」を「隠喩」の構造として捉えます。

ラカンの提出した有名なテーゼに「無意識とは言語のように構造化されている」というものがあります。一種の言語構造の場としての無意識において様々な表象(シニフィアン)の結合は「隠喩」と「換喩」という二つの効果として現れます。

ここでいう「換喩」とは、例えば「船」を「帆」で表すように、あるシニフィアンから、関連する他のシニフィアンへの置き換えをいいます。これは単なる横滑りであり新たな意味を創造しているわけではない。

これに対して「隠喩」とは、例えば「ボアズ」を「麦束」で表すように、あるシニフィアンを、全く関連のない他のシニフィアンへの置き換えをいいます。

「船」と「帆」と異なり「ボアズ」と「麦束」の間に換喩的な結びつきはありません。しかしこの時「ボアズ」は「麦束」の中に保存され、これが新たな意味作用の創造へと結びつきます。

「作詩や創作にみられる意味作用の効果が生じてくるのは、別の言葉で言えば、問題となっている意味作用の出現の効果が生じてくるのは、記号表現と記号表現の置き換えによっていることを示しています。」

(ジャック・ラカン「無意識における文字の審級」−−「エクリ」516頁)


つまり、エロース的身体において生み出される各種の神経症の症状とは、一面において無意識に保存された欲望の隠喩に他ならないという事です。


* リビドー的転覆の停止と心身症

問題は「リビドー的転覆」のプロセスが何らかの事情で停止し、エロース的身体の形成が不十分な場合です。この場合「リビドー的転覆」が及んでいない身体機能は未開発の領域として取り残されることになります。

こうした身体を持つ主体が、なんらかの精神的負荷を負った時、エロース的身体の代わりに当該負荷の受け皿となる生物学的身体は端的な失調状態に陥ります。

ここで現れるのが頭痛、胃痛、下痢、便秘、吐き気といった「身体化」と呼ばれる各種症状です。

これらの症状は神経症のそれのように欲望の隠喩を担っているわけではなく、そこに読み取るべき無意識の詩学は存在しない。生物学的身体にかかる精神的負荷は端的な身体症状として「ダダ漏れ」している事になります。

ヒステリーが比較的込み入った症状を伴うのに対して、心身症がどちらかといえば単純な症状である点は、こうした受け皿となる身体の差異に起因するということです。


* アメンチア無意識

もっとも心身症の場合にもある種の無意識は関与しています。この点、ドゥジュールは「身体化」に関わる無意識を「アメンチア無意識(inconscient amentiel)」と呼び、「抑圧されたものの場」という意味での従来のフロイト的無意識と区別します(「アメンチア」とはラテン語でいう「a-mens(精神を欠いた)」という意に由来)。

この点、ドゥジュールの理論を紹介する立木康介氏は従来のフロイト的無意識を「抑圧無意識」と言います。この「抑圧無意識」には主体がその身体(エロース的身体)によって受け止めた様々な記憶や表象が保存され、主体はそれらを用いて思考したり行動したりするわけですが、これに対して「アメンチア無意識」には、条件反射の学習による思考しか存在しない。「アメンチア無意識」はドゥジュールの言うところの「思考なき無意識」です。

もとよりこうした「抑圧無意識」と「アメンチア無意識」は立木氏によれば、いかなる主体においてもつねに並存しているとされます。ただ「リビドー的転覆」が達成された度合いに応じて「アメンチア無意識」の相対的割合が小さくなったり大きくなったりするということです。


* 心身症化した社会

このように「リビドー転覆」の理論からすれば、神経症とは「エロース的身体」の上で形成される病理であり、これに対して、心身症とは「生物学的身体」の上で生じる病理ということになります。

すなわち、今日における「心身症の前景化」と「ヒステリーの衰退」というパラダイムシフトが示しているのは、端的に言えば「抑圧の衰退」ということになります。

こうした「抑圧の衰退」はいわゆる現代ラカン派でいうところの「象徴界の衰退」や「享楽社会」といった文脈の中で捉えることができます。

すなわち、現代はいわば心身症化した社会とも言えるでしょう。実際にドゥジュールは抑圧の衰退とエロース的身体の凋落による「身体化」の別ヴァージョンとして、暴力などの反社会的な「行為化」、あるいはいくつかのタイプの倒錯傾向を位置付けています。

こうして見ると、原理主義者によるテロリズムや「無敵の人」による無差別殺人など、資本主義システムの反作用として出現する現代の「悪」も、どこか心身症的なところがあるのではないでしょうか。

世界中がグローバリズムとネットワークによって常時接続された今、ヒトやモノやカネの流動化と情報化は日々加速し、そこで不可避的に生じる矛盾や衝突は「システムのコスト」としてどんどん社会的弱者へと転嫁されていく。

そこで生じるのは様々な「生きづらさ」であり、こうした「生きづらさ」という負荷はエロース的身体によって隠喩化される事なく、生物学的身体からただただ単純な「暴力」として「ダダ漏れ」する。あるいはこれが現代の「悪」の病理なのではないかとも思うわけです。

いまや抑圧を行う超越的審級は完全に衰退し、代わりに世界を覆うのは享楽をばらまくシステムに他ならない。現代の社会構造をこのように捉えるのであれば、いま必要とされるのは、こうしたシステムから生じる不可避のコストを一点に収束させることなく、いかに緩やかに拡散させていくかという戦略と物語なのでしょう。


参考文献:『露出せよ、と現代文明はいう(立木康介)』103頁以下−−「コンテンツなき身体、思考なき無意識」





posted by かがみ at 21:31 | 心理療法

2019年10月29日

承認・まなざし・コミュニケーション



* 「キャラ化」する子どもたち

精神科医、斎藤環氏は「承認をめぐる病」という著書において、現代の、とりわけ思春期におけるコミュニケーションの本質には「キャラとして承認されること」があると述べています。

「キャラ」とは、例えばクラスなどの特定の人間関係内における個人の「役割」のようなもので、必ずしも決して本人の性格とは一致しません。

典型的なキャラの類型としては「委員長キャラ」「毒舌キャラ」「いじられキャラ」「オタクキャラ」「天然キャラ」などがあるでしょう。

「キャラ」は当該人間関係内におけるコミュニケーションを通じて半ば自然発生的、無意識的に振り分けられ、以降、いったん割り当てられた「キャラ」を逸脱する振る舞いは難しくなると言われます。

斎藤氏はこうしたキャラ文化の最大のメリットはコミュニケーションの円滑化にあるといいます。相互のキャラが適切に把握できていれば、そのキャラというコードを通じてコミュニケーションのモードは自ずと定まってくるわけです。

すなわち、ここではコミュニケーションがキャラに規定される一方で、キャラはコミュニケーションを加速させるという関係性が成り立っています。このようにキャラとコミュニケーションは相互依存的関係にあるわけです。

そしてここでいう「コミュニケーション」なるものは「レトリック(弁論)」や「ダイアローグ(対話)」といった本来的意味ではもちろんありません。いわゆる「空気を読む」とかいうあの謎の技術です。

言うまでもなく、こんな下らないものと人の価値は無関係です。組織に「空気を読む」人間だけしかいないとすればそれはもう悲劇以外の何物でもないでしょう。けれども一方、人間関係のクラスター化が加速する昨今、この「空気」なるものの存在感がますます増しているのもまた事実でしょう。

こうして我々はクラスター毎に「キャラ」をあたかもSNSのアカウントのごとく素早く切り替え、その場の「空気」に最適化する「コミュニケーション」を日々、強いられているわけです。

そういうわけで、我々は否応なくこの「空気」なる得体の知れない物をどうにかして捉えなければならない。ここで強力な手がかりを与えてくれるのがラカン派精神分析における「まなざし」という概念です。「まなざし」とは何でしょうか?


* 「まなざし」の作用

「まなざし」というのは視覚の問題と表裏に関係に立っています。フランスの精神分析医、ジャック・ラカンが、セミネールⅪ「精神分析の四基本概念(1964)」おいて「まなざし」について論じた際、次のような若き日の体験談を紹介しています。

20代の頃、都会のインテリ知識人という身分をもて余していたラカンは、過酷な自然の中に飛び込み危険な肉体労働に従事するという実践体験に興味を持ち、ある日、田舎の漁師と小さな船に乗って漁に出る。

船上のラカンが網を引揚げようとしたその時、同船していたプチ・ジャンという漁師が波間に漂う「鰯の缶詰」を指し示して、若きラカンに対して次のように言いました。「あんたあの缶が見えるかい、あんたはあれが見えるだろ。でもね、奴のほうじゃあんたを見ちゃいないぜ」。

漁師はあくまでユーモアのつもりで言ったみたいですが当のラカンはあまり面白い気分ではなかった。つまり、自分が今やっているのは所詮インテリのなんちゃってごっこ遊びに過ぎないことに気付いてしまったからです。

これが「まなざし」の作用です。若きラカンは波間に漂う鰯缶を眺めるうちに、その乱反射するきらきらした光の中に「まなざし」を意識しかけていることを、図らずも漁師から否定形のメッセージとして受け取ったわけです。要するに斎藤氏の文脈で言えばラカンは「キャラ」になり切れていなかったということになります。


* 「見る」と「見られる」

見かけと存在の関係、哲学者が視覚の領野を征服することによって簡単に支配者となってしまったこの関係の本質はもっと他のところにあります。その本質は線の方にあるのではありません。それは光点、つまり放射の原点、きらめき、炎、輝きの湧出の源にこそあるのです。

(ジャック・ラカン「精神分析の四基本概念」124頁)


ラカンは同じ講義中で二つの三角形からなる図式を使用して、「視覚」と「まなざし」の関係性を示しています。次のようなものです。

二つの三角形.png

(ジャック・ラカン「精神分析の四基本概念」122頁の図表をもとに制作)


まず、上段の図は、人間の視覚機能を構成する実測的領野、すなわち「見る」という領野を構成します。

この「実測点」に位置するのが「主体」です。そしてその主体の向こう側に対置されるのが「対象」であり、両者の間には「象」すなわち「表象」が定位します。

こうして「見る」という領野においては、主体は対象を表象化する存在であり、もし世界が一枚の絵だとすれば、主体は絵の外部に、描き手ないしは鑑賞者として位置することになります。

そして、下段の図は、「見る」とは異なるもう一つの領野、すなわち「見られる」という領野を表現しています。

ここで「光点」に位置するのは〈他者〉です。ここでいう〈他者〉とは、ある象徴的秩序それ自体を体現する超越的外部をいいます。例えば、両親、国家、神、あるいは言語、法、倫理などです。

こうして「見られる」という領野においては、主体は〈他者〉にとらわれた存在であり、もし世界が一枚の絵だとすれば、主体は絵の内部に−−例えば若きラカンのように−−「シミ」として位置することになります。


* 「対象 a 」としての「まなざし」

そしてこの「見る」と「見られる」の交差点に発生する理念上の平面が「スクリーン」です。

「スクリーン」とは我々の意識に相当します。そして「スクリーン」が遮蔽する向こう側に隠された〈他者〉。これが我々の無意識に相当します。

そして、若きラカンが見たあの鰯缶に見たきらめきがまさにそうであったように、主体はある対象を表象として「見る」という活動のその只中で、〈他者〉から「見られる」という錯覚に捕らえられてしまうことがあります。

こうした「スクリーン」上には、我々の「見る」という実測的領野を歪ませる光の揺らめき、あるいは今「見えるもの」がまさに「見せかけ」でしかないということを示す何かが現れる。これがいるはずのない〈他者〉を仮構する対象、すなわち「対象 a 」としての「まなざし」ということになります。


光の空間として私へと現れているもののの中で、眼差しとはつねに、光と透過不能性による何かの働きです。それは、さっきの私のちょっとした物語の中心にあったあの輝きです。そしてそれは、スクリーンであったり、スクリーンから溢れるきらめきとして光をあらわにしたりすることによって、つねに私を引きつけ魅了するものです。要するに、眼差しの点はいつも、宝石の輝きのような曖昧さを帯びているのです。

(ジャック・ラカン「精神分析の四基本概念」126頁)



* 「空気を書き換える」ということ

こうしてみると、我々が血眼になって読んだり抗ったりするあの「空気」なるものも「まなざし」の一種である、という言い方ができるでしょう。

もしそうだとすれば「キャラ」を演じるという行為は、ラカンのいう「想像的同一化」と「象徴的同一化」のメカニズムの上に成立している事になる。つまり「キャラ」という鏡像イメージへの同一化の前提には、「空気」という名の「まなざし」を通じた「コミュニティ」という〈他者〉それ自体への同一化があるわけです。

このように「空気」を「まなざし」として捉える時、我々はコミュニケーションの空間にまた違う可能性を開くことができるのではないでしょうか。

それはすなわち、我々が「対象 a 」として「まなざし」それ自体の位置を取ることで、一旦確立された〈他者〉に動揺を加え、そこに再び流動性や誤配性を呼び込んでいく可能性です。これは端的にいうと「空気を読む」のでも「空気に抗う」のでもない、いわば「空気を書き換える」というコミュニケーションのあり方と言えます。

もはや絶対的な超越性が信じられなくなった現代において人は、その時々に生じる相対的な超越性へ複数的に帰属して生きていく事になる。そうである以上、我々はどうあってもキャラからも空気からもコミュニケーションからも逃れることはできない。

ここで「コミュニケーションなど下らない」などという「正論」をいくら闇雲に叫んでもおそらく世界は何も変わらないでしょう。もしコミュニケーションのあり方を変えたいのであれば、それは結局のところ、コミュニケーションを通じて実現していくしかないわけです。


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posted by かがみ at 20:39 | 心理療法

2019年09月29日

「ふつうの倒錯」と揺籃社会




* 神経症の終焉

1952年の初版発行以来、精神科臨床に「合理化」と「平準化」をもたらし、今や精神医学のグローバルスタンダードとして君臨する「精神疾患の診断・統計マニュアル(DSM)」の改訂史はアメリカ精神医学が精神分析から決別していく過程でもあります。

とりわけ1980年に発行された第3版は「精神分析の母」とも言える「ヒステリー」を診断カテゴリ一覧から削除し、神経症概念を解体したことで知られています。そして残念ながらアメリカの精神分析にはこの時代の趨勢を跳ね返すだけの余力が残されていませんでした。

一方で、ラカン派精神分析の強い影響下にあるフランスでは、少なくとも1990年代中盤まではDSM何するものぞという空気がまだ支配的でした。

ところが、1990年代後半になるとやや事情が変わってきます。それは端的に言うとラカン派の伝統ともいうべき神経症・精神病・倒錯という三位一体の構造論を揺るがせる患者群が注目されるようになったということです。

こうしてDSMからもっとも遠くに立っていたラカン派ですら、神経症はもはや往時の勢いを失ってしまいます。では一体、何が神経症に取って代わったのでしょうか?


* ふつうの精神病

この点、ジャック・ラカンの娘婿にしてラカン派の主流「École de la cause freudienne(フロイト大義学派)」を率いるジャック=アラン・ミレールは1998年「ふつうの精神病」なるカテゴリーを提唱します。

ここでいう「ふつうの精神病」とは正式な診断名ではなく、近年、前景化してきた「精神病の軽症化」に対処するための暫定的なカテゴリーです。

周知の通り、ラカン派ではボーダーラインを認めません。そこで予備面接段階において、神経症であるという確証が得られないケースで「ふつうの精神病」の特徴が見られる場合は、ひとまず自由連想などの通常分析を控えるべきであるとミレールは言います。

その後の臨床経過において、神経症的特徴(エディプスコンプレックスの痕跡、抑圧に由来する葛藤、分析家へのアンヴィバレントな感情転移等々)が判明した場合は通常分析に切り替え、そうでない場合は、改めて古典的カテゴリーに即した鑑別診断が行われることになります。


* ふつうの倒錯

これに対して「Association Lacanienne Internationale(国際ラカン協会)」のジャン=ピエール・ルブランは「ふつうの倒錯」なる概念を提唱します。

ルブランは2007年の著作「ふつうの倒錯」の中で「正常の中に倒錯を組み入れつつ、正常を考える」という自らの立場を明確にしており、これは「正常の中に神経症を組み入れつつ、正常を考える」というフロイトの立場に通じます。

フロイトは言うなれば「ふつうの神経症」というものを考えたわけです。つまり「ふつうの倒錯」はあくまで「正常」の位相に位置付けられる「ふつうの神経症」のオルタナティブであり、この点において「病理」の位相に位置付けられる「ふつうの精神病」とは異なっているということです。


* 否認とは何か

「ふつうの倒錯」は「真正の倒錯」と同様「否認」というメカニズムによって基礎づけられます。「否認」とはなんでしょうか?

この点「象徴界」を中心とした50年代ラカン理論のタームで言えば「否認」とは「象徴的去勢の否認」を言います。

すなわち、神経症者が「〈父の名〉=象徴的父」がもたらす象徴的去勢を止むを得ず是認するのに対して、倒錯者はこれを否認し、ひたすら「〈他者〉=象徴的母」の欲望の対象である想像的ファルスへの同一化に固執します。

また「現実界」を導入した60年代ラカン理論のタームで言えば「否認」とは「享楽喪失の否認」を言います。

すなわち、神経症者がシニフィアンの主体となる事で生じる享楽喪失を止むを得ず是認するのに対して、倒錯者はこれを否認し、迷いなく享楽奪還の道を突き進みます。

このように時期によって理論構成の違いはあるにせよ、ざっくりいえば、神経症者が「そうだな、世界はそういう風にできている」と葛藤を抱えつつも受容する態度だとすれば、倒錯者は「そんなことあるか、狂ってるのは世界の方だ」と確信を持って叛逆する態度という事になります

こうした倒錯者の態度は別に間違っているとかそういう事ではありません。むしろ、ある意味で「知っている主体」として自らを位置付ける倒錯者の態度は精神分析の倫理と通じるものがあるでしょう(倒錯者と分析家のディスクールはマテーム上は同じ「a→$」となります)。


* 否認共同体と資本主義のディスクール

では、こうした「真性の倒錯」とルブランのいう「ふつうの倒錯」はどのように違うのでしょうか?

この点「真性の倒錯」においては「象徴的去勢」あるいは「享楽の喪失」という「欠如」を「拒絶」するという積極的否認により自らを主体化します。

ところが「ふつうの倒錯」の場合、この主体化自体を「回避」するという消極的否認にその特徴があります。

こうした消極的否認は〈他者〉との共犯関係の上で行われます。これがルブランのいう「否認共同体」と呼ばれるものです。

例えば我が子を「溺愛」してやまない母親と存在感の希薄な父親という組み合わせの核家族は典型的な否認共同体として機能します。

こうした否認共同体に庇護されることで、子どもはいつまでたっても「欠如」に直面することができず「自分は本当はすごいんだ」という幼児的万能感を持ち続けることになる。

そして「資本主義のディスクール」が支配する現代社会においては、そこらかしこに溢れるお手軽な剰余享楽の洪水の中で人々はアディクトさせられ続け、いわば社会全体が巨大な否認共同体として機能しています。

このように「ふつうの倒錯」とはいわば「抑圧中心の経済」から「享楽中心の経済」へという社会構造の変化が生み出した新たな主体と言えるでしょう。これを称して「ネオ主体」と言います。


* ネオ主体

「ネオ主体」とはまさに享楽社会の申し子ともいうべき存在です。ネオ主体が最も恐れるのは自らの棲む否認共同体を破綻させる「欠如」であり、故にネオ主体は何かと「過剰なるもの」を求めます。

「廃人」と呼ばれるネットやゲームへの過剰な没入。SNSで散見される「意識の高い」過剰な自分語りや「キラキラ」した過剰な加工画像。巷の広告に踊る「激◯」「爆◯」「ギガ◯」という過剰なキーワード。

そして、周囲の「普通」や「空気」への過剰な同一化。あるいは、自分が「否定」されたと感じた時の過剰な拒否反応。

こんな風に並べてみると、いくつかはなんとなく思い当たる節はないでしょうか?要するにネオ主体とは決して他人事ではない。現代を生きる我々は良くも悪くも倒錯的であると言わざるを得ないと思います。


* 揺籃社会を生きるということ

ルブランの提出する「ふつうの倒錯」概念は、ますます消費化情報化が加速する現代社会の諸相を見はるかす為のひとつの理論装置としても有用でしょう。

例えば、東浩紀氏のいう「データベース消費」に耽溺する動物達。大澤真幸氏のいう「不可能性」を希求する反現実。宇野常寛氏のいう「母性のディストピア」に囚われた矮小な父性。

こうした一見、三者三様の現代社会論はまさに否認共同体の中で生きるネオ主体の生態系をそれぞれが異なる側面から記述しているわけです。

またあるいは、岸見一郎氏の「嫌われる勇気」や渡辺和子シスターの「置かれた場所で咲きなさい」といった「決断」を強調する思想がベストセラーになる昨今の「自己啓発ブーム」も、言ってみれば現代社会とはそれだけ「決断」が困難な社会である事を物語っているのでしょう。

いずれにせよその根底にあるものは、ルブランのいうところの「正当性の危機」、すなわち従来、我々の生のリアリティを根拠付けてきた「外部」という超越性の廃位です。

こうして今や社会は「外部」なき巨大な揺籃と化し、我々はどうやってもその構造自体からは逃れられないわけです。

ここで無理矢理にでも構造の「外部」に生のリアリティを求めるような生き方−−例えば従来の昭和的ロールモデルのようなもの−−に拘るとすれば、それは多くの場合「生きづらさ」として跳ね返ってくるでしょう。

むしろこうした構造を逆手に取り、構造の「内部」の中で、いかにして主体的欲望を奪還し、多くの瑞やかな歓びを汲み出しつつ、構造のルールそのものを書き換えていくか。いま問われているのはおそらく、そんな生き方の実践ではないでしょうか。





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posted by かがみ at 20:03 | 心理療法