【参考リンク】 ラカン派精神分析の基本用語集

2019年01月31日

精神病圏の諸相



* はじめに

1998年、École de la cause freudienne(フロイト大義学派)において、かのジャック=ラカンの娘婿、ジャック=アラン・ミレールにより「ふつうの精神病」なるカテゴリが提唱されます。ミレールは次のように言います。

精神分析の歴史においては、並外れた精神病に、ほんとうに何もかもぶち壊すような人々に、監視が向けられてきたことは言うまでもない。

シュレーバーがわれわれの間で精神病の「顔」になってどれくらいの時間がたつだろう。ところが、われわれがここで注目しているのはもっと控えめな精神病者たちであり、彼らはあっと驚かせるというのではなく、ある種の凡庸さの中に溶け込んでしまいうる。

代償機能がうまく働いている精神病、サプリメント入りの精神病、発症せざる精神病、加療された精神病、セラピー中の精神病、分析中の精神病、進行しつつある精神病、サントームつきの精神病ーーーそんな言い方ができるだろう。

〜「La psyshose ordinaire,Agalma/Seuil」より


「ふつうの精神病」とはなんでしょうか?従来の精神病とは何が違うのでしょうか?


* 鏡像・エディプス・去勢

まずはおさらいです。ラカン派精神分析においては、人は鏡像段階、エディプス段階、去勢段階を経由することで精神病圏から神経症圏へと遷移するとされています。

鏡像段階とは、生後6ヶ月から18ヶ月の間の時期の乳幼児が鏡を見て自我を獲得するという発達段階概念です。鏡像段階においては、依然として自己統一感を与えうるほど神経系が発達していないにもかかわらず、自我や自己身体像が形成されると言われています。

次いで、エディプス段階において子どもと〈母親〉の二者関係に〈父親〉が第三項として介入してきます。そして、去勢段階において、子どもは〈父の名〉を受け入れることでファルス機能を授かります。これがラカン派的「正常な」発達段階論ということになります。


* 従来型精神病〜並外れた精神病

〈父の名〉とは、現前不在を繰り返す「母の欲望」を置き換えることで象徴界を統御するシニフィアンです。そして、ファルスとは、異性愛を可能とし現実感を獲得する為のシニフィアンです。

つまり、エディプス段階を経由できていない場合、〈父の名〉が排除されており、ファルスも機能していないわけです。

結果、現実感や自明性の喪失に晒され、異性愛を築く上でも困難を抱えることになる。これが精神病圏です。

発病前の精神病圏者とは3本足でかろうじて安定しているテーブルのようなもので、欠けている4本目の足こそが〈父の名〉です。この〈父の名〉の参照エラーにより、3本足のテーブルが引っくり返った段階がまさに精神病発症の時です。

この時、主体は「ひそやかな圧倒」により前鏡像段階への退行が生じ身体寸断状態となり、一方で排除された〈父の名〉は外部から幻覚として回帰してきます。

もっとも精神病の中でも比較的軽症のパラノイアの場合「ひそやかな圧倒」に対し妄想が防波堤として機能することで前鏡像段階への退行を免れ、一応の人格レベルはある程度は維持されます。


* 症例シュレーバー

有名なパラノイアの症例として、いわゆる「症例シュレーバー」があります。ダニエル・パウル・シュレーバーという人は19世紀末の法律家で、1893年、ドレスデン控訴院長に昇進した直後に精神病を発病させています。

精神病を発症させてからも、シュレーバーは知能に障害なく意識は清明で周囲と如才のない会話ができる一方、彼の心的世界は常に病的な妄想に支配されていました。以下、1903年に出版された自身の回想録からの一部引用です。

しかし今や、私が個人的に好むと好まざるとにかかわらず、世界秩序が有無を言わさずに脱男性化を欲していること、そして私には、理性の根拠からして、ひとりの女に変身するという思想に親しむ以外に何も残されていないことが疑う余地もなく私に自覚されたのである。脱男性化のさらなる結果として、当然ながら、新たな人間の創造を目的とする、神の光線による受胎のみが問題となりえた。私は当時まだ私以外の本当の人間というものの存在を信じておらず、私が見た人間の形姿をしたすべての者たちを「束の間に組み立てられた」ものとしかみなしていなかったが、このことによって私の意志の方向の変化は、私にとって楽なものとなった。つまり、脱男性化の中に存在する何がしかの恥辱が問題になり得なかったのである。

〜ダニエル・パウル・シュレーバー「ある神経病者の回想録」より


シュレーバーの妄想というのは要するに、⑴自分は世界を救済し、失われた幸福を再びこの世にもたらすことこそが自分の使命である。⑵そのためには何より、彼が女性に性を転換させ「神の女」にならなければならない、というものです。

シュレーバーの場合「神の女」という妄想を構築することで、精神病の症状をかろうじて制御していたわけです。この場合、ファルス機能の排除を反映する女性化という妄想が、排除された〈父の名〉の代替物として機能することで、現実感が回帰している図式になります。


* 「ふつうの精神病」の前景化

ところが近年になると、こうしたシュレーバー的な華々しい妄想を持つパラノイア患者は影を潜めていく一方で、妄想らしい妄想、幻覚らしい幻覚を持たず、さりとて神経症的葛藤も持たないという奇妙な症候を持つ患者群が前景化してきます。

こういった一群の症例を暫定的にカテゴライズする為「ふつうの精神病」というネーミングが考案されたわけです。精神分析の予備面接において、神経症であるという確たる決め手がなく「ふつうの精神病」の特徴が見られる場合、寝椅子に寝かせて自由連想をさせることを控えるべきであるとミレールは言います。


* 「ふつうの精神病」の臨床

「ふつうの精神病」の主体はシュレーバーのように華々しい妄想や奇抜な行動を示す代わりに、社会的、身体的、主体的といったものの外部へと「脱接続」するという特徴があります。

「ふつうの精神病」の臨床的特徴として、子どもの精神病のための精神分析的治療相談施設「クルティル」をブリュッセルに立ち上げたアレクサンドル・ステヴェンスの次のような5つの指標を挙げています。

⑴ 想像的同一化に基づく社会的紐帯の調節

神経症の場合、社会的役割は象徴的同一化、すなわち「〜という役割は本来こうあるべきだ」という言語によって規定されたものへの同一化を介して引き受けられますが、「ふつうの精神病」の場合、社会的役割はおよそ想像的同一化、すなわち「あの人があるいは、みんながこうしているから自分もこうしなければならない」という自分と等しいと看做される想像的他者への同一化によって果たされます。

このことが「ふつうの精神病」の主体が社会関係から切断されやすい要因となります。安定した社会的機能を持続的に果たすことが得意でないことが、「ふつうの精神病」の主体が定職を持たない、あるいは持てない一因として考えられます。反対に職場に過剰に同一化する形式での「ふつうの精神病」もありえます。この場合職を失うことが発病の契機になるわけです。

⑵ 主体の内的生(内面的生活)における空虚感

「ふつうの精神病」では独特の空虚感、具体的には「身体境界の曖昧さ」「身体的現実感」の希薄さが見られます。なお「ふつうの精神病」の主体にとって性関係はエロティックなものにならないばかりか、しばし迫害的性格を持つことが一般的であると言われます。性行為は多くの場合、快楽を伴わず、却って破壊的な効果(気分や私生活の混乱)をもたらします。けれどもそれは、主体がもともと抱えているこうした空虚感を補う意味合いを持つことがあります。

⑶ ある種の身体現象

これは器質的障害とは明らかに異なる、奇妙な説明のつかない痛みや違和感のことです。「ふつうの精神病」では身体に自己が接続されずズレを孕み、自己の身体が崩れ落ちるような体験が見られます。そこでタトゥーを彫るといった対処行動に出たりするわけです。

⑷ 様々な形を取る彷徨い

「彷徨い」とは実際に該当を彷徨うこともありますし、内面的な彷徨いとして現れる場合もあります。精神病を患っているホームレスも少なくなく、また薬物やアルコールなどの依存症に伴う彷徨いは精神病のサインである場合が多いと言われます。

⑸ 象徴界のポワン・ド・キャピトンに見られる奇妙さ

ポワン・ド・キャピトンとは「言語を通じて把握される出来事の連鎖を適当に区切り、ひとまとめに理解することを可能とする知的枠組み」のことを言います。

ステヴェンスが取り挙げているのは、薬物依存から回復して「クリーン」になった男性のケースです。彼は完全にドラッグから足を洗ったにも関わらず、ある日施設にドラッグを持ち帰った。どういうことかというと、彼はドラッグを買いに出かける別の患者をみて、その人が犯罪から「クリーン」でいられるようにと、代わりにドラッグを買い求めたということです。


* 「ふつうの精神病」とサントーム


「ふつうの精神病」についてはラカンが最晩年に示したサントームの理論で説明可能でしょう。

サントームとはボロメオの解けをつなぎとめる〈父の名〉に代替する第四の輪のことです。いわゆる「症状」が言語の次元を孕む象徴的な症状だとすれば、サントームは享楽の側面を孕む現実的な症状に当たります。前者が象徴的無意識(S1→S2)の観点から症状を捉えるのに対して、後者は現実的無意識(S1)の観点から症状を捉えようとしています。

主体がボロメオの輪の解体を防ぐために無意識的に作り上げるサントームは「主体の真の固有名」にあたり、そこには各々の主体において異なる特異的/単独的/自体性愛的な享楽のモードが刻み込まれていると考えられています。サントームの例はタトゥー、ボディーピアス、その他インターネット世界への没入、発表する予定のない小説や曲作りへの没頭など様々です。

つまり「ふつうの精神病」とは、ボロメオの環を解体し前鏡像段階にまで押しもどそうとする精神病的力動と、各人が生み出した自体性愛的なサントームが拮抗している状態をいうわけです。

サントームの理論には〈父の名〉の失墜した現代ポストモダン社会の様々な病理を解明するヒントがあると思います。例えばソーシャルゲームへの廃課金や、ブラック企業にしがみ付くと言った病理的とも言える行動もある種のサントームとして説明できる場合があるのではないでしょうか。



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2018年12月30日

ボロメオの環としあわせの在り処



ボロメオの環.png


* 想像的なもの・象徴的なもの・現実的なもの

フランスの精神分析医、ジャック・ラカンは人のこころを「想像的なもの」「象徴的なもの」「現実的なもの」という三つの異なる位相の上に成立するものとして捉えます。

すなわち、我々は生の現実をイメージと言語で捉えて、パーソナルな現実を創り出しているわけです。

そして、この三つの位相が如何なる関係にあるかを示したものが晩年のラカンが探求した「ボロメオの環」と言われるものです。


* ボロメオの環の導入と展開

「ボロメオの環」とは、互いには交差しない三つの輪が結び目を形成することで三位一体となったトポロジー的構造体のことをいいます。

ボロメオの環はセミネール19「ウ・ピール(1971〜1972)」で導入され、セミネール20「アンコール(1972〜1973)」で展開されることになる。

もっとも当初、ボロメオの環は、次々に与えられるシニフィアンがいかにして一つの構造の中で意味を担うのかという、シニフィアンの自己構造化の論理を示すものとして捉えられていました。

つまり、ボロメオの一つ一つの輪は、文字を示すものであり、シニフィアン連鎖が意味をなすためには、それぞれの輪が互いの関係の中で一つの安定した構造をなす必要があるということです。

ラカンは症例シュレーバーを引きつつ「この数学的ランガージュの特性は、一つの文字が欠けるだけで、他の全ての文字が、単にその配置に応じた価値を保ち続けられなくなるだけでなく、すべてバラバラになってしまう」と述べています。


* 意味と対象 a

しかしその後、ラカンはセミネール21「騙されないものは彷徨う(1973〜1974)」において、ボロメオの環を「想像的なもの」「象徴的なもの」「現実的なもの」という三つの領域と紐付けます。ここでボロメオの環は現在広く知られる姿となります。

この点、「象徴的なもの」の領域において自己構造化するシニフィアンは「想像的なもの」の領域と重なる事によって「意味」を見出すことになる。そしてこれを支えるのが「(みせかけの)現実的なもの」としての対象 a ということになります。

そしてこの対象 a を起点として、「現実的なもの」は「象徴的なもの」と「想像的なもの」の重なり合う中でそれぞれ異なる2種類の享楽を見出すことになる。これが「ファルス的享楽」と「〈他〉の享楽」です。


* ファルス的享楽

ボロメオの環において「象徴的なもの」「現実的なもの」の重なり合いの中に位置付けられた「ファルス的享楽」は、「アンコール」における男性の論理式の例外、すなわち「あるものはファルス関数によって規定されていない」というテーゼに対応しています。

「象徴的なもの」が「普遍」として成り立つには「例外」を内的に排除することが必要となります。例外が「外-在」することにより、初めてシニフィアンというシステム全体が安定するという論理です。

こうした「例外」に位置するファルス的享楽を夢想し、我々は「欲望」という名の終わることのない永続的運動に人生を費やすことになるわけです。

このように、ファルス的享楽は象徴界内部にある何かを「所有」することによって得られる、いわばギラギラとした享楽とも言えます。


* 〈他〉の享楽

他方、ラカンはシニフィアンの秩序の外に「ファルス的享楽」とは異なる「〈他〉の享楽」を見出していきます。

それはボロメオの環においても「象徴的なもの」の外部にある「想像的なもの」と「現実的なもの」が重なり合う場所に位置付けられています。

「〈他〉の享楽」の典型としては、ルドルフ・オットーのいういわゆる「ヌミノース体験」が挙げられるでしょう。

ヌミノース体験とは我々の自我を超えた圧倒感、抗しがたい魅力、近寄りがたい畏敬の感情を惹起させる体験をいいます。様々な宗教の根本にはこのような象徴化不能な「それ」としか言いようのない神秘体験が存在しているわけです。

また、ヌミノースとまではいかなくても、我々の普段の日常においてふと訪れる、法悦に満たされた不思議な瞬間というのは思い返せば至る所に見いだすことができるのではないでしょうか。

すなわち、〈他〉の享楽は象徴界外部にある何かを「体験」することによって得られる、いわばキラキラした享楽とも言えます。


* 「あなただけのきらめき」を見つけましょう。

ある意味で、ボロメオの環はこの社会の中に居場所を見出せず、生きづらさを抱えている人に対して、しあわせの在り処を示しているのではないでしょうか。

終身雇用や年功序列を前提とした昭和的なロールモデルが崩壊した昨今において、車、結婚、マイホームなどといったファルス的享楽を得るためのハードルは確実に上がったと言わざるを得ないでしょう。

けれども、享楽の道は一つではない。生の現実は変えることはできないかもしれないけど、パーソナルな現実は変える事ができる。

意識を「今、ここ」に向けることで象徴的なものを排し、想像的なものと現実的なものを直結させた時に「〈他〉の享楽」は訪れる。

すなわち、日々の何気ない日常を心から味わい、慈しむことが出来れば、決して大袈裟な話はなく、人は誰でも今すぐに、しあわせになることができる。

こうしてみると、人生を本当の意味において実り豊かなものにする鍵は、容姿でも財産でも社会的地位でもない。むしろしばし理不尽とも言える日常の中で見い出す事ができる「あなただけのきらめき」にあるのではないでしょうか。



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posted by かがみ at 00:01 | 心理療法

2018年11月29日

「〈一者〉の享楽」を生きるということ



* 「生の現実」と「パーソナルな現実」

ジャック=ラカンによれば、人の精神構造は「想像界」「象徴界」「現実界」というそれぞれ異なった3つの位相によって構成されているといわれます。

「想像界」とは感覚器官が捉える「イメージ」であり「象徴界」とはシニフィアンで構成された「ことば」です。これに対して「現実界」とは「イメージ」や「ことば」で把握する以前の「生の現実」をいいます。

つまるところ我々は「生の現実」を「イメージ」と「ことば」によって「パーソナルな現実」として把握しているということです。言い換えれば、我々が「現実らしきもの」と信じ込んでいるこの世界は所詮は自らが創り上げた虚構に過ぎないという事になります。


* 自我・欲望・享楽

では「想像界」「象徴界」「現実界」はそれぞれどのようにして導入されるのでしょうか?

まず「想像界」は生後6〜18ヶ月の「鏡像段階」によって導入されます。ここで子どもは「鏡像」を通じて「自我」を得る。

次に「象徴界」は「父性隠喩」によって導入されます。ここで子どもは「大他者」を通じて「欲望」を得る。

一方「現実界」は「疎外と分離 」によって導入されます。ここで子どもは「対象 a 」を通じて「享楽」を得る。

こうして「享楽」を目指す主体の「欲望」のあり方こそが「自我」を統御することになる。このような「欲望」のあり方を「根源的幻想」といいます。

精神分析とは、このような「根源的幻想」をアップデートする営みとも言えるでしょう。ラカンはセミネール11「精神分析の四基本概念」において精神分析の目標は「根源的幻想の横断」にあると言います。

では、根源的幻想の横断のその先には何があるのでしょうか?晩年のラカンの思索は精神分析の終局点を模索する営みであったとも言えるでしょう。そしてそれは端的に言えば「〈一者〉の享楽」を生きるということです。


* 「〈一者〉の享楽」の発見

まずラカンはセミネール17「精神分析の裏面」において、「疎外と分離」の演算を「主人のディスクール」として一つに統合します。

そして「主人のディスクール」を展開させ「大学のディスクール」「ヒステリー者のディスクール」、そして「分析家のディスクール」という4つのディスクールを導きます。

4つのディスクール.png

この点「分析家のディスクール」とは精神分析の臨床を定式化したものと言えます。すなわち、分析家が分析主体$に対して対象 a の位置を取ることで、無意識という知S2が想定され、分析主体$は新たな主人のシニフィアンS1を析出する事になるわけです。

次にラカンはセミネール20「アンコール」において性別化の論理式を構築していく中、対象 a を通じて得られる従来の「ファルス享楽」とは異なる非エディプス的な享楽を発見する。

性別化の式.png

この新たに発見された特異的/単独的な自体性愛的享楽をラカンは享楽それ自体の体制へ一般化します。これが「〈一者〉の享楽」と呼ばれるものです。

この「〈一者〉の享楽」は子供が初めて出逢う原初的なシニフィアンである「ララング」と結びついた享楽であり、このことから「〈一者〉の享楽」は分析家のディスクールにおけるS1に紐付けられることになります。


* S1→S2

こうして「症状」とは神経症も精神病も同じく「S1→S2」と書き表す事ができるようになる。これが症状の一般理論と呼ばれるものです。

つまり、あらゆる「症状の意味=S2」は「症状の根=S1」から発展して出来上がっているということです。

「症状の意味=S2」とは、まさに無意識の形成物であり、象徴的な意味を持っている。そこで、症状がその奥に隠し持つメッセージを解釈するで症状は消失するとされてきた。

しかし実際には、どれだけ解釈しても症状が消失しない症例や、たとえある症状が消失しても、すぐに別の症状が生み出される症例も多く存在する。

症状の意味をどれだけ解釈しても、主体がその症状を手放そうとしないのは、症状は主体になんらかの享楽をもたらしているからに他ならない。このような症状の持つ享楽の側面を「症状の根=S1」という。

そして「症状の根=S1」にある享楽こそがまさしく、各人それぞれが持つ特異的/単独的な自体性愛的享楽、すなわち「〈一者〉の享楽」ということです。

神経症者や精神病者の症状は多様ではありますが、その症状の多様性は「症状の意味」の側にあるのではなく「症状の根」の側に、すなわち症状が持つ享楽のモードにあるというわけです。

こうして晩年のラカンはS2よりもS1を重視した臨床に傾いていく。つまり精神分析の終局点があるとすれば、それは「〈一者〉の享楽」と上手くやっていく事にあるということになります。


* 茶の湯とマインドフルネス

「〈一者〉の享楽」と上手くやっていく。このようなラカン的観点は、我々が日々の暮らしで直面する様々な「生きづらさ」から脱却できる重要な視座を提示しているように思えます。

実際、この日常において、我々は自分の中にある「〈一者〉の享楽」の鳴動を感じる場面に多々遭遇します。

例えば、茶の湯などはそうなのかもしれません。森下典子さんの自伝的エッセイ「日日是好日」においては、一見、意味不明としか言いようのない数々の茶の湯の所作を集中することで、なんとも言えない不思議な法悦に満たされる瞬間が多く描かれています。

あるいは、最近注目されるマインドフルネスにおいてもそうなのでしょう。呼吸をはじめとする普段の何気無い動作を「今、ここ」に注意を向けて行うことで「ピーク・モーメント」という、釈迦が「悟り」と呼んだ至高体験が瞬間的にではあるものの訪れることが、多くの臨床で実証されています。

茶の湯もマインドフルネスも、ひとつひとつの動作をていねいに行う事によって「思考」を手離し「意識」を「現実」に直結させるという点で共通しています。

こうした営みを重ねる中で何気ない一瞬が輝き出し、その先にはとてつもない自由な境地が立ち現れてくるわけです。


* 「パーソナルな現実」は変える事ができる

また繰り返し申し上げる事になりますが、我々は「生の現実」を「イメージ」と「ことば」によって「パーソナルな現実」として把握している。

そして「生の現実」は変えられませんが、その向き合い方によって「パーソナルな現実」は変える事ができるわけです。

奇跡か何かを待っているだけでは世界も人生も一ミリも変わらない。けれども自分を変える事は今すぐ出来る。日々の小さな積み重ねこそが周囲の世界とこれからの人生を変えていくと言っても別に大げさなことではないという事です。

この日常が灰色のディストピアになるか、色鮮やかなきらめきに満ちた日々になるか。両者を分かつのは結局のところ、もしかするとほんの僅かな紙一重の差なのかもしれませんね。






posted by かがみ at 23:38 | 心理療法

2018年10月31日

自己の修復とゼロ年代の想像力、あるいは「かがみの孤城」



* 鏡映・理想・双子

自己愛性パーソナリティ障害の研究で著名なアメリカの精神科医、ハインツ・コフートは、人が自らの「パーソナルな現実」を成らしめている源泉を「自己」といいます。

コフートによれば自己の中心(中核自己)は「野心の極」と「理想の極」から二つの極から成り立つ構造を持っているという。

子どもは「野心の極」により生じる「認められたい」という動機に駆り立てられ、「理想の極」により生じる「こうなりたい」という目標に導かれることで、初めて健全な成長が生じるということです。

この「野心の極」と「理想の極」を確立させるに不可欠な要素、これが「自己対象」です。

自己対象とは自己の一部として体験される人や物といった対象をいいます。

「野心の極」を確立させるのは賞賛や承認を与えてくれる自己対象です。これを「鏡映自己対象」という。「理想の極」を確立させるのは生きる目標や道標を与えてくれる自己対象です。これを「理想化自己対象」という。

こうした「自己対象」に恵まれなければ人は不安に満ちて傷つきやすく尊大な人間になってしまう。つまり健全な「自己」を確立するには「自己対象」の存在が必要不可欠ということになります。

さらに、コフートは晩年、鏡映自己対象・理想化自己対象とは別の第三の自己対象の存在を指摘する。これが「双子自己対象」と呼ばれるものです。

双子自己対象は、野心の極から理想の極へ至る緊張弓に生じる「技倆と才能の中間領域」を活性化させる作用を持つ「私もあの人も同じ境遇の人間なんだ」と実感させてくれる自己対象です。

つまりコフートのいう、健全な「自己」とは、「鏡映自己対象」により「野心の極」が確立し、「理想化自己対象」により「理想の極」が確立し、「双子自己対象」によって「技倆と才能の中間領域」が活性化する事で成り立つものだといういうことである。

逆にいうと、これらの三極が機能不全に陥る事で「自己の断片化」が起こり、結果、数々の精神疾患が生じてくるということです。

つまり「病んだ心を治療する」という事は、治療者が患者の自己対象になる事で、患者の断片化した自己を修復し、再び構造化させると同時に、治療者以外の他者を自己対象として上手に依存していく術を学んで貰う過程に他ならない。

* ポストモダン状況下における文化的想像力の変遷

こういったコフートの「自己の修復」というプロセスは、ポストモダン状況下における文化的想像力の変遷にも当てはまると思います。

ポストモダンとは「大きな物語」が機能しなくなった社会状況をいいます。ここでいう 「大きな物語」というのは「正しさ」について社会全体が共有するイデオロギーです。

日本の場合、阪神大震災が起きた1995年前後辺りが、ポストモダン状況の進行という点において重要な節目であると言われています。

一方で平成不況の長期化がジャパン・アズ・ナンバーワンの経済成長神話を崩壊させ、他方でオウム真理教による地下鉄サリン事件が若年世代の「生きづらさ」の問題を前景化させた。結果、90年代後半は戦後史上最も社会的自己実現への信頼が低下した時代となるわけです。

つまり「大きな物語」の失墜という価値観の転換が起きた事で、社会的レベルで「自己の断片化」が起きているわけです。

こうして「大きな物語」が失墜した現代においては、各個人はそれぞれが「小さな物語」を選択して生きて行かざるを得なくなるわけです。

すなわち、文化的想像力の変遷とは、個人がどのような「小さな物語」をどのように選択し、そこでどのように生きて行くかという態度の問題に他なりません。

この点、宇野常寛氏は「ゼロ年代の想像力」おいて、以下のような文化的想像力の変遷を示しています。

⑴ 引きこもり/心理主義

まず、何が正しいのかわからなくなった時代において、最もわかりやすい「小さな物語」は「何が正しいのかわからないから、とりあえず引きこもる」ということです。

つまり、他者を拒絶し「母親的承認」による全能感の下で生き延びるという態度です。こういった態度を「引きこもり/心理主義」と呼びます。ここでいう「母親的承認」は「鏡映自己対象」に相当します。

95年に放映された「新世紀エヴァンゲリオン」で描かれる「人類補完計画」の後景にある思想はまさに「何が正しいのかわからないので、だれかを傷つけるくらいなら何もしないで引きこもる」という「引きこもり/心理主義」的態度に他ならなりません。

これに対し、97年に公開されたエヴァ劇場版「Air / まごころを、君に」においてシンジはアスカに「キモチワルイ」と拒絶されるあの有名なラストは、上記の「引きこもり/心理主義」を解毒するための一つの処方箋でもあったわけです。

けれどもエヴァ劇場版の示す回答は当時においてはあまりにも時代を先取りしすぎしており、TV版の結末に共感した「エヴァの子供達」から拒絶され「引きこもり/心理主義」的想像力を色濃く引き継いでいる作品群が一世を風靡する。

このような想像力が色濃く現れている作品群を「セカイ系」といいます。典型的な「セカイ系」の作品として「最終兵器彼女」「ほしのこえ」「イリヤの空、UFOの夏」などが挙げられます。

セカイ系においては「ヒロインからの承認」が「社会的承認」を通り越して「世界からの承認」と直結関係となっているわけです。別言すればセカイ系とは「アスカにキモチワルイと言われないエヴァ」であるということです。

⑵ 決断主義

ところがゼロ年代に入り、上記のような「引きこもり/心理主義」モードは徐々に解除されていくことになる。

2001年9月11日に発生した米同時多発テロ、小泉構造改革路線により格差社会拡大といった社会情勢を受けて、「何が正しいのかわからないが、このまま引きこもっていては殺される」という新しい想像力が台頭して来ることになる。

つまり、他者を傷つけることを厭わず、何がしかの「中心的価値感」を「小さな物語」として、あえて自己責任で選び取り生き延びるという態度です。こうした態度を「決断主義」と呼びます。ここでいう「中心的価値観」は「理想化自己対象」に相当します。

現代において我々は不可避的に決断主義者とならざるを得ない。まさに正義無き時代に正義を執行するという矛盾を抱えて生きていくわけです。

このような想像力が色濃く現れている作品群を「サヴァイブ系」といいます。典型的な「サヴァイブ系」の作品として「DEATH NOTE」「コードギアス・反逆のルルーシュ」などが挙げられます。

⑶ 決断主義の克服としての次世代の想像力

以上のように「大きな物語」無き現代においては人は誰もが「大きな非物語=データベース」から自分好みの「小さな物語」を自身で生成し、「無自覚的」に、あるいは「あえて」特定の価値観を選択している。決断主義とは、このようなメタレベルで複数の「小さな物語」が乱立する動員ゲーム的状況をいうわけです。

では「決断主義」はいかに乗り越えられるのでしょうか?この点、宇野氏はひとつのキーワードとして「コミュニケーション」をあげています。

すなわち、異なる「小さな物語」を生きる他者と、どのように「コミュニケーション」して繋がっていくかという問題が「決断主義の克服としての次世代の想像力」を語る上で重要な鍵となるわけです。ここでいう「他者」こそ、まさに「双子自己対象」です。


* 次世代の想像力の到達点としての「かがみの孤城」



かがみの孤城
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本年の本屋大賞受賞作「かがみの孤城」は、アニメ的/ゲーム的リアリズムによる世界観を持ちつつ、現代の子供達が抱える様々な「生きづらさ」を瑞々しい文体で紡いでいく物語です。

同時に、本作では「決断主義の克服としての次世代の想像力」のひとつの到達点が示されているといっても過言ではないと思います。

本作のあらすじはこうです。中学生の少女、安西こころは中学入学後まもなくして、とある些細なきっかけから学校での居場所をなくし、家に引きこもることを余儀なくされる。そんなある日、突然、こころの部屋の鏡が不思議な光を放ち始める。鏡をくぐり抜けた先には、まさにアニメやゲームに出てくるファンタスティックなお城のような不思議な建物があった。そこにはちょうど、こころと同じような境遇の7人の子供達が集められていた。

そして、7人を集めた城の主である「オオカミさま」は次のように宣う。

お前たちは今日から三月まで、この城の中で”願いの部屋”に入る鍵探しをしてもらう。見つけたヤツ一人だけが、扉を開けて願いを叶える権利がある。

(辻村深月「かがみの孤城」より)


要するに、外の世界に居場所を失った子供達が、外界から隔絶された孤城というゆりかごの中で、願いが叶う鍵というアイテムを争奪するという基本設定があるわけです。ここでは「大きな物語」の失墜から「引きこもり/心理主義」を経て「決断主義」へと至る想像力の遷移の流れが見事にトレースされています。

ではここから暴力と謀略に満ちた血みどろのバトルロワイヤルが展開されるのかというと、そうはならない。

一応、各々それなりに鍵探しはするんですが、別に血眼になって探すというわけでもなく、むしろ、ゲームをしたりお茶会をしたりと、多少の人間関係の軋轢はありつつも、基本的にはゆるゆるとした日常が三月まで過ぎていく。

こうした過程の中で彼らは、この城で皆と過ごす時間は鍵探し以上にかけがえのないものであり、お互いが「助け合える存在」であるということに自ずと気付いていく。

つまり、異なる「小さな物語」を生きる「他者=双子自己対象」とのつながりにこそ、代え難い価値があるという「決断主義の克服としての次世代の想像力」がここでは示されているわけです。

物語終盤における、こころの次のような心情の吐露は、この感覚を悲壮なまでによく表しています。

この一年近く、ここで過ごしたこと。友達ができたことはは、これから先もこころを支えてくれる。私は、友達がいないわけじゃない。この先一生、たとえ誰とも友達になれなかったとしても、私には友達がいたこともあるんだと、そう思って生きていくことができる。

(辻村深月「かがみの孤城」より)


最後、7人のうちの1人が決断主義的に「ルール破り」をして「オオカミさま」に食べられるんですが、結局、その子は皆から手を差し伸べられ、救われます。そしてその子は今度を皆を救う側に回って生きていく。こうして物語は様々な余韻を含ませつつ、静かに幕を閉じます。

* おわりに

このように、想像力のパラダイムの変遷とは「大きな物語」が失墜した社会において、人々が傷ついた「自己」を修復していく過程であり、我々が人生において経験する「他者」との関係性の在り方そのものを示しているわけです。

いずれにせよもはや「大きな物語」が「〈他者〉の承認」や「生きる意味」を与えてくれる時代は終わったことは明らかでしょう。我々はこのありきたりな日常の中でこれらのものを自らの手で掴みとって行かなければならないということです。


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2018年09月30日

「データベース消費」というディスクール



* 4つのディスクール

ジャック=ラカンはセミネール17巻「精神分析の裏面」において、我々が生きる社会における様々な言説を分類した「4つのディスクール」を示します。

4つのディスクール.png

これは、真理(左下)、動因(左上)、他者(右上)、生産物(右下)という4つの位置に、主人(S1)、知(S2)、主体($)、対象(a)の4つの項がどのように配置されるかによって、それぞれのディスクールが規定されるものです。

基本的な法則は「真理」によって支えられた「動因」が「他者」に命令し、結果、「生産物」ができるというものです。もっとも、「真理」と「生産物」の間は遮蔽されており、両者を一致させることは構造的に不可能とされます。

主人のディスクールは主体の構造を、大学のディスクールは強迫神経症者のあり方を、ヒステリー者のディスクールはヒステリー者のあり方を、分析家のディスクールは精神分析の構造を、それぞれ示しています。


* 資本主義のディスクールによる剰余享楽の氾濫

上記の4つのディスクールが出そろったのちの1972年、ラカンは「新しい主人のディスクール」ともいうべき「資本主義のディスクール」を示します。

これは主人のディスクールを左側を反転させ、$とaを直結させたものです。

資本主義のディスクール.png

上図のように資本主義のディスクールとは主人のディスクールを基本としつつ、そこにヒステリー者のディスクールと大学のディスクールの特徴を組み合わせたものになります。

資本主義のディスクールが氾濫する社会は糸井重里氏の「欲しいものが欲しいわ」というキャッチコピーが的確に言い表しているように「欲望の搾取」が発生します。

「欲望」とは「喪失/回復」の過程で発生するものです。人は乳幼児期において、外界から得られた満足体験の記号を記憶痕迹(シニフィアン)に置き換える。ここで我々はもはや満足体験そのものにはアクセスできず欠如(喪失)を抱え込むことになる。

それゆえに、人の無意識下においては、この欠如した対象を追い求める運動が永続的に展開されることになる。これが欲望です。

主人のディスクールはシニフィアン連鎖(S1→S2)により欠如した主体($)と対象( a )が出現する構造になっており、まさにこの「喪失/回復」の過程を示しています。

ところが、資本主義のディスクールでは喪失の側面がなくなっている。そして喪失抜きに享楽の復元が可能であるという空想が主体に与えられてしまっている。

こうして資本主義のディスクールが際限なく回り続ける時、我々は欲望するヒマもなく、そこらかしこに氾濫する剰余享楽を摂取し続けることを強いられる羽目になります。「新型うつ病」や「発達障害」の増加はこのような文脈からも読み解くことができるでしょう。


* 「データベース消費」というディスクール

資本主義のディスクールの典型的な例として、東浩紀氏がいう「データベース消費」をあげることができるでしょう。

氏が「動物化するポストモダン」で述べるように、ポストモダンにおいては「歴史」や「社会」が与える「大きな物語」は失墜し、その代わりに「情報の海」として静的に存在する「大きな非物語=データベース」が存在感を増してくる。

ここでは人々は「データベース」から自分好みの「小さな物語」を自身で生成することになります。

つまり、現代においては人は誰もがデータベースから欲望するままに「小さな物語」を読み込み、あるいは「無自覚的」に、またあるいはそれが究極的には無根拠である事を織り込み済みで「あえて」特定の価値観を選択する。

こうしてメタレベルで複数の「小さな物語」が乱立する動員ゲーム的状況が成立する。

これはまさしく資本主義のディスクールの典型例でしょう。つまりこういうことです。我々、ポストモダンを生きる主体($)が抱く自体性愛的享楽(S1)は、速やかにデータベース(S2)に登録され、ここから生成される「小さな物語(a)」を享楽する事で生きることになる。


* 「小さな物語」をどう生きるのかということ

では、このような「小さな物語」が乱立する現代の動員ゲーム状況をどのように生きていけばいいのでしょうか?換言すれば資本主義のディスクールが支配する世界における欲望と享楽のあり方の問題です。

一つは、自らが信じる「小さな物語」の中に引きこもり「小さな物語」が与えてくれる母親的全能感の中で生き延びるという態度があるでしょう。

あるいは、自らが信じる「小さな物語」を頼みに、異なる「小さな物語」を信じる他者との間で熾烈な闘争を繰り広げる態度があるでしょう。

またあるいは、異なる「小さな物語」を生きる他者に手を伸ばし、時に傷つきながらも、他者との間の共感やつながりといったコミュニケーションを試みる態度もあるでしょう。

いずれにせよ確かなことは、今やもはや「正しい物語」など、どこにも無いということです。かといって、人は「物語の重力」から逃れられるほど軽くも強くもありません。

結局のところ、我々は自らが選び取った根拠なき「小さな物語」の中で生きていかなければならないわけです。そこでは「物語とどう付き合っていくか」という「物語への態度」が問われているということになります。




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posted by かがみ at 00:51 | 心理療法