2017年11月29日

「全体性の回復」としての影とアニマ、あるいは「Fate/stay night」



Fate/stay night [Heaven's Feel] (5) (角川コミックス・エース)
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ジークムント・フロイトによれば、人の心は意識(前意識)と無意識に分けられるとされます。これに対して、フロイトと一時期盟友関係にあったカール・グスタフ・ユングは無意識をさらに「個人的無意識」と「集合的無意識」に分けることを提唱し、フロイトとその袂を分かちました。

集合的無意識というのは、ユングによれば個人的体験を超えた人類に共通する先天的な精神力動作用である「元型」によって構成されるといいます。世界中の神話、伝説、昔話の間に何らかの一定の共通した典型的なイメージが認められるのは、この「元型」の作用に他ならないということです。

典型的な元型として例えば「グレートマザー」という「母性の元型」があります。母性はその根源において「何かを産み育ていく」という肯定的な側面と、そして「何もかもを呑み込んでしまう」という否定的な側面を併せ持ちます。ユング派の分析家である河合隼雄氏は、いわゆる対人恐怖症は母性原理の強い日本社会の特質に根ざしていると指摘しています。

さらにユングは意識体系の中心をなす「自我」に対して、無意識をも含めた心の全体の枢要に「自己」という元型を仮定しました。そして自我と自己との間に適切な相互作用関係を確立する過程を称して「自己実現」といいます。

自己実現の過程とは自己がまさにその全体性を回復していく個性化の過程であり、そこには相対立ものを円環的に統合していく相補性の原理が作用しています。

つまり、このユング的な「自己実現」とは、その辺のキラキラワードとして安易に用いられる「自己実現(笑)」とは違い、自分の心の奥底に潜む「元型との対決」に他なりません。

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「Fate/stay night」という物語は衛宮士郎という自我に歪みを抱えた人間がその全体性を回復していく物語として読むことができます。

あらすじはこうです。とある地方都市「冬木市」に数十年に一度現れるという万能の願望機「聖杯」。聖杯を求める7人のマスターはサーヴァントと契約し、聖杯を巡る抗争「聖杯戦争」に臨み、最後の一組となるまで互いに殺し合う。

10年前、第四次聖杯戦争によって引き起こされた冬木大災害の唯一の生き残りである衛宮士郎は、自分を救い出してくれた魔術師である衛宮切嗣に憧れ、いつかは切嗣のような「正義の味方」となって困っている人を救い、誰もが幸せな世界を作るという理想を本気で追いかけていた。

しかしこれは「自分だけが生き残ってしまった」という罪悪感の裏返しにすぎないのです。「正義の味方」とは彼にとっては「願い」というより「呪い」ともいうべきものであった。

「Fate/stay night」の原作はどの選択肢を選ぶかで展開が変わってくるビジュアルノベルゲームです。ルートはメインヒロイン毎に大きく3つに分岐します。

3ルート合わせて総プレイ時間は平均60時間という、この壮大な物語は、衛宮士郎が「影」や「アニマ」という元型との対決を通じて、自己の全体性を回復していく過程を見事に描き切っています。

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士郎はまず、いわゆる凛ルートである「Unlimited Blade Works」において、自らの「影の元型」と相対します。

影とは自我からみて受け入れ難い人格傾向をいいますが、士郎にとってアーチャーは自らの理想に絶望した未来の自分の成れの果てであり、まさに影といえる存在です。

かつて自ら抱いた「正義の味方」という理想が不可能な偽善であることを身を以て知り尽くしているアーチャーは、過去の自分である士郎に「理想を抱いて溺死しろ」と言い放つ。

これに対し、士郎は自らの理想は借り物であり偽善であると認めた上で、それでもそれは決して間違いではなかったことを再確認することで、自分の影を自我に統合していくことになる。

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そして、いわゆる桜ルートである「Heaven’s Feel」において、士郎は自らの「アニマの元型」と相対することになります。

アニマとは男性がペルソナ形成の過程で切り捨ててきた女性的要素をいいます(女性にとってのそれはアニムスです)。そして、ここでアニマを演じるのは間桐桜という少女です。

桜はこれまでのルートにおいて「穏やかな日常の象徴」として描かれてきましたが、実はその体内には聖杯(小聖杯)の器としての機能を宿しており、桜ルートではこの機能が覚醒し、桜は聖杯の器として、大聖杯の中に潜む反英雄アンリマユとリンクしてしまう。

このまま桜を放置すれば「この世全ての悪」と呼ばれる災厄が顕現することになる。そのため桜の実姉である遠坂凛は魔術師としての立場を貫き「桜を殺す」と言う。そこで士郎は「正義の味方か、桜の味方か」というという極めて困難な問いをつきつけられる。

この点、原作ゲームは士郎が桜の味方となる選択を物語のトゥルーエンドとします。確かにここは賛否の分かれるところであり、Fate/stay nightを一つの英雄譚として読むとき、これまでの信念を放棄して1人の女の子を救おうとする行為は「変節」あるいは「挫折」にも映るでしょう。

けれども「全体性の回復」というユングの視点から言えば、士郎にとって桜と最後まで真摯に向き合っていくことは、「アニマの元型」を受け入れていく道と言えるでしょう。

アニマと向き合うことは影との対決以上に困難を伴います。アニマの起源は「太母の元型」であり、アニマを求めるということは同時にグレートマザーに飲まれる危険も伴うということです。実際、桜もその強い依存心の裏返しからあらゆる形で士郎を飲み込もうとしています。

けれども、それでも士郎は言う。自分を殺したがっている桜もひっくるめた全てから桜を守る、と。こうして彼はどこまでも桜の味方であり続けることによって、借り物でも偽善でもない彼だけの正義を手に入れて、ようやく10年前から続く「正義の味方という呪い」から救われたわけです。

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このようにユング的な自己実現の道とは自らの「影」や「アニマ(アニムス)」から目を背けず、正面から対決することであり、それは痛みを伴ういばらの道です。

これはなかなか厳しい考え方ではありますが、見方を変えると、人生で出会う困難に肯定的な意味合いを付与する考え方とも言えるかもしれません。

人は時として内的に凄まじい体験をしつつも、この日常を生き抜くことによって、自我はより高次の統合へ導かれ、そこから実り多い、豊かで素敵な人生というものが開けてくるということなんでしょうか。

posted by かがみ at 21:30 | 文化論

2017年10月30日

転移の水準と愛の水準、あるいは「カードキャプターさくら」







「フロイトは、非常に早くから、転移の中で生じる愛は真正のものかどうかという問題を提起しました。一般的には、それは端的に言うと一種の偽の愛、愛の影であると考えられています。」

(ジャック=ラカン「精神分析の四基本概念」162頁より)


「転移」とは一般的には精神分析の場において、両親などの過去の人物との間の感情を反復することなどと言われますが、より本質的なことを言えば「象徴的他者=〈他者〉」に対する「わたしを愛して」という「要求」に他なりません。

では〈他者〉とはなんでしょうか?〈他者〉とはその辺の「他人」とはまた違う、ある人にとって絶対的な象徴的秩序を体現する存在をいいます。

一般的に言えば、人生最初の〈他者〉は「〈母親〉=実母あるいは養育者」ということになるでしょう。ヒトの子どもは出生を経て現実界から象徴界に参入する代償として「享楽」を決定的に失うため、これを回復するための運動を試みます。これがフロイトが規定した人間の根本衝動、つまり「欲動」です。

ゆえに子どもは「乳房、排泄、声、まなざし」などの具体的対象を媒介として「わたしを愛してね」と〈母親〉に「欲動の言葉」を以って「要求」し、自らの欲動を満たそうとする。

これが転移の起源に他なりません。その後、子どもは後に見るように「das Ding」に直面した後も「要求」の水準にある程度の固着を残しているため、以後の人生において、誰か他人の中に〈他者〉のイメージを投影した時、やはり彼に対して「わたしを愛してね」と「要求」するわけです。

そういう意味において精神分析における「無意識のスクリーン」としての分析家、つまり「知っていると想定された主体(sujet suppose savoir)」としての分析家はまさに転移の対象となる〈他者〉の典型と言えるでしょう。

ところで上記の引用のようにラカンは転移を「偽の愛」であるといいます。では、転移ではない純粋な意味での「愛」とやらは果たして何処にあるのでしょうか?

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CLAMPさんの不世出の名作「カードキャプターさくら」は、この「転移」と「愛」という似て非なる2つの感情の差異を大変繊細な筆致で、かつ明確に描き分けることに成功した作品の一つでしょう。

「カードキャプターさくら」という作品は大きく分けると「クロウカード編」と「さくらカード編」という二部構成となっています。まず「クロウカード編」のあらすじは、主人公の木之本さくらが、相棒のケルベロス、親友の大道寺知世、そして後に相手役となる李小狼とともに伝説の魔術師クロウ・リードの作り出した「クロウカード」を全て集め、カードの正式な主となる・・・というものです。

そしてその後、さくらの前に謎めいた転校生柊沢エリオルが現れ、その直後より奇妙の事象が続けて発生する。クロウカードはなぜか事象に対して効果が無効化されてしまう。そこでさくらは「クロウカード」を自らの魔力を込めた「さくらカード」にアップデートすることで事件を解決していく・・・これが「さくらカード編」のあらすじとなります。

こうして物語も佳境に入りつつある中、さくらの通う小学校の模擬店大会が開催され、その日、さくらは兄の桃矢の親友であり、ずっと慕っていた存在だった雪兎へその想いを告げる。これに対し、雪兎は次のような言葉を返します。

雪兎「…ぼくもさくらちゃんが好きだよ」

雪兎「でも…さくらちゃんの一番はぼくじゃないから」

雪兎「さくらちゃん、お父さんのこと大好きだよね?」

さくら「はい」

雪兎「ぼくのことは?」

さくら「…好きです」

雪兎「その気持ちは同じじゃない?」

雪兎「お父さんが大好きな気持ちと、ぼくを好きだと思ってくれてる気持ち、すごく似ていない?」

さくら「…似てます」

(CLAMP「カードキャプターさくら」より)


物心つく前に母親を亡くしているさくらにとって、父親である藤隆は父親であると同時に母親でもある、つまり、象徴的秩序を体現する〈他者〉というべき存在です。

雪兎はさくらの自分への想いが〈他者〉に対する「転移」であることを見抜いていたからこそ、そのことをさくらに気づかせるため、このような言葉を返したわけです。

雪兎「ぼくを好きな気持ちのせいで、さくらちゃんの本当の一番を見つけるが遅れちゃいけない……」

(CLAMP「カードキャプターさくら」より)


もっともこの時、さくらは雪兎への感情の中に、父へのそれと同じではない、つまり転移以外の別の感情を抱いていたことに気づく。これが後々の展開におけるアリアドネの糸となる。

さくら「…でもね、そうじゃない『好き』も雪兎さんにはあったの…」

さくら「ほんのちょっとだけど…お父さんとは違った『好き』が…」

(CLAMP「カードキャプターさくら」より)


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そしてその後、さくらは一連の騒動の黒幕であったエリオルと東京タワーで対峙。エリオルの正体は伝説の魔術師クロウ・リードその人であった。闇を呼び、知世や桃矢を含めた街中の人を眠らせてしまうエリオル。そこから3×3の頂上決戦の末、小狼の助力もあり、さくらは最後まで残っていた「光」と「闇」のカードをさくらカードへアップデートを果たし、なんとかエリオルの魔法を破り事態を収拾します。

なんでエリオル、というかクロウ・リードがこういう回りくどいことを企てたのかという経緯はここでは触れませんが、ともかくも目的を達したエリオルはイギリスへ帰国することになります。そして出立の際、さくらにこう告げます。

エリオル「さくらさん、僕がイギリスに帰るって聞いてどう思いました?」

さくら「え?」

さくら「残念だなあって…」

エリオル「………お願いがあるんです」

エリオル「同じことが起こった時に…あなたのそばにいるひとが遠くへ行ってしまう前にあなたがどう思うか」

エリオル「その気持ちは僕の時とどう違うかよく考えてください」

エリオル「そうすれば、あなたが本当に誰を『一番』だと思っているかが、わかりますから」

(CLAMP「カードキャプターさくら」より)


この直後、さくらは小狼から告白されるわけですが、しばらくの間、さくらは自分の中にある感情の正体をうまく言語化することができません。その正体がはっきりと分かるのは小狼が香港に帰ることを知った時です。

さくら「エリオル君がイギリスに帰っちゃうってわかった時はすごく残念だった」

さくら「また会えるといいなとか、お手紙書こうとか、いろんなこと考えていた」

さくら「でも小狼君の時は…」

さくら「そんなのやだ…やだよ…」

(CLAMP「カードキャプターさくら」より)


ここでさくらは「das Ding」に直面しているわけです。

先に見たように、子どもの「欲動」はまず第一次的には「乳房、排泄、声、まなざし」などの具体的対象に結びつきますが、「欲動」とは本質的に「死の欲動」であり、その究極的な対象は母子一体的な「享楽」の在処、つまり「das Ding」といういわば「無の場所」です。

しかしながらフロイトが「快楽原則の彼岸」で述べるように「死の欲動」は「生の欲動」によって抑止される関係に立つことから、人は生きている限り「das Ding」への到達は原理的に不可能ということになります。つまり欲動それ自体は決して満足することはなく、ゆえに「das Ding」とは子どもにとって一種の煉獄の場と言えます。

そこで、子どもは「das Ding」に到達する不可能性を一つの「禁止」とみなすことで、その禁止の遥か彼方に一つの可能性を見出そうとする。これが「欲望」と呼ばれるものの本質に他なりません。

これは何も幼児期の発達過程に限った話ではなく、我々は日々、何かの不可能性に直面することで生起する感情に「欲望」の名前を無自覚的につけています。とりわけ、その「禁止のヴェール」に「das Ding」を描き出し、その不可能性を何か尊いものへと昇華させようとする営為を我々は「芸術」とか「愛」などと呼ぶわけです。

従って、もし仮に「転移」ではない純粋な意味での「愛」というものがあるとすれば、それは「わたしを愛してね」という「要求」の水準ではなく、「わたしは愛してる」という「欲望」の水準にあるということです。

さくら「ちゃんとわかったよ」

さくら「私が小狼君のこと、どう思っているか」

(CLAMP「カードキャプターさくら」より)


こうして、さくらは小狼の帰国という「das Ding」に直面することにより、これまで形にならなかった自分の中にある想いを初めて言葉にすることができた。これは一つの欲望が生成される瞬間をよく表していると言えるでしょう。

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このように「転移」と「愛」はその概念として截然と区別されることになる。もちろん実際問題として誰かが誰かに恋愛感情を懐く時、この二つは無い混ぜとなり、渾然一体となった和音として鳴り響くのでしょう。

けれどもその時、どの音階が自分の心の中で一番高鳴っているかを理解することは決して無益なことではないでしょう。

むしろ、そうすることによって、人は「私を愛してくれないこの苦しみ」を「それでも私はあなたを愛している」へと転回し、昇華することができる、ある一つの道標を得ることができるのではないでしょうか。


posted by かがみ at 23:12 | 文化論

2017年09月25日

SsSと欲望の領野、あるいは「君の膵臓をたべたい」




分析家の位置

「分析家とは誰でしょう。それは転移を利用することで解釈をおこなう者なのでしょうか。転移を抵抗として分析する者なのでしょうか。それとも現実性について自分が持っている観念を押しつける者なのでしょうか。」

(ラカン「エクリV」より)


精神分析の臨床において分析家は分析主体にとって「知を想定された主体(SsS)」でなければならないといわれます。なんとなれば、精神分析という営みの場においては分析主体の「無意識」こそが最終的な権威であり、治療の進展の鍵を握るのは分析主体の「無意識の意識化」だからです。

そうである以上、分析主体の「無意識を意識化」促すには、分析家は分析主体の「無意識の代理人」として機能する必要があるということです。

そのためには分析家はーーー句読法、あるいは解釈など諸技法を駆使することでーーー分析主体にとって「知を想定された主体(SsS)」、つまり何か重要なことを知っている、あるいは教えてくれる重要な〈他者〉としての位置を取らなければなりません。

そして、分析家が分析主体にとってのSsSとして位置付けられる時、分析主体の中で分析家に対する特殊な感情が誘発されます。これを「転移」といいます。

ここでSsSとして見做された分析家は、分析主体から突きつけられる様々な「欲求満足の要求」ーーー自分について「どのように思うか」という「評価の要求」や、自分に「どうして欲しいのか」という「要求の要求」ーーーと「何でもいいからとにかく私を認めて欲しい、愛して欲しい」という「愛の要求」を徹底的に切り分けていく。

これはいわゆる「禁欲原則」といわれるものですが、分析家がこのような態度を維持することにより、欲望のグラフが示す通り、分析主体の欲求は「欲求満足の要求」と「愛の要求」に二重化され、その中央に「欲望の領野」が活性化されていくわけです。「欲求→要求→欲望」からなる欲望の弁証法化。これが分析関係の基本的な構造となります。

分析の場以外でも禁欲原則は有効に作用します。例えばラカニアンとして知られる精神科医の斎藤環氏は不登校や引きこもりの問題に関して、家族は本人にとって愛憎入り混じる鏡像ではなく、ルールを介した〈他者〉として振舞わなくてはならないという趣旨のことを書いていますが、これも禁欲原則のひとつの応用例といえるでしょう(斎藤「引きこもりはなぜ「治る」のか?:55頁)。



「君の膵臓をたべたい 」における「禁欲原則」

ではここで、SsSの特性を端的に示している例として「君の膵臓をたべたい 」という作品を取り上げておきましょう。作品のあらすじを簡単に紹介しておきます。クラスでなんとなく孤立している【僕】は偶然「共病文庫」なる日記を目にして、明るくてクラスの人気者の山内桜良が余命僅かな膵臓の難病に罹っていることを知る。こうして彼女との間に親友でも恋人でもない不思議な「なかよし」の関係が始まっていく・・・というものです。


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「君は、 きっとただ一人、私に真実と日常を与えてくれる人なんじゃないかな。」

「お医者さんは、真実だけしか与えてくれない。 家族は、 私の発言一つ一つに 過剰反応して、 日常を取り繕うのに必死になってる。友達もきっと、 知ったらそうなると思う。 」

「君だけは真実を知りながら、 私と日常をやってくれてるから、 私は君と遊ぶのが楽しいよ」

(住野よる「君の膵臓をたべたい 」より)


桜良の中には、確実に鳴動を始めた「死」という現実があるわけです。そこで彼女のとった選択は「死の受容」でも「死の抑圧」でもないーーー「死ぬまで元気でいられるようにって」ーーーつまりは「共病文庫」という日記の表題からも明らかなように「死との共存」です。

彼女のとった選択は死を客観的にまなざしつつも生を最大限に「欲望」するということ。それは彼女のひとつの「覚悟」の表れということです。

しかしながら、いずれにせよこの選択は尋常ではないエネルギーを要します。すなわち、彼女を限界まで欲望させてくれる〈他者〉が必要となってくるということです。

残念ながら、彼女の親友であるキョウコにはその役割は担えないのです。仮に彼女が真実を知ったとすれば、それこそ死に物狂いで桜のどんな「要求」でも文字通り叶えようとはするでしょう。しかし、ラカンが述べるように「欲望」が弁証法的なものであるのならば、あらゆる「要求」を悉く叶えるであろうキョウコは桜良の良き鏡像とはなり得ても、彼女を欲望させる〈他者〉とは決してなり得ない。だからこそ桜良はキョウコに真実を告げなかった、あるいは出来なかった。

桜良が自らの「欲望」を全うするには、彼女の死を知りつつも、それでも〈他者〉として彼女に接する存在が必要となる。たまたまこの条件を満たす位置にいたのが【僕】という人間です。

【僕】は彼女の取った「選択」を尊重しつつも、生来の閉じた性格からいつも彼女にシニカルで冷淡な態度をとります。

「僕が人に興味がないからだよ。基本的に人は皆、自分以外に興味がない、つまるところね。 もちろん例外はあるよ。 君みたいに、特殊な事情を抱えてる人間には僕も少し興味はある。でも僕自身は、他の誰かに興味を持たれるような人間じゃない。だから、誰の得にもならないことを喋る気にはならない」

(住野よる「君の膵臓をたべたい 」より)


けれどもその一方、【僕】は桜良の内的世界の探索とその解釈にかけては極めて真摯かつ貪欲な姿勢を見せます。

「春を選んで咲く花の名前は、出会いや出来事を偶然じゃなく選択だと考えてる、君の名前にぴったりだって思ったんだ」

(住野よる「君の膵臓をたべたい 」より)


このような【僕】の二重化された態度は分析家的態度と大きく重なるものがあります。結果、【僕】は桜良にとってSsSとして作用して彼女の欲望の領野を開き続けた。このようにも言えるでしょう。彼女のいう「私に真実と日常を与えてくれる人」とは、つまりは、そういうことです。


出会い損ないの悲劇と生の輝きに満ちたハッピーエンド

ただ【僕】は、無自覚的にSsSに位置付けられただけに過ぎない存在であるがゆえに、もちろん最後までその位置にとどまることは出来ていません。関係性の進展のうち、【僕】も知らずしらずのうち、桜良によって「欲望」させられています。

だから物語クライマックスにおいて【僕】は桜良の中に自らの「欲望の原因=対象 a 」を見出し、その結果、例の「君の膵臓を食べたい」という言葉を紡ぐことになるわけです。

けれども、結局、僕は彼女と「出会い損なう」。その時には既に、彼女は欲望の主体のまま、もうこの世から「勝ち逃げ」してしまっているからです。それはつまり、彼女は「死ぬ前に殺された」ことである意味では「死ななかった」ということです。


このように考えると本作は出会い損ないの悲劇と生の輝きに満ちたハッピーエンドという二重構造を含んでいるとも理解できるでしょう。本作の基本構造が美少女ゲーム的文法に則っているにも関わらず、幅広い層の共感を呼んだ理由というのも、何かその辺りにあるような気もするわけです。


posted by かがみ at 22:43 | 文化論

2017年08月31日

ラカン派精神分析と自閉症圏



疎外と分離

まずはおさらいですが、ラカン派精神分析においては人の精神構造は概ね3つに分類されます。すなわち精神病圏、神経症圏、倒錯圏です。

そして、ある主体が精神病圏から神経症圏へ遷移するには心的な母子分離が必要とされます。この点、1950年代のラカンはフロイトのエディプスコンプレックスを構造化して〈父の名〉というシニフィアンの有無で神経症と精神病を鑑別していました。すなわち〈父の名〉を持っていれば神経症、持っていなければ精神病、ということになる。

ところが、シニフィアンという「象徴界」の水準のみでは精神病内部でパラノイアとスキゾフレニアを鑑別するのは不十分だという憾みが残るわけです。そこで1960年代のラカンは享楽や対象 a という「現実界」の水準を視野に入れて鑑別診断を再構成することになります。これが「疎外と分離」の理論です。

「疎外」が主体の象徴界への参入の過程であるとすれば、「分離」とは主体が再び現実界に(部分的に)回帰する過程ということになります。

われわれは「原生的主体=S」として現実界に一つの生命として生まれ落ちる。その後、Sは「疎外」の操作によって象徴界に参入すると同時に、代価として「欲動の満足=享楽」を喪失し「失われた主体=$」となってしまう。

もっとも$は「分離」の操作によって、失った「享楽」の一部を「欲動の対象/欲望の原因=対象 a 」を通じて再び回復し得る。こうして「対象 a 」に急き立てられる「欲望する主体=神経症的主体」が出来上がる。

以上のような「疎外と分離」の観点から、「享楽」が「対象 a 」として切り出されていれば神経症、「享楽」が〈他者〉に回帰すればパラノイア、「享楽」が身体全域に回帰していればスキゾフレニアという鑑別診断が帰結されるわけです。


疎外を拒絶する子供たち

さて、このようなラカン派の鑑別診断の中で「自閉症」はどこに位置付けられるのでしょうか?かつて自閉症はスキゾフレニアの早期発症、あるいは精神遅滞と混同されるような存在でしたが、ブルーノ・ベッテルハイムの母原病説が退けられる一方、ローナ・ウィングによる「3つ組の障害」の定式化を経て、2013年のDSM-Vにおいてはカナー型とアスペルガー型が「自閉症スペクトラム」として統合され、自閉症は一つの独立的なカテゴリーを形成します。

ラカン本人は自閉症をスキゾフレニアと近縁のものとして捉えていた節があるようですが、上記のような歴史的経緯を踏まえ、現代ラカン派においては、もはや自閉症を精神病の一種とは考えません。

確かに自閉症者もスキゾフレニアも原初的象徴化に失敗している点では同様であり、いわゆる「排除」の範疇ということになるでしょう。このようにシニフィアンの水準のみから言えば自閉症とスキゾフレニアを切り離すことができません。しかし、享楽や対象 a の観点から言えば、決してこの限りではないということです。

まず、「疎外と分離」の図式において、自閉症者は「疎外の入り口」に位置付けられます。つまり、自体性愛的享楽に結びついた原初的言語である「ララング=S1」と、知的言語体系を織り成す「その他のシニフィアン=S2」の連携が切断されている状態にあるということです。

定型発達過程においてはS1にS2を付け加えていく作業がなされ、次第にララングとの折り合いがついていくわけですが、自閉症はS1のみを常同反復し自閉的な享楽を得ていると解釈される。いわば、自閉症者とは疎外の入り口に立ちつつも、疎外の領野に入ることを拒絶した、あるいはせざるを得なかった子供たちと言えるでしょう。

このように自閉症者は疎外においてS1とS2の連携が機能していないため、カナー型にせよアスペルガー型にせよ、その言語使用は自ずと「S1かS2か」の二者択一関係となる。アスペルガー型の自閉症者が定型発達者を凌駕するような豊富な語彙量を有する一方で、方言や比喩・皮肉が理解できなかったりする現象はかような点から了解され得ます。

また、自閉症とスキゾフレニアは享楽の回帰モードで区別されます。スキゾフレニアにおいては享楽が身体全域に回帰するのに対し、自閉症では享楽は身体の中でも「縁」の上に焦点化されている。

「緑」とは口や耳といった縁取り構造を持つ身体器官のことです。自閉症に見られる場面緘黙は「声」という対象 a を〈他者〉に手渡そうとせずに保持しておこうとする一種の防衛ともいえるでしょう。

すなわち、自閉症者にとっての「縁」は、安心できる既知の世界と、混沌とした外の世界を分割する境界線であり、外的世界へ関わるための起点でもあるということです。


自閉症は「個性」なのか

ところで、自閉症の遺伝子がいつまでたっても進化論的に淘汰されない理由として人類という種のニューロダイバーシティを確保するためという説があります。

つまり、自閉症者は想像力や共感能力に欠けるのではなく、定型発達者が「社会」に対して、自閉症者は「自然」に対して、それぞれ想像性・共感性が優れているという「質の違い」に過ぎないと言うわけです。

この説の真偽のほどは専門外なのでよくわかりません。ただ、これまで見てきたように精神分析的観点からは自閉症は最も「現実界」に近い存在であることは確かです。

けど、このような「特性」を「個性」と言って良いのか?というと躊躇を覚えます。自閉症は「障害」ではなく「個性」とラベリングすることで、今度はそれを活かしきれてないのは「自己責任」みたいなところに議論がスライドしやすくなってしまうからです。

思うに、自閉症という「特性」は、能力や社会的実績がある程度の「閾値」に達した時、初めて「個性」として花開くものだと思うんですよ。

例えば同じくらいの演奏レベルのプロのピアニストが2人いたとします。ひとりは「ただのピアニスト」、もう一人は「自閉症スペクトラムのピアニスト」。この場合、後者がある意味で「個性的」なのは確かでしょう。

けど、そこまでの「閾値」に達していない場合、自閉症からくる生きづらさはただただ、逆風そのものでしょう。ゆえに「自閉症は個性」などという一見するとポジティブな響きを持つ言葉の取り扱いにはゆめゆめ気をつけないといけないということです。「障害か個性か」などといったあまり生産性のないラベリングよりも、彼ら彼女らがいま何に困っているのか、そしてどのような支援を必要としているのか、結局そういった視点こそが本当に大事なことではないでしょうか。



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posted by かがみ at 21:37 | 心理療法

2017年07月28日

欲望とは〈他者〉の欲望である・エロマンガ先生・それは貴方だけの夢じゃない




ジャック=ラカンの示す有名なテーゼの一つに「欲望とは〈他者〉の欲望である」というものがあるわけです。

つまり、人の欲望というのは自然発生的に湧いてくるわけではなく、常に「〈他者〉からもらうもの」だということです。

例えば、なぜ皆がiPhoneの最新機種を欲しいと思うのでしょうか?それを皆が欲しがっているからでしょう。あるいはなぜ誰も路傍に打ち捨てられたゴミを欲しいと思わないのでしょうか?それを誰も欲しがっていないからでしょう。


「欲求不満」から「欲望」へ


では、なぜ「欲望とは〈他者〉の欲望」なのでしょうか?これは欲望の生成過程に深く関わる問題です。

ヒトの子供は、他のほとんどすべての動物と異なり、未熟な状態で誕生して自立まで長い期間を要します。寄る辺ない存在である子どもはその間の身の回りの世話を養育者である〈他者〉(多くは母親)に頼らざるを得ない。

子どもは母親に生理的な「欲求」を伝達するため、例えば「おぎゃあ」という「ことば」を発する。ここで「欲求」が〈ことば〉によって剪定され「要求」となった結果、この「要求」には「生理的な要求(ミルクがほしい)」と「愛の要求(あなたが側にいてほしい)」という二重の意味が含意されることになる。

母親が常に子どもの側にいれば両方の要求は満たされますが、母親も別に四六時中、子どものそばにいるわけでもなく「現前-不在」を繰り返しているわけです。従って二つの要求は両方とも拒絶されることがあれば、どちらかだけが満たされることもあるでしょう。

そこで二つの要求の間には一つの裂け目が生じることになり、子どもはよくわからない不快と不安に満ちたイライラを感じることになる。これを「欲求不満」という。

子どもは当然このイライラをなんとかして解消しようと母子一体の回復を目指すことになります。これをラカン的に言うと「子どもは母親の想像的ファルスになろうとする」ということです。

しかし実際問題、どうやっても母親の現前不在は終わらないわけです。そこで子どもは必然的に自分と母親以外の第三者の存在を帰結する。つまり母親は持ってないものがあり、それがほしいから、「それ」を持っている何者かのところに行くので不在になるという論理です。

この第三者の機能を担う存在を便宜上「父親」と呼びます。そして父親の持つ「それ」こそが、母親の現前不在を「欲望」として象徴的に名付ける「欲望の名前」であり、これをラカン的に言うと「象徴的ファルス」といいます。

こうして子どもは決して想像的ファルスになれない事実に直面する。つまりこのよくわからないイライラがこれから先もずっと続くということです。

この現実をどうにか受け入れるために想像的ファルスが無理なら、せめて母親を欲望させる象徴的ファルスをいつか自分も手に入れようと自分も「欲望」するしかない。つまり「これ(欲求不満)はこういうこと(欲望)なんだ」という理解を強制的に強いられるわけです。

このように子どもは「母親の欲望」を発見することで、自らの「欲求不満」を「欲望」に変換することができるわけです。従って「欲望とは〈他者〉の欲望である」ということです。

いちいち難解奇怪な理論でおなじみのラカンですが、その治療方針は普通にシンプルでして、ひとまず目指すのはクライエントの「欲望の活性化(弁証法化)」にあります。


なぜマサムネは沙霧ちゃんを「エロマンガ先生」と呼ぶのか?



「なあ、沙霧・・・俺にも夢ができたぞ。すっげえビッグな夢。俺はこの原稿を本にする。このままじゃあ話にならないから、練り直して企画書を書いて、担当編集に認めさせて、そんなところからだけど・・・でも、必ず本にするよ。たくさんの人を面白がらせて、主人公やヒロインを好きになってもらって、バンバン人気が出て、楽勝で自立できるくらい、お金も稼いで、そんでもってアニメ化だ!・・・こんなんは前準備だ!うちのリビングに大きな液晶テレビを買って、バカ高いスピーカーも用意して、豪華なケーキにロウソク立ててさ、お前を部屋から連れ出して、2人でアニメを観るんだ!俺が原作でお前がイラストを描いた、俺たちのアニメだ!そうしたら、きっとスッゲー楽しいと思うんだよ!悲しいことなんて吹っ飛んじまうかもしんねえぜ!?それが俺の夢だ!絶対に叶える目標だ!!どうだ!?スッゲーだろ!?」

「貴方は昔からそうだね。和泉先生・・・いつもオレに夢をくれる。いいぜ、和泉先生。やってやろうじゃん!そんな面白そうなこと、一人でやらせてたまるかよ!それは貴方だけの夢じゃない。オレたち2人の夢にしよう!」

(エロマンガ先生第4話)



エロマンガ先生(アニメ公式)

沙霧ちゃんはDSM的に言えばおそらく社交性不安障害の診断基準に該当すると思われますが、「引きこもり」のケースというのは、ラカン的な視点で言えば、欲望が停滞・固着している状態に他なりません。精神科医の斎藤環氏が言うように、引きこもり本人に欲望を持ってほしいのであれば、家族が率先して〈他者〉として欲望を表明することが大事になってくるわけです。

義兄であるマサムネは沙霧ちゃんのことを時折、エロマンガ先生と呼ぶことで、作家とイラストレーターという社会的な〈他者〉性を強調し、愛憎渦巻くドロドロの想像的関係に転落することを防ぐ一方で、沙霧ちゃんの「妹」ではなく「女の子」としてみてほしいという「要求」に対して「ラノベ主人公」的態度で沙霧ちゃんを常に「欲求不満」の状態で宙吊りにする。

そして、その裂け目のなかに「世界一の妹ラノベを書いて、そのアニメを妹と家の居間で見る」などという強烈な「〈他者〉の欲望」を投入することで、沙霧ちゃんのなかにも「私もそれが欲しい」という「欲望」を生み出し、これが治療的な方向にも作用している。上記のマサムネと沙霧ちゃんの台詞は「欲望とは〈他者〉の欲望」の適切な範例といえるでしょう。



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posted by かがみ at 04:19 | 心理療法