【参考リンク】 ラカン派精神分析の基本用語集 現代アニメーションのいくつかの断章

2020年06月29日

ポストモダンと誤配の哲学




* 「大きな物語」の失墜と「小さな物語」の乱立

1970年代以降の日本社会は、社会を一つにまとめ上げる「大きな物語」を失い、いわゆる「ポストモダン化」と呼ばれる社会の断片化が加速していきました。

社会が断片化するということは、社会全体を見渡す特権的視点が消滅するということです。もっとも80年代は未だ社会全体を見通す欲望だけは辛うじて慣性的に生き残っていましたが、昭和の終焉、冷戦終結、バブル崩壊などの様々な「終わり」を経て迎えた90年代になると、こうした特権的視点に対する欲望すら不可能となりました。

こうして90年代後半には「大きな物語」は完全に失墜し、人々のアイデンティティは「大きな物語」によってではなく、各人が任意に選択するそれぞれの「小さな物語」によって支えられることになります。


* 象徴界の機能不全

こうした変化をラカン派精神分析の用語では「象徴界の機能不全」と言います。ポストモダン化した社会においては、想像的他者を接続する象徴的秩序が上位審級としてもはや機能していないということです。そして、ここから生じる問題は、いわゆる「政治と文学」の断絶と呼ばれます。

かつて文学(実存)を語ることは、これすなわち政治(社会)を語ることでした。ところが象徴界が機能不全に陥ると、政治(社会)の問題は想像界へと引き寄せられる一方で、文学(実存)の問題は現実界へと旋回します。

すなわち、一方で倫理的問題はもっぱら家族、恋人、友人知人といった身近な関係性の問題となり、他方で存在論的問題は「死」や「世界の終わり」などといった抽象的大問題へと直結することになるわけです。


* 郵便的不安

象徴界の機能不全による政治と文学の断絶。こうしたポストモダン的状況で生じる特有の感覚を批評家の東浩紀氏は「郵便的不安」と呼びます。郵便的不安とは「大きな物語」なきところで乱立する「小さな物語」同士が衝突した時に生じる「誤配」を恐れる不安のことです。

かつて象徴界が上位審級として機能していた時はこうした不安は生じなかったわけですが、いまや象徴界は機能不全を起こしている。90年代以降の日本社会はまさに郵便的不安が前景化した時代であるということです。

こうした郵便的不安から逃れるための処方としてひとまず考えられるのは、一方ではフェイクでもなんでもいいから「大きな物語」を強引に捏造する方向性と、他方ではただただ「小さな物語」の中だけで充足する方向性です。けれども前者が極端化すればこれはオウム真理教となり、後者が極端化すればこれは引きこもりとなる。いずれかの処方に特化するのはこうした危険性が伴うということです。

結局、一番穏当な処方としては両者の間をいく道でしょう。すなわち「大きな物語」なきところで乱立する「小さな物語」の間を横に突き抜けていく契機を作り出すということです。そして「郵便的不安」から逃げるのではなく、これを反転させて、むしろ「郵便的享楽」とでも呼ぶべきものに変えていく方略です。ではそれは一体、どのような方略となるのでしょうか?


* 動物化する情報社会

「郵便的不安」から「郵便的享楽」へ。東氏のデビュー以来の仕事は常にこうした問題意識に支えられていると言って差し支えないでしょう。氏のデビュー作「存在論的、郵便的−−ジャック・デリダについて(1998)」は、かつての「ニューアカデミズム」を牽引した浅田彰氏と柄谷行人氏が編集委員を務める「批評空間」において連載された一連のデリダ論をまとめたもので、同書は浅田氏による激賞とともに世に送り出され、東氏は一躍、現代思想界の俊英として脚光を浴びることになります。

ところがその後、東氏は浅田氏や柄谷氏と対立を深めて距離を置くようになり、2000年代における氏の活動はインターネットの普及を背景とした情報社会論やアニメ・ゲーム・ライトノベルを中心としたサブカルチャー論が中心となります。

東氏の代名詞的著作とも言える「動物化するポストモダン(2001)」において提示されたのは「データベース的欲望」と「シュミラークル的欲求」の解離というべきポストモダンにおける二層構造モデルでした。そして、こうした「二層構造の時代」における新たな民主主義を構想したのが、ゼロ年代における氏の総決算とも言える「一般意志2.0(2011)」です。

同書においては社会契約説で知られる18世紀の政治哲学者、ジャン=ジャック・ルソーが提出した「一般意志」という概念を参照点として、社会に蠢く様々な「つぶやき」を可視化した「データベース」としての「一般意志2.0」が構想されます。

もっとも、よくある誤解のように同書は従来型の議会制民主主義から「一般意志2.0」による直接民主主義への転換を説くものではありません。むしろ同書は「一般意志2.0」を構築することで、従来型の議会制民主主義における「熟議」を再活性化して「熟議」と「データベース」が並走してせめぎ合う新たな公共性の創出を提案しているわけです。


* 「誤配」の再定義

熟議とデータベースのせめぎ合いによる新たな公共性の創出。2010年代当初、東氏はこうした「夢」を当時普及し始めたSNSに託していました。

そして10年。周知の通りSNSに対する評価は「期待」から「失望」に変わっていきました。この10年で明らかになったのは、いくら情報テクノロジーが進化したところで、使う人間が進化しなければ世界は何一つ変わらないという、普通に考えてみればごくあたりまえの事実でした。

この点「存在論的、郵便的」の頃の東氏は「誤配」はネットワークの効果として自然に発生すると考えていました。けれどもネットワークの現実はむしろ「誤配」を排除する方向に作用することが明らかになったわけです。

こうして2010年代における氏の活動は自ら創業した「ゲンロン」を拠点としたある種の哲学的実践へとシフトします。ここで「誤配」は情報空間と現実空間の組み合わせによって能動的に生じるものと考えられるようになります。


* 郵便的マルチチュードとしての観光客

このような実践を踏まえて「二層構造の時代」の時代における主体的成熟のあり方を「観光」という概念へと練成したのが近著「観光客の哲学(2017)」ということになります。

同書はナショナリズムとグローバリズム、コミュニタリアニズムとリバタリアニズム、規律権力と環境管理型権力といった様々な観点から「二層構造の時代」の特質を明らかにした上で、こうした「二層構造の時代」における抵抗の基点として同書は「郵便的マルチチュード=観光客」を位置付けます。

「マルチチュード」とは今世紀初頭、世界的ベストセラーとなったアントニオ・ネグリとマイケル・ハートの共著「〈帝国〉」において、グローバル環境下で生じる市民運動を哲学的に評価する為に用いられた概念です。もっとも同書によればネグリ的なマルチチュードは実際のところ「連帯は存在しないことによって存在する」という「否定神学的マルチチュード」であり、その内実は「愛」「無垢」「歓び」などといったよくわからないものに頼る、端的に言えば感動的だが無意味な、ある種の信仰告白でしかないわけです。

そこで氏は「スモールワールド(大きなクラスター係数と小さな平均距離の共存)」と「スケールフリー(優先的選択による次数分布の偏り)」といった現代ネットワーク理論に依拠することで「否定神学的マルチチュード」が抱える理論的・実践的困難を乗り越えたものとして「郵便的マルチチュード=観光客」を提示することになります。


* 「憐れみ」によって手を取り合うということ

基本的に人は「郵便的不安」から「誤配」を恐れる生き物です。近年多発するソーシャルメディアにおける炎上騒動の根底には、クラスター間における「誤配」があることは疑いないところです。また「共生社会」「ダイバーシティ」といった社会的課題においても「誤配」の問題は避けて通れません。こうした意味において、東氏の一連の仕事は哲学者の虚構的思弁とかではなく、むしろ我々が生きるこの日常の中で生起する現実的問題を取り扱っているとさえ言えるでしょう。

この点、氏が「一般意志2.0」で参照したルソーは人間嫌いの思想家でした。彼はそもそも人間とは他人が嫌いで、孤独を愛する生き物だと考えた。にも関わらず、なぜ人は社会を作るのか。

ルソーが示す答えは「憐れみ」でした。ルソーによれば「憐れみ」とは、目の前で苦しんでいる人へ、深く考えることなく手を差し伸べる感情のことを言います。もし「憐れみ」がなければ人類などとうの昔に滅んでいた、とルソーはいう。本来、孤独を愛するはずの人は「憐れみ」によって社会を作ったということです。

こうした「憐れみ」を生じさせる契機こそがまさしく「誤配」です。本来的に分かり合えない人と人が−−イデオロギーによる連帯でも共感によるつながりでもない−−「憐れみ」よって手を取りあえる可能性、大きな物語の支えなき公共性を創出していくという営みは、偶然に規定された「誤配」を肯定するところから始めていくしかないという事なのでしょう。















posted by かがみ at 00:05 | 心理療法

2020年05月30日

エディプス・リゾーム・サントーム




* 「ツリー」から「リゾーム」へ

「ポスト・構造主義」の代表と目されるフランスの哲学者、ジル・ドゥルーズと精神分析家、フェリックス・ガタリの共著「アンチ・オイエディプス−−資本主義と分裂症(1972)」は、1968年5月のフランスで起きたいわゆる「5月革命」と呼ばれる学生運動/労働運動を駆動させた「多方向への欲望」を究明し、1970年代の大陸哲学における最大の旋風の一つを巻き起こしました。

ここで示された「多方向への欲望」は「アンチ・オイエディプス」の続編にあたる「千のプラトー(1980)」において「リゾーム」という概念で再定義されます。「リゾーム(根茎)」とは「ツリー(樹木)」に対する概念です。これまでの社会(=モダン)は、国家や家父長といった特権的中心点(根・幹)へ派生的要素(枝・葉)が垂直的に従属する「ツリー」によって規定されていました。これに対して、これからの社会(=ポストモダン)は、特権的中心点なくして様々な関係性が水平的に展開する「リゾーム」によって言い表せるということです。

ツリーからリゾームへ。リゾーム的に思考せよ。こうした企てこそが、古い社会を解体して新しいポストモダンの地平を切り開く。こうしたドゥルーズ&ガタリのメッセージは革命の夢が潰えた時代の閉塞感に対する解毒剤となりました。


* 「スキゾ・キッズ」という逃走

そして日本でも「80年代ニュー・アカデミズム」という思想的流行の中でドゥルーズ&ガタリは多大なインパクトをもたらしました。その導線となったのは言うまでもなく、浅田彰氏の「構造と力(1983)」と「逃走論(1984)」です。

浅田氏は、多方向へ逃走しリゾーム的に生成変化する主体を「スキゾ・キッズ」と呼びます。「スキゾ」とはスキゾフレニー(分裂症)を理想化したものです。これに対して(体制/反体制にかかわらず)ひとつの排他的イデオロギーに執着する事をパラノイア(妄想症)に擬え「パラノ」と言います。

こうして氏は「健康化された分裂症」としての「スキゾ・キッズ」への生成変化を現代的な生き方として称えます。近代における「追いつけ追い越せ」の「パラノ・ドライブ」からポストモダンにおける「逃げろや逃げろ」の「スキゾ・キッズ」へ。氏の提唱する軽やかな生き方はバブル景気へと向かいつつあった80年代消費社会の爛熟とも同調し「スキゾ/パラノ」という言葉は1984年の第1回流行語大賞新語部門で銅賞を受賞しました。


* アンチ・オイエディプスとラカン派精神分析

「アンチ・オイエディプス(以下ではAO)」において企てられているのは題名の通りフロイト精神分析の乗り越えです。同書において精神分析は、人の中に蠢く多様多彩な欲望を「エディプス・コンプレックス」なる画一的な規範へと回収する装置としてラディカルに批判されることになります。

これはフランス現代思想史の文脈の中では一般に「ラカンに対する抵抗」として位置付けられます。ラカンとはもちろんあの構造主義のカリスマにして精神分析中興の祖として知られるジャック・ラカンのことです。しかし果たしてAOとラカン派精神分析は真っ向から対立するのでしょうか?事情はそう単純ではありません。なぜならラカン自身もまた、50年代、60年代、70年代を通じて変化し続けてきた人だからです。


* 50年代/60年代ラカン−−神経症と精神病

1950年代のラカンは「無意識は言語によって構造化されている」という有名なテーゼに要約される構造論の立場を取っていました。ここで打ち出されたのがエディプス・コンプレックスを構造化させた「父性隠喩」というモデルです。子どもは母親(=〈他者〉)の現前不在運動の根源(=〈他者〉の〈他者〉)を問い、やがてこの現前不在運動は〈父の名〉というシニフィアンによって隠喩化され象徴的秩序の統御が完了する。

このモデルでは〈父の名〉による隠喩化が成功していれば「神経症(いわゆる正常)」であり、失敗していれば「精神病(いわゆる異常)」ということになります。ここで〈父の名〉はある種の「規範性=正常性」として現れているわけです。

そして1960年代になると、ラカンは「構造」と「構造を超えるもの」の絡み合いを理論の中心に据えることになります。ここで導入されるのが「疎外と分離」という新たなモデルです。ここでは50年代に〈父の名〉と呼ばれていたものが「分離の原理」として捉えられるようになります。すなわち「分離」による「対象 a 」の切り出しに成功していれば神経症、失敗していれば精神病ということになります。


* 機械-対象 a

このように1950年代から1960年代にかけてのラカン派精神分析では神経症と精神病は排他的な対立項として捉えられていました。

これに対してAOが提唱する「分裂分析」の狙いは「神経症の精神病化」というべき点にあります。ここで鍵となるのは共著者の一人であるガタリが導入した「機械」という概念です。

ガタリは69年の論文「機械と構造」において「構造」を重視する50年代ラカンを批判しつつ「構造を超えるもの」としての60年代ラカンが提出した「対象 a 」に注目します。

ただ、この時点でのラカンのいう「対象 a 」には「構造」それ自体を変革する契機は存在しません。ここでいう「対象 a 」はいわば構造の安全装置です。

これに対して、ガタリのいう「機械-対象 a 」は「構造」の中に侵入し、その因果を切断し「一般性」に回収不能な個々の「特異性」を切り出す機能を担います。すなわち「機械-対象 a 」はいわば構造の爆破装置ということです。

ガタリはこのような構造変動モデルを精神病の一種であるスキゾフレニーに求め、神経症と精神病の対立項を「原-精神病」とでも呼ぶべき上位カテゴリーを開くことで脱構築します。後々のドゥルーズ&ガタリ主義における「多方向への欲望」「リゾーム」「逃走」「スキゾ・キッズ」という様々なタームは、こうした「原-精神病」への志向を言い表しているわけです。


* 70年代ラカン−−エディプスからサントームへ

こうした面では確かにドゥルーズ&ガタリは50年代/60年代のラカン理論を乗り越えていると言えます。では70年代ラカン理論はどうでしょうか?

この点、ドゥルーズ&ガタリを含む70年代のフランス現代思想のトレンドが「ラカンへの抵抗」だとすれば、最も強力にラカンに抵抗していたのは他ならぬラカン自身でもありました。

1970年代のラカンが提示したのは「R(現実界)」「S(象徴界)」「I(想像界)」という三つの位相からなる「ボロメオの環」と呼ばれるモデルです。そして1974年以後はこのボロメオの環に「サントーム」と呼ばれる第四の輪が導入され、神経症と精神病は一元的に把握されることになります。

この考え方によれば〈父の名〉とはもはや「サントーム」の一種であり、神経症は精神病の部分集合ということになります。ここにガタリの「原-精神病」との親近性を見て取れるでしょう。

こうして70年代ラカンはエディプス・コンプレックスを相対化して「サントーム」の臨床へと向かいます。サントームとはその人だけが持つ「固有の享楽のモード=特異性としての症状」のことであり、精神分析はこうした人それぞれが持つ「特異性」と「同一化する/上手くやる」ことで終結することになります。


* 「或るめちゃくちゃ」と「別のめちゃくちゃ」の間

こうしてみるとドゥルーズ&ガタリと70年代ラカンは共に「一般性」に回収されない個々の「特異性」を重視した点で共通している一方で、前者はこの「特異性」を多方向に解放する「終わりなき過程」を志向し、後者はこの「特異性」と「同一化する/上手くやる」ことで「終わりある分析」を目指している点で相違していることになります。そういった意味で両者の差異は理論面というよりむしろ実践面にあるとひとまずは言えるでしょう。

もっとも、晩年のドゥルーズは「生成変化を乱したくなければ、動きすぎてはいけない」という箴言を残しています。この点、千葉雅也氏はドゥルーズ哲学の緻密な読み直しを通じて「単独のドゥルーズ」に伏在する「非意味的切断」の面を際立たせる読解を提示します。

ツリーからの切断を「意味的切断」だとすれば、リゾームからの切断は「非意味的切断」です。ドゥルーズ&ガタリの魅力は「リゾーム」という一語に極まる「めちゃくちゃ」へと向かう華やかさと危うさにあります。けれども千葉氏によれば少なくともドゥルーズは「華やかさ」と「危うさ」の裏で、同時に「慎重さ」をも求めています。持続可能な生成変化を行う上では「接続過剰」によるオーバードーズの手前での「いい加/減な切断=非意味的切断」が必要となるということです。

この「非意味的切断」には現代ラカン派における「逆方向の解釈」と共通する要素があります。ここにドゥルーズ&ガタリが示す「終わりなき過程」に「ひとまずの終わり」の契機を差し込む余地もあるでしょう。あらゆる事物が渾然一体となった「極限のめちゃくちゃ」ではない「或るめちゃくちゃ」と「別のめちゃくちゃ」の間にあるものへ。こうした視点からポスト・構造主義の思潮を照らし返してみるとまた新たな発見があるかもしれません。










posted by かがみ at 00:23 | 心理療法

2020年04月27日

自閉的技法としての「勉強」




* 「自閉」から「自閉症スペクトラム障害」へ

「自閉(Autism)」という言葉の起源は1911年、スイスの精神科医、オイゲン・ブロイラーの統合失調症論に見出されます。ここで「自閉」とは、外界との接触が減少して内面生活が病的なほど優位になり、現実からの遊離が生じることを指しています。

それからおよそ30年後の1943年、アメリカの児童精神科医レオ・カナーが「早期幼児自閉症」という論文を発表し、ここで「自閉」という言葉は単独の疾患概念となります。

もっとも当時は自閉症は幼児期に発症した統合失調症と考える見解が依然として多数でした。ところがその後、認知領域・言語発達領域における研究の進展に伴い、1970年代には自閉症は脳の器質的障害であり、統合失調症とは別の疾患だと考えられるようになります。

その一方でカナー論文の翌年、1944年にはオーストリアの小児科医ハンス・アスペルガーによる「小児期の自閉的精神病質」という論文が発表されています。このアスペルガー論文は諸般の事情があり長らく日の目を見ることがなかったわけですが、1980年代になってイギリスの精神科医ローナ・ウィングにより再発見されます。そして、ここで自閉症は「社会性障害」「コミュニケーション障害」「イマジネーション障害」として再定義されます(ウィングの三つ組)。

こうしたことから自閉症を「スペクトラム(連続体)」と捉える考え方が有力となり、2013年に改訂された「精神障害の診断と統計マニュアル第5版(DSM-X)」において、カナー型自閉症とアスペルガー型自閉症は「自閉症スペクトラム障害(Autism Spectrum Disorder)」として統合されることになります。その診断基準は以下の通りです。




以下のA、B、C、Dを満たしていること。

A 社会的コミュニケーションおよび相互関係における持続的障害(以下の3点で示される)

 1 社会的・情緒的な相互関係の障害。

 2 他者との交流に用いられる非言語的コミュニケーション(ノンバーバル・コミュニケーション)の障害。

 3 年齢相応の対人関係性の発達や維持の障害。

B 限定された反復する様式の行動、興味、活動(以下の2点以上の特徴で示される)

 1 常同的で反復的な運動動作や物体の使用、あるいは話し方。

 2 同一性へのこだわり、日常動作への融通の効かない執着、言語・非言語上の儀式的な行動パターン。

 3 集中度・焦点づけが異常に強くて限定的であり、固定された興味がある。

 4 感覚入力に対する敏感性あるいは鈍感性、あるいは感覚に関する環境に対する普通以上の関心。

C 症状は発達早期の段階で必ず出現するが、後になって明らかになるものもある。

D 症状は社会や職業その他の重要な機能に重大な障害を引き起こしている。




* 現代ラカン派における自閉症論

端的にいうと、ASDの特性とは「社会的コミュニケーションの持続的障害」と「常同的反復的行動・関心」という2点から成り立ちます。

具体的には「相手の気持ちや場の空気を読めない」「言葉をそのままの意味で受け取ってしまう」「他人の表情や態度などの意味が理解できない」「相手が2人以上になるとわけがわからなくなる」「独自のルール・こだわりに執着する」といった特性をいいます。

こうした特徴は「〈他者〉の拒絶」として理解できます。ここでいう〈他者〉とは言語、そして声やまなざしの事です。

この点、ラカン派精神分析では自閉症を「シニフィアン」と「享楽」の2つの側面から把握します。

まず、自閉症をもっぱら「シニフィアン」の側面のみで捉えた時、それはラカン派のタームでいうところの原初的象徴化の失敗、疎外の拒絶に他ならず、この限りにおいては自閉症と精神病は同一圏内にあるということになります。

ところが自閉症を「享楽」の側面から捉える時、そこには精神病とは明らかに異なる独自の享楽の回帰モードが見出せます。

こうした観点から現代ラカン派における自閉症論を「縁の上の享楽の回帰」「分身」「合成〈他者〉」という三つ組の概念により体系化したのがジャン=クロード・マルヴァルです。すなわち、自閉症者は「縁の上の享楽の回帰」によって〈他者〉を拒絶しつつ、その上で「分身」の助けを借りながら「合成〈他者〉」の創発という形で〈他者〉への再接続を試みているという事です。

〈他者〉の拒絶と〈他者〉への特異的な仕方での再接続。こうした「自閉的技法」ともいえる試みは時として驚異的な能力として発現したり、独創的な創造として結実することになります。


* ドゥルーズの文学論

この点、ポスト・構造主義の代表と目されるフランスの哲学者、ジル・ドゥルーズは、その主著の一つである「意味の論理学」において、典型的な統合失調症者であるアントナン・アルトーと、現代では自閉症スペクトラム障害と診断されうるであろうルイス・キャロルの文学論を並走させています。

ここでドゥルーズはアルトーの文学は「深層」にあり、キャロルの文学は「表面」にあるといいます。そして「意味の論理学」以降、ドゥルーズ哲学は「深層」を拒絶し「表面」を偏愛する方向に向かっていきます。

キャロルの代表作「不思議の国のアリス」の「かばん語」をはじめとして、キャロル作品の中には、言葉の解釈を次々とずらしながら物語が展開していく技法が頻繁に見られます。これはASD的な言葉の解釈のずれを逆手に取り、創作へ応用した技法と言えます。

ドゥルーズは後期の主著「批評と臨床」において、キャロルは「表面」の言語を獲得することでアルトー的な「深層」から華麗に逃れることができたといいます。そしてドゥルーズはこうした「表面」の言語によって書かれた文学こそが、文学の描く世界のすべてになりうると断言します。

こうして「批評と臨床」においてドゥルーズは、キャロルの他に、やはり自閉症スペクトラム障害の特徴を持つレーモン・ルーセルやルイス・ウルフソンといった作家を評価しています。

彼らはアルトーのように言語の「深層」に魅入られるのではなく、言語の「表面」をある種の情報の束、データベースとして捉えて、これにハッキングをかけていくわけです。これは〈他者〉を拒絶した上で、自らの特異的な仕方で〈他者〉への再接続を果たす自閉的技法が独創的な創造として結実した例と言えます。


* 特異性と一般性

では、こうした自閉症における構造と可能性の中に我々は何を発見できるのでしょうか。この点、人はそれぞれ、その人だけの特異性をもった存在として〈他者〉という一般性の中で折り合いをつけながら生きているわけです。

そして、こうした特異性と一般性の巡り合わせが良ければ、それは「個性」として承認されますが、その巡り合わせが悪ければ「不適合者」として排除されてしまいます。

いわゆる発達障害の明と暗の問題は、特異性と一般性の巡り合わせの悪さが、一周回って別の一般性の文脈において「個性」だと承認されるかされないかという側面もあると思うんです。

こうした意味において、人は皆、潜在的な意味で自閉的存在と言えます。では、我々はいかなる自閉的技法を日常において実践できるのでしょうか。一つの方法論として、私はここで「勉強」を考えてみたいと思います。


* 自閉的技法としての「勉強」

我々は社会生活を送る上で多かれ少なかれ「勉強」をしています。入学試験や資格試験など、わかりやすい「勉強」の他にも、新しい仕事の手順を覚えたり、新しい料理の作り方を覚えたり、新しいスマホの操作を覚えたり、こんな風に何気なく日々「勉強」してるわけです。いわば「勉強」するというのは「生活」と表裏の関係とさえ言えます。

この点、千葉雅也氏は「勉強の哲学」において「深い勉強=ラディカル・ラーニング」を提唱します。

我々は日々「学校」「会社」「家庭」など、ある一定の「こういうもんだ」という「環境のコード」の中で生きています。「ラディカル・ラーニング」はこうした「環境のコード」に縛られず、逆にこれを弄ぶことの出来る存在、同書のいう「来るべきバカ」に変身するための方法論です。

その委細は是非とも同書を読んでいただきたいところですが、同書の提唱する方法論は「環境のコード」という〈他者〉を一旦は切断し、その上で〈他者〉へ特異的な仕方によって再接続する試みに他なりません。

「勉強」という営みの中に「アイロニー(懐疑:そうなのか)」「ユーモア(連想:こうもいえる)」「享楽(中断:これでよい)」を頂点とした「勉強の三角形」というサイクルを導入することで「環境のコード」から「器官なき言語」を切り出し「享楽的こだわり」を深化させていく。

同書のいう「享楽的こだわり」による「ユーモアの有限化」とは自閉症でいう「縁」に重なるものがあります。すなわち、ラディカル・ラーニングは自閉的技法の日常的実践であり、特異性を一般性の中で消極的に「折り合いをつける」のではなく、一歩進んで積極的に「うまくやる」ための実践とも言えるでしょう。

そして、こうした実践の中で出会うのは「思考する快楽」「自己破壊の快楽」「生成変化の快楽」です。同書が提唱する方法論は受験勉強的な意味での「合理的勉強法」から見ればやや迂遠な方法論なのかもしれません。それでも一度はこうした「まっとうな勉強」をやってみる事をお勧めしたい。世俗的な何かを成し遂げる為の「努力としての勉強」ではなく、それ自体が自己目的的な「快楽としての勉強」は、世界の見え方を、そして自由と幸福の在り処を、確実に変えていくと思います。









posted by かがみ at 21:57 | 心理療法

2020年03月26日

共同幻想論とボロメオの環



* 自己幻想・対幻想・共同幻想

戦後最大の思想家とも呼ばれる吉本隆明氏の主著「共同幻想論」は「全共闘」と総称される全国的な学生運動の盛り上がりを見せていた1968年に刊行されました。

「共同幻想論」は「遠野物語」と「古事記」という二つの古典を素材として国家の成立条件を論じたものです。すなわち、人間の社会像は「自己幻想(個人)」「対幻想(家族的関係)」「共同幻想(国家的共同体)」から形成され、これらの幻想が接続されることで、社会の規模は個人から家族へ、家族から国家へと拡大していくことになるという事です。

この点、家族を成立させている「対幻想」は二種類あります。「夫婦/親子的対幻想」と「兄弟/姉妹的対幻想」です。子を再生産する前者は時間的永続性を司り、子を再生産しない後者は空間的永続性を司ります。

そしてこの二種類の対幻想を「宗教」とか「イデオロギー」などと呼ばれる操作で組み合わせる事で、対幻想は共同幻想に拡大されます。すなわち、人は疑似人格としての国家との間に国民として「夫婦/親子関係」を結び、そして国民相互は同じ親(国家)を持つ「兄弟/姉妹関係」となるわけです。


* 「大衆の原像」とは何か

「政治の季節」の極相を迎えていた当時、吉本氏は「天皇制」や「戦後民主主義」といった「共同幻想」に回収されない個の「自立」を模索していく「第三の道」を唱導しました。

この点、吉本氏は「自己幻想」「対幻想」「共同幻想」の各幻想は原理的には「逆立」するものと考えました。「逆立」とは各幻想が反発しつつも独立している状態の事です。そして、ここで氏は「自己幻想」が「共同幻想」に「逆立」する為の起点として「夫婦/親子的対幻想」に着目します。

「夫婦/親子的対幻想」はそれ自体で二者間の閉じた世界の中に完結します。端的に言うとここでは「あなたさえいれば世界などどうでもいい」という物語が機能するわけです。吉本氏はこうした対幻想を起点とした自立を「大衆の原像」と呼びました。

これは言うなれば「愛の力でイデオロギーを内破する」というレトリックです。今考えれば相当にベタな戦略ですが、これは当時「革命の夢」に敗北した全共闘の学生達に、自分達の敗北を正当化する為の物語として受容されました。

こうして、かつて革命を志した学生達はゲバ棒を捨てヘルメットを脱ぎ、愛する家族と紡ぎ出す小さな幸せの営みを守る為、組織の歯車となって働きに働き、結果「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と称された80年代の日本経済の繁栄を築き上げました。

「革命という非日常」から「生活という日常」へ。共同幻想論はそれなりに誰かの背中を押し、誰かの人生を救い、一旦はその使命を全うしたわけです。


* しかし人は「自立」できなかった

ところが実際のところ、こうした吉本氏の戦略がもたらしたのは個の「自立」ではなく所属共同体への「埋没」でしかなかった。かつての革命学生の多くは企業戦士として横並びと前例踏襲を重んじる日本的企業文化に同一化していく。この時、吉本氏の対幻想を起点とした自立の処方箋は、こうした思考停止に「愛する家族を守るため」という大義名分を与えてしまいました。

そしてこのような思考停止こそが、集団主義と同調圧力による組織体系の硬直化と創発性の阻害を招く最たる要因であることは言うまでもないでしょう。果たして多くの日本企業が90年代以後、規律重視の工業社会からイノベーション重視の情報社会へという、世界的な産業構造の急速な変化に対応できず、バブル崩壊以後の日本経済は低迷の一途を辿っていきました。

こうしていまや「ジャパン・アズ・ナンバーワン」は遠い過去となり、貧困と格差が進む中、経済的豊かさの指標とされる国民1人当たりのGDPは1988年には2位だったのが2019年にはなんと26位にまで転落する事になります。

一方で、世界的なグローバル化、ネットワーク化の進展は国家という共同幻想を零落させ、人々の自己幻想の肥大化を促進しました。スマートフォンの進化とソーシャルメディアの発達により、いまや人々は自分が見たい現実だけを見て信じたい物語だけを信じる事のできる情報環境を手に入れました。

そして、こうした母胎の如き環境下で幼児的に肥大化した自己幻想は今や零落した共同幻想へと容易く同致してしまいます。いわゆる「ポスト・トルゥース」と呼ばれる、事実が軽視されフェイクニュースが幅を利かすという今日のディストピア的状況の背後にはこうした構造があるわけです。

こうしてかつて半世紀前、吉本氏が提示した「自立」の戦略は今日において完全に破綻していると言わざるを得ないでしょう。では、現代における「自立」の方策はあるのでしょうか。


* 性愛的対幻想から友愛的対幻想へ

この点、宇野常寛氏は今日における「肥大化した母性(母胎の如き情報環境)」と「矮小な父性(自己幻想の肥大化)」の結託を「母性のディストピア(ボトムアップ的に醸成される共同幻想)」と呼びます。

そして氏はこうした「母性のディストピア」を解除する鍵を「もう一つの対幻想」に、すなわち「兄弟/姉妹的対幻想」に見出します。その論理は大まかに言えば以下のようなものです。

まず、グローバリズムとネットワークが極まった現代社会においては「国家という共同幻想」が零落する一方「市場という非幻想」が浮上する。

これは言うなれば市場という「ゲームボード」上に、個人、組織、国家が「ゲームプレイヤー」として配置されると同時に「ゲームデザイナー」として参加しているという事態を意味している。

そして、かつての「国家という共同幻想」が書き手と読み手が固定化された一方通行的な「物語的存在」であったとすれば「市場という非幻想」とはプレイヤーとデザイナーが常に流動的に入れ替わる双方向的な「ゲーム的存在」という事になる。

すなわち、ここで世界と我々は「政治と文学」ではなく「市場とゲーム」によって接続される事になります。

そして、こうした「市場とゲーム」において、もし我々が他のプレイヤーに「夫婦/親子的対幻想(性愛的対幻想)」を見出すのであれば、それは「家族」「国家」といった相対的に零落した共同幻想へと回収される事になる。

しかし一方、我々が他のプレイヤーに「兄弟/姉妹的対幻想(友愛的対幻想)」を見出すのであれば、それは共同幻想に回収される事なく、対幻想のままに対象を拡大させる事が可能となる。こうした関係性を宇野氏は「相補性の片割れたちによる、寄り添いのアイデンティティ・ゲーム」と言います。

かつて吉本氏が提唱した「性愛的対幻想」を起点とした自立戦略はいわば「愛の力でイデオロギーを内破する」というレトリックでした。そしてまた、宇野氏が提唱する「友愛的対幻想」を起点とする自立戦略もその言葉だけを読むと「きずなの力でゲームを勝ち抜く」とか、何かそういう風にも読めてしまいますが、もちろんそういう陳腐な構想ではないわけです。ではその具体化なイメージはどのように捉えるべきなのでしょうか。


* ボロメオの環という参照点

まず吉本氏の「共同幻想論」と同様に、人の心的構造を三つの位相で把握する理論として、フランスの精神分析医、ジャック・ラカンが示す「ボロメオの環」が知られています。

ラカンは人の心的構造を「想像的なもの(想像界)」「象徴的なもの(象徴界)」「現実的なもの(現実界)」という三つの異なる位相の上に成立するものとして捉えます。

すなわち、我々は生の現実をイメージと言語で捉えて、パーソナルな現実を創り出しているという事です。そして、この三つの位相が如何なる関係にあるかを示したものが晩年のラカンが探求した「ボロメオの環」と言われるものです。

もっとも当初、ボロメオの環は、後に見るように「想像界」「象徴界」「現実界」と紐付けられてはおらず、次々に与えられるシニフィアンがいかにして一つの構造の中で意味を担うのかという、シニフィアンの自己構造化の論理を示すものとして捉えられていました。

しかしその後、ラカンはボロメオの環を単にシニフィアンの構造を示すものとしてではなく「想像界」「象徴界」「現実界」という三つの領域と紐付けます。ここでボロメオの環は現在広く知られる姿となります。

ボロメオの環.png



* ファルス享楽と〈他〉なる享楽

「共同幻想論」と「ボロメオの環」はどちらも三位一体構造を持つことから、両者の間には共通の発想を多く発見できます。まず、自己幻想と現実界、共同幻想と象徴界、対幻想と想像界の間には、少なくとも比喩的な意味での重なり合いを見出す事が可能です。そして、今日における「共同幻想の零落/自己幻想の肥大」という事象は現代ラカン派の文脈でいうところの「象徴界の失墜」という議論に重なります。

こうした点から言えば、かつて吉本氏が提唱した「性愛的対幻想」を起点とした自立戦略は、ボロメオ上では「対象 a 」を媒介として象徴界と現実界の境界で「性愛的な享楽=ファルス享楽」を得る動線に近接します。

これに対して、宇野氏が提唱する「友愛的対幻想」を起点とする自立戦略は、ボロメオ上ではやはり「対象 a 」から想像界と現実界の境界線上の「非-性愛的な享楽=〈他〉なる享楽」へ至る動線に近接します。


* ぎりぎりの自己破壊の饗宴

そして、こうした「〈他〉なる享楽」を千葉雅也氏は「ファルス享楽の分身」として位置付け「パラマウンド」と名付けます。そして氏は「〈他〉なる享楽」へ至る経路(享楽のジェンダー・トラブル)の例として「プロレス」について論じます。

氏はプロレスには一般スポーツにおける「記録」「勝敗」には回収されない「贅沢」があるといいます。プロレスラーの不敵な睨みと笑み、挑発する言葉の応酬、大げさで演技的な技の連結等々・・・プロレスは「結果のすべてではなさ」という夢を観客に与えるわけです。

この点、千葉氏はプロレスとは「ぎりぎりの自己破壊の饗宴」であるといます。すなわち、プロレスのリングには「自己破壊のマゾヒズム」が満ちている。この「自己破壊のマゾヒズム」とは畢竟、子どもが持つ原初的エロティシズムに通じます。すなわち、プロレスラーの強さは子供の持つ弱さであり、それは同時に子どもの持つ強さでもあります。

ゆえに我々が潜在的にプロレスラーになろうとするのであれば、それはいわば「自己破壊のマゾヒズム」へ回帰する事に他ならない。男女の性別が曖昧であった思春期以前、ジェンダー以前の状況への回帰、日常のあらゆる経験が自己破壊的である子どもの弱さのただなかに回帰するということです。


* 「子どもの弱さ=強さ」への回帰

今日において世界を席巻する「市場という非幻想」とはまさしくプロレスのリングに準えることもできるでしょう。そうであれば、宇野氏の言う「友愛的対幻想」を起点とする自立戦略とは、千葉氏の言う「プロレス=ぎりぎりの自己破壊の饗宴」というイメージで捉えることが可能ではないでしょうか。

すなわち、現代における「自立」とは「肥大化した母性」の中で「矮小な父」を演じるのではなく、むしろ他者との間の「ぎりぎりの自己破壊の饗宴」によって「子どもの弱さ=強さ」へ回帰するという事です。

「ここではない、どこか」という虚構への超越ではなく「いま、ここ」という現実から別の「いま、ここ」という現実へ突き抜けるという事。

こうした自己破壊的生成変化のプロセスの中にこそ「市場とゲーム」によって常時接続された現代における倫理的作用点としての「弱さ=強さ」という「自立」があるのでしょう。












posted by かがみ at 23:11 | 心理療法

2020年02月27日

不在の神からデータベースへ



* 統合失調症中心主義

統合失調症は多くの場合に思春期から青年期に発症し、その後その人の人生に内面的・外面的な様々な重大な影響を及ぼす極めて厄介な精神疾患です。そして、その症状といえば、自分に向かって他者が命令してくる「幻聴」や、周囲の出来事などが全て自分に向けられていると感じる「関係妄想」が有名でしょう。ただ、これらの症状は他の精神疾患でも見られるものであり、統合失調症特有のものというわけではありません。

統合失調症の症状は患者ごとに多種多様ですが、どの症例にも認められる共通点として「不確実な自己性」があると言われています。患者の自己が確実な自己性を有していないという事です。この「不確実な自己性」は患者の日常的意識や行動において独特の不自然さを作り出します。

この「不確実な自己性」をはっきりと反映する臨床症状として「作為体験」「させられ体験」などと呼ばれる自分の意思や感情や思考が他者によって操られているという体験、「思考奪取」「思考伝播」「思考察知」などと呼ばれる自分自身の意思や感情や思考が勝手に他者に筒抜けになっている体験があげられます。

この点、精神病理学者の木村敏氏は統合失調症者の時間意識について「アンテ・フェストゥム的(前夜祭的)」と呼びます。これは常に未来を先取りし現在より一歩先を読もうとする時間意識です。裏返せば統合失調症者は現在に棲まえていないという事です。こうした独特な時間意識が「不確実な自己性」となって立ち現れると言われます。

ところで統合失調症はしばし偉大な創造を可能とする特権的な狂気として語られる事があります。これを「統合失調症中心主義」といいます。

「統合失調症中心主義」は長きにわたり精神病理学や病跡学の支配的言説の位置にありました。しかし一方、現代の精神科臨床において顕著な傾向と言えば統合失調症の軽症化と自閉症スペクトラム障害の前景化です。このような状況の中で未だに「統合失調症中心主義」は妥当性を維持しているのでしょうか?


* 否定神学構造

まず「統合失調症中心主義」はいかにして形成されたのか。この点、統合失調症は近代以降に出現した精神疾患と考えられています。その最初期の統合失調症患者と言われるのが「狂気の詩人」として知られるフリードリヒ・ヘルダーリンです。

ヘルダーリンという人は同時代の大詩人シラーという理想へとまさにアンテ・フェストゥム的に跳躍しようとして統合失調症を発症させてしまうわけですが、その結果、人格荒廃を代償に精神病理学者ヤスパースの言うところの「形而上学的な深淵」が啓示され、これが数々の特異的な詩作を紡ぎ出す源泉となったと言われます。

そしてこのヘルダーリンの詩作と人生に真理を見出したのが、かのマルティン・ハイデガーです。ハイデガーによれば、ヘルダーリンの詩は「不在の神」を歌っているといいます。すなわち優れた詩人とは逃げ去った神々の痕跡に名を与えることで、将来において再び神々が到来する可能性を見い出す人であるということです。

こうしてヘルダーリンに導かれるようにハイデガー哲学はいわば「統合失調症化」する。その特徴はいわゆる「否定神学構造」にあります。「否定神学」とは「神は不在という仕方で現前する」という神学における議論であり、より一般的に言えば「ある構造において、中心にあるべきものが欠如しているが、それが欠如しているがゆえにその構造はより強力に機能する」という思考様式です。


* 〈父の名〉の排除と外の思考

このような否定神学構造を基盤として精神病論を構築したのがフランスの精神分析医、ジャック・ラカンです。精神病(統合失調症)の発症は、進学、就職、昇進、結婚、出産といったライフイベントの際によく観察されることが知られています。ラカンの精神病論はこのメカニズムを「〈父の名〉の排除」に起因するものだと考えます。

ラカンによれば人間には「象徴界」と呼ばれる言葉の秩序があり、その秩序においては様々な言葉(シニフィアン)が相互にネットワークを作っていると考えます。このネットワークの中であるシニフィアンの意味は他のシニフィアンによって決定されるわけです。そして、ラカンはこのシニフィアンのネットワークそれ自体を固定させる為の中心的なシニフィアンを〈父の名〉と呼びます。

ところが精神病構造においては、この〈父の名〉のシニフィアンが排除されており、いわば象徴界に穴が空いているという状態と言えます。それでも思春期くらいまでは「想像的杖」となる他者の行動や発言の模倣によってなんとか適応できていたりするわけです(かようなパーソナリティ)。しかしいよいよ進学、就職、昇進、結婚、出産といったライフイベントを迎えた時にはどうしても〈父の名〉を参照する必要がある。

この時点でそれまでは漠然と「あそこにあるのだろう」と思っていた〈父の名〉が実は無かったという事実が明らかになってしまう。するとこれまで仮固定のような形でネットワークを形成していた諸々のシニフィアンがバラバラになり、多くの場合、幻聴という形で不在の〈父の名〉の在り処を示すかの如く歌い始めてしまう。これが精神病(統合失調症)の発症という事です。

そしてラカンの弟子にあたるジャン・ラプランシュはヘルダーリンの狂気の詩作をラカンの理論で読み解き、さらにミシェル・フーコーはこうした一連の議論を「外の思考」として整理し、これを19世紀から20世紀に至る現代文学の主要な特徴とみなしました。

こうした過程を経て確立したのが「統合失調症中心主義」です。そして、ここから導かれるのは真の創造とは理性の解体と引き換えにしか手に出来ないという悲劇主義的なパラダイムに他なりません。


* 深層から表面へ

けれどもこうした「統合失調症中心主義」は前述したような統合失調症の軽症化と自閉症スペクトラム障害の前景化という臨床的現実から遊離したものになりつつあります。そしてそもそも「統合失調症中心主義」は創造の源泉を「形而上学的な深淵」とか「不在の神」とか「〈父の名〉の排除」などといった単一の特異点に求めているため、ジャック・デリダが批判するように、個々の作家の特異性が完全に無視される金太郎飴的言説に陥る憾みがあります。では「統合失調症中心主義」のオルタナティブとなる現代的な創造の源泉はどこに求めるべきなのでしょうか。

この点、ポスト・構造主義の代表的論客と目されるフランスの哲学者、ジル・ドゥルーズは、その主著の一つである「意味の論理学」において、典型的な統合失調症者であるアントナン・アルトーと現代では自閉症スペクトラム障害と診断されうるであろうルイス・キャロルの文学論を並走させています。

ここでドゥルーズはアルトーの文学は「深層」にあり、キャロルの文学は「表面」にあるといいます。そして「意味の論理学」以降、ドゥルーズ哲学は「深層」を拒絶し「表面」を偏愛する方向に向かっていきます。

そしてドゥルーズ後期の代表作「批評と臨床」ではキャロルの他、やはり自閉症スペクトラム障害の特徴を持つレーモン・ルーセルやルイス・ウルフソンといった作家をドゥルーズは評価します。

キャロルの代表作「不思議の国のアリス」の「かばん語」などがその典型ですが、彼らはアルトーのように言語の「深層」に不在の神を見出すのではなく、言語の「表面」をある種の情報の束、データベースとして捉え、これをハッキングしようとする。これは言語を一旦拒絶した上で、自らの特異的な仕方で言語に再接続する試みに他ならない。ドゥルーズはここに単一的な特異点に回収されない個別的な特異性を見出しているわけです。


* 幸福の在り方を創造するということ

統合失調症から自閉症スペクトラム障害へ。深層から表面へ。不在の神からデータベースへ。こうした創造のパラダイム転換は芸術論に留まらず、現代を生きる我々が生のリアリズムを獲得する上で参照点の在り処を示します。規範的幸福のロールモデルが失墜した現代においては、我々もまたそれぞれの幸福の在り方を自ら「創造」していかなければならないということです。










posted by かがみ at 22:56 | 心理療法