*戦後民主主義から敗戦後論へ
「戦後民主主義」といういまや色褪せたかに見える「大きな物語」があります。ここでいう「戦後民主主義」という言葉は論者や文脈によって様々な意味を帯びる言葉ですが、その最大公約数的な意味を取り出せば差し当たり日本国憲法の掲げる基本的人権の尊重や法の下の平等、そして戦争放棄による平和主義といった理念に基づく制度や価値を示す概念であるといえます。
この戦後民主主義の根底には多大な犠牲者を出した先の戦争体験がありました。そのため現実の国際政治から乖離していると批判されがちな戦争放棄の主張も少なくともある時期までは日本が世界に先駆けた理想の姿と捉えられ、知識人、マスメディア、教育現場を通して多くの人々を魅了したことは確かです。
その一方で戦後民主主義は占領期の「押し付け憲法」がもたらした「上からの民主化」という側面があることもまた否定し難い事実であり、それゆえに戦後民主主義に対する反発は1950年代以降、たびたび憲法改正論、自主憲法制定論という形で噴出することになり、やがて「戦後民主主義」という言葉自体が否定的に意味合いで用いられるようになります。こうしたなか、戦後50年目を迎えた1995年に文芸評論家の加藤典洋氏が発表した「敗戦後論」はこの戦後民主主義の起源にある「ねじれ」を論じ、大きな論争を巻き起こしました。
加藤氏はこの論考の冒頭に次のような個人的なエピソードを置いています。氏が小学生の2年生くらいの頃、学校の遠足の途中で別の学校の集団と出くわし、両校から代表者が出て相撲を取ることになります。氏の学校の代表が土俵際に追い詰められた時、偶然にも足が相手の腹にかかり、それがあたかも「巴投げ」を仕掛けたかのような様相を呈します。その時、氏の学校の生徒が一斉に拍手をして囃し立て、ここで一瞬のうちに「相撲」は「柔道」へ変わります。氏は「その時の後ろめたさを忘れない」といい、1945年の敗戦時に起きたこともやはり「あれだ」と述べます。
「敗戦後論」の出発点にあるのは日本は先の戦争中にアジア諸国に対して行ったさまざまな侵略行為の責任をとっていないという問題提起です。その原因につき氏は戦後日本における「ねじれ」の問題にあるといい「戦後とは何か。それはすべてのものがあべこべになった、『さかさまの世界』である。そして、それが誰の眼にも「さかさま」には見えなくなった頃から、わたし達はそれを「戦後」と呼び始めている」といいます。
「戦後」が「さかさまの時代」であるとは、かつて自分を動かした「理」または「義」が「じつは唾棄すべきもの、非理であり不義である」と認めざるを得ない「ねじれ」が「生の条件」であるということです。そして「火事の中、地面に倒れた、と、誰かが自分の上に覆いかぶさり、気がついたら、その人は灰となり、すでに火は消え、自分はその灰に守られ、生きていた」とき「自分の真っ先にすべきことが、自分を守って死んだその人を否定することであるとしたら、そういうねじれの生の中に、そもそも「正解」があるだろうか」と氏は述べます。
ところが氏によれば戦後日本においてはこうした「ねじれ」が「ねじれ」としてすら受け止められておらず「その結果、わたし達は、このねじれについて考えようとすれば、まず、その「ねじれ」を指摘することから、はじめなくてはいけない」ことになります。そしてこの「ねじれ」の一つの証左としてまず氏が取り上げるのが現行憲法をめぐる「ねじれ」です。
* 憲法をめぐる「ねじれ」
周知のように現行憲法の第9条はその第1項において「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と謳い、その第2項において「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」と規定します。しかし加藤氏は現行憲法自体が連合軍総司令部の発意により作成され、まさに「武力による威嚇」のもとで「押し付けられた」という「憲法の手にされ方と、その内容の間の矛盾、自家撞着」からくる「ねじれ」を指摘した上で、さらにその「ねじれ」の中にある「押し付けられた」という「汚れ」が戦後において直視されず、抑圧されてしまっているといいます。
そして、このような「二重になった」現行憲法をめぐる「ねじれ」を白日に曝し「ねじれているが、よいものだ」という形にしない限り「わたし達は、最初からこの平和憲法を実質的には自分で欲したのだと考えるか。最初からこの平和憲法を欲していないし、いまも欲していないのだと考えるしか無くなる」と「わたし達は自分をいつわるしかなくなる」と氏は述べます。
もちろん「事実を見れば」戦後においてはこの「押し付けられた平和憲法」を「ともかくもかろうじて自力で保持してきた」のであり、今では「案外使えるものじゃないか」というような「自前の評価」を持つまでに「自分ふうに、根付かせてきている」といえますが、その結果、確かに憲法を自分で作ったのでないけれど、その過程は重要ではなく「実質が大切なのだ」と考えるようになった「憲法を憲法として尊重しない、不思議な立憲国国民」が生まれます。以上から加藤氏は問題を次のように定式化します。
わたし達はこの平和憲法保持は、この「強制」の事実に眼をつむることによって完遂された。わたし達はこれを擁護し、また否定しようとしてきたが、そのいずれも現実を直視したものではなかった。現実はどうだったか。わたし達は「強制」された。しかし、わたし達は根こそぎ一度、説得され、このほうがいい、と思ったのである。とすれば方法は一つしかない、強制されたものを、いま、自発的に、もう一度、「選び直す」というのがその方法である。
現行憲法をめぐる従来の主張として、一方では護憲論者による平和憲法は当時の旧体質の日本政府にこそ「押し付け」られたけれど、民主的改革を望んでいた日本人民には熱烈に支持されたという実質的憲法「かちとり」説、平和条項は戦争の死者の犠牲によって日本国民に与えられたいわば贈り物なのだという憲法形見説、あるいは押し付けられたのは事実だけれど、以後、実質的に日本国民によって長きにわたって保持されることで、この初発の「汚れ」は消えているという押しつけ消化説といった主張と、他方では改憲論者によるこの押し付けられた亡国的な憲法に代わり自主憲法を制定せよという主張が挙げられます。
しかし従来の憲法論は護憲論にせよ改憲論にせよ、加藤氏によれば「彼らは、そういう主張を行うにはすでに自分が汚れているという自覚をもたない点」で共通しており「この二つは、戦後日本に汚れのない無垢を起点とする主張が可能だと、無意識のうちに想定している点」で「対立者であるというより、むしろ双生児的存在」であるとされます。こうしたことから氏は現行憲法をめぐる「ねじれ」に立脚した上で「この憲法の精神を尊重するがゆえに、この憲法をもう一度「選び直す」べき」であると主張し、こうしたあり方こそが「敗戦国の国民」に求められる「勇気ある態度」ではないかと述べます。
* 戦後社会におけるジキル氏とハイド氏
ここから加藤氏は敗戦直後の「初発の現場」において美濃部達吉、津田左右吉、中野重治、太宰治といった知識人、文人が持っていた「ねじれ」の感覚を論じた後、この「最初の数年」が終わる1948年あたりから「戦後」が始まっているとして、この敗戦後ならぬ「戦後」の本質とは日本社会が「いわば人格的に二つに分裂していることにある」といいます。どういうことでしょうか?
端的にいえば「戦後」の日本社会において改憲派と護憲派、保守と革新という対立をささえているのはいわばジキル氏とハイド氏といったそれぞれ分裂した人格の片割れの表現態に他ならないということです。その時事的な例として加藤氏は当時、3人の閣僚が過去の戦争は侵略戦争ではないといった類の失言がもとで大臣の座を去ったいう出来事をあげ、これらの失言は自分の揺るぎない信念として述べたものではなく、その歴史認識を問われるとすぐに平身低頭して前言撤回するという「憐れむべきていたらく」であったとしつつ、このような事象が反復する背景として精神分析学者、岸田秀氏の次のような分析を援用します。
岸田氏によれば1993年8月、自民党支配の終わった細川政権成立後に生じたこれらの「日本は正しい」とする発言というのは、実は先の戦争をこれまでにない明確さで侵略戦争であると認め「日本は間違っていた」とする細川発言と「セットになっている」ということです。つまり「細川発言があったからこそ、これらの発言が現れた」と考えるべきであるということです。
こうした岸田氏の理解は人間を本能の壊れた幻想的存在と見た上で、そのような幻想的存在として一つの社会をも見ていくという唯幻論と呼ばれる立場によるものですが、それによれば日本社会は近代の開国以来、いわば人格分裂として生きており、日本はペリーの砲艦外交で一挙に開国させられ「自分の軍事的無力さ」「近代西洋文明との落差」を思い知らされることで以後、人格の統一を失い、外向きの自己(外的自己)と内向きの自己(内的自己)に分裂したということです。つまり今回の閣僚発言はその分裂から現れた「内的自己の爆発」だというのが岸田氏の解釈です。
そして加藤氏はこうした岸田氏の考えは「戦後」を考えるにあたり「かなり有効な考え方の糸口」を提供しているのではないかといいます。すなわち、この日本社会における「人格分裂」とは敗戦がもたらしたあの「ねじれ」を「意識下に押し込め、見えなくした、その深い自己欺瞞の結果」として現れた現象であるということです。つまり閣僚発言が「内的自己」の爆発だったとすれば、それに先立つ細川発言は「外的自己」の表現であり、この両者が「セットになっている」とは、ここで「内的自己」と「外的自己」が均衡を取ろうとしているということです。
そして、このような分裂はさまざまな相を持っており、改憲による自主憲法制定論と護憲による平和原則堅持論の対立もその一つの典型的な現れに他なりません。しかし加藤氏によれば両者は「どこか精神の双生児を思わせる、潔白な信念への信従」という点で共通していると同時に、両者共に欠落しているのも、やはりあの「ねじれ」の感覚であり、さらにもう一歩、踏み込んで言えば対立者を含む形で自分達を代表しようとする発想が欠けているということです。ではこのような外的自己と内的自己の分裂、ジキル氏とハイド氏の分裂はどのようにすれば克服できるのでしょうか?
* 死者をめぐる「ねじれ」
ここで加藤氏は両者の「対立の様相を最もよく示す」ものとして「死者との関係」を挙げます。氏によれば「いったん、死者との関係に眼を向けるなら、先の戦争に敗れ、いまわたし達が生きているのがねじれた世界であることの意味が、もう少し違った意味で、誰の眼にもはっきりする」ということです。
史実として第二次世界大戦とは「日本人にとってはじめての国家規模の回復不可能なまでの敗北に終わった戦争」でしたが、それ以上にこの戦争は単に「負けいくさに終わった戦争」というだけではなく「道義的にも「正義」のない悪い戦争」だったことが「これまでにない新しい意味をもっている」と氏はいいます。すなわち「これまでの戦争の死者といえば、どのようないくさの場合でも、わたし達は死者を厚く弔うのを常としてきた」はずですが「第二次世界大戦は、残された者にとってそこで自国の死者が無意味な死者となるほかない、はじめての戦争を意味していた」ということです。
その結果「戦後日本の外向きの正史」は「日本の侵略戦争を公式に認め」て「日本がまず謝罪すべき死者として二千万のアジアの死者をあげ」る一方で「三百万の自国の死者、特に兵士として逝った死者たちへの自分たちの哀悼が、この謝罪とどのような関係におかれるかを、明示すること」なく「侵略された国々の人民にとって悪辣な侵略者にほかならないこの自国の死者を、この正史は”見殺し”にする」ことになります。
しかしそれゆえに「この打ち捨てられた侵略者である死者を”引き取り”、その死者とともに侵略者の烙印を国際社会の中で受けることが、じつは、一個の人格として、国際社会で侵略戦争の担い手たる責任を引きうけることの第一歩だとは、このジキル氏の頭は、働かないのであ」り「ここで三百万の自国の死者はいわば日陰者の位置におかれる」ことになり「あの靖国問題は、このことの正確な陰画、この「空白」を埋めるべく三百万の自国の死者を「清い」存在(英霊)として弔おうとする内向きの自己、ハイド氏の企てなのである」と加藤氏はいいます。
こうしたことから「ここに欠けているのは、これらの平和主義者、また靖国神社法案推進者双方に共通する、戦争を通過していまわたし達がここにいるという、敗戦者の自覚、「戦争通過者」の自覚」であるとして、氏はこうした死者をめぐる「ねじれ」の問題につき次のように述べます。
悪い戦争にかりだされて死んだ死者を、無意味のまま、深く哀悼するとはどういうことか。
そしてその自国の死者への深い哀悼が、たとえばわたし達を二千万のアジアの死者の前に立たせる。
そのようなあり方がはたして可能なのか。
ここではっきりしていることは、ここでも、この死者とわたし達の間の「ねじれ」の関係を生ききることがわたし達に不可能なら、あの敗戦者としてのわたし達の人格分裂は最終的に克服されないということだ。
ここにいわれているのは、一言にいえば、日本の三百万の死者を悼むことを先に置いて、その哀悼をつうじてアジアの二千万の死者の哀悼、死者への謝罪にいたる道は可能か、ということだ。
*「ねじれ」の核心点としての被害者意識
加藤氏の「敗戦後論」が世に出た1995年という年は戦後50年という区切りの年であり、東西冷戦も終わり、湾岸戦争を経て全く新しい世界秩序が模索されていた時期でした。このような状況の中で日本の外交はアジア諸国と新たな関係を構築する必要を迫られており、そのためには先の戦争について踏み込んだ謝罪が必要だという機運が高まっていました。
同年8月15日、当時の首相であった村山富市氏がいわゆる「村山談話」を発表し、かなり踏み込んだ表現での謝罪がなされています。しかしながら、これに先立って加藤氏が「敗戦後論」で示したものとは、いくら日本がかたちだけの謝罪をしてみせてもそれは謝罪にならず、いまだ日本は謝罪が可能になる地点に至っていないという認識でした。
ここから加藤氏は先述のように事実上、こうした「ねじれ」を克服すべく、まず日本は自国の三百万人の死者を哀悼すべきであり、それによって初めて、彼らを含めた謝罪の主体としての「わたし達日本国民」が成立し、アジアの死者二千万人への謝罪と哀悼も可能になるといった趣旨の主張をすることになります。
周知のように「敗戦後論」が発表された後、加藤氏は激しい批判を浴びることになります。特に加藤氏に対して最も激しい批判を行ったのが哲学者の高橋哲哉氏です。加藤氏と高橋氏の間の応酬はのちに「歴史主体論争」と呼ばれることになります。高橋氏が「汚辱の記憶をめぐって」と題する「敗戦後論」を批判した戦争責任論における「汚辱の記憶を保持し、それに恥じ入り続けるということは、あの戦争が「侵略戦争」だったという判断から帰結するすべての責任を忘却しないということを、つねに今の課題として意識し続けるということである」という一節はよく知られています。
これに対して國分功一郎氏は近著『天皇への敗北』(2026)で「敗戦後論」を取り上げ、同論考にまた異なる角度から光を当てる議論を展開しています。同書において國分氏はこの高橋氏の批判が妥当であることは認めつつも、記憶が保持されていたとしてもそれに「恥じ入る」ことができない場合があることを指摘します。責任が忘却されないよう事実を突きつけても一向に責任感が生まれない場合があるということです。
人は罰されたからといって必ずしも自分が悪かったとは思うとは限りません。そして加藤氏は「敗戦後論」の「最良の部分」において、そのような問題提起をしていたと國分氏は述べています。どういうことでしょうか?
この点、國分氏は加藤氏が死者をめぐる「ねじれ」において「決して日本が行った侵略戦争の責任を否定するわけではないが、やはりまずは自国の死者を追悼すべきだし、追悼したい」という日本国民の一部にあるであろう「国民的な欲望」とでも呼ぶべき問題に触れているにもかかわらず「それをそのようには語らなかった」として、こうした「国民的な欲望」が表現しているのは「自分たちはむしろ被害者だ」という「被害者意識」に他ならないと指摘します。
この「被害者意識」を温存したままでは日本は戦争について責任を取ることはできないし、謝罪する地点に到達することもできない。したがって加害者としての日本は自らの被害者意識を直視しなければならない。けれども日本はまるで「戦争によって生まれ変わったかのような顔」をしてきた。本当は自分たちが被害者だと思っているのに、それに目を向けようとしない自己欺瞞。これこそが加藤氏のいう「ねじれ」の意識の欠如です。
ところが加藤氏は「それに接近しつつも、誰を先に哀悼すべきかという問題」に向かってしまいます。日本の戦争責任を問うことにおいて最も大切なことは「日本が二度と戦争や侵略行為を起こさないようにすること、日本に再犯させないこと」であり「ねじれ」の指摘はあくまで「加害者たる日本が自らの加害に向き合えない原因として指摘される限りにおいて意味がある」のですが、加藤氏の議論においてはこの「日本に再犯させないという点が忘れられている」ということです。
当然ながらここには「なんで加害者についてそんなことまで考えてあげなければならないのか」という自然な反発が予想されるでしょう。しかし、こうした反応を繰り返してきたことで「むしろ日本国民の被害者意識は温存されてしまった」ともいえるでしょう。
「平和憲法」によって自分たちは生まれ変わったのだという顔をしてながら「それを堅持することが我々の反省の証しである」と自分たちに言い聞かせることはある意味では「楽なこと」ではあります。なぜならば敗戦を経た日本は本当は何も変わっていないのに、米国による占領によって与えられた価値観に便乗することで「自分たちは変わったのだ」「自分たちは反省している」と信じることができるからです。これこそ加藤氏が「ねじれ」という言葉を通じて言いたかったことの核心ではないか、と國分氏は述べています。
* 昭和の憲法学者・昭和の文人・昭和の生活者
ここから國分氏は「ねじれ」を生きた「昭和の憲法学者」と「昭和の文人」として、加藤氏も取り上げている美濃部達吉と中野重治を論じています。美濃部は帝国憲法改正の手続きに見逃せない「ねじれ」があることを指摘し、あるべき憲法の第1条は「日本帝国ハ聯合国ノ指揮ヲ受ケテ 天皇之ヲ統治ス」であると述べています。中野は共産主義からの「転向」という「ねじれ」を自覚しながらも、これまでの過去を捨て去ることなく、転向後に発表した小説「村の家」における「よくわかりますが、やはり書いて行きたいと思います」という言葉に集約される「一身にして二生を経るが如」き道を選びます。
こうしてみると「ねじれ」に対する責任の取り方としてはさまざまなものがあることがわかります。ここでは自身の「ねじれ」に向き合った上で、極めて独特なやり方でその責任を取ろうとした、いわば「昭和の生活者」の例として花森安治を取り上げてみようと思います。
『暮しの手帖』の初代編集長である花森安治は戦時中、大政翼賛会の宣伝部に所属していたことでも知られています。敗戦後、失職した花森は生活のため旧友の伝で『日本読書新聞』でカット描きの仕事をしていたところ、当時、同紙の編集者であり後に花森とともに「暮しの手帖社」を立ち上げることになる大橋鎭子から「女の人たちのための出版をやりたい」と相談を受けます。その時、花森は大橋に次のような言葉で答えたとされています。
今度の戦争に、女の人は責任がない。それなのに、ひどい目にあった。ぼくには責任がある。女の人がしあわせで、みんなにあったかい家庭があれば、戦争は起きなかったと思う。だから、君の仕事にぼくは協力しよう。
「『暮しの手帖』と半世紀」
もしも花森が実際にそう述べたのだとしたら、ここで彼のいう「責任」とはおそらく、戦時中に彼が行ったとされる一連の仕事と無関係ではないでしょう。大政翼賛会宣伝部員としての花森は「あの旗を射て」「欲しがりません勝つまでは」「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」などといった一連の戦意昂揚スローガンを作った人物として語られる傾向があります。もっとも実際には「あの旗を射て」は1942年に広告人集団「報道技術研究会」が花森の注文を受けて作ったものでしたし、また「欲しがりません勝つまでは」や「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」も同年、大政翼賛会が主催する「国民決意の標語」への応募作から花森が選んだものです。
このことについて花森は明確には語っていません。しかし花森は仕事とはいえ、こうした標語を依頼したり選んだりすることで戦争に協力してしまった自身の過ちを明確に自覚していたのではないでしょうか。実際、花森はこの時の心情を後年、次のように語っています。
ボクは、たしかに戦争犯罪を犯した。言訳をさせてもらうなら、当時は何も知らなかった、だまされた。しかしそんなことで免罪されるとは思わない。これからは絶対にだまされない、だまされない人たちをふやしていく。その決意と使命感に免じて、過去の罪はせめて執行猶予にしてもらっている、と思っている。
1971年『週刊朝日』
花森と大橋が創刊した『美しい暮しの手帖』はやがて『暮しの手帖』とタイトルを変え、他誌とは一線を画する独自の誌面作りによって一時期、その発行部数は百万部を超え「新しい国民雑誌」と呼ばれるほどの影響力を持つに至ります。
同誌の名物企画に1954年から始まった商品テストがあります。これは日用品や生活家電を独自にテストし、生活者の視点から長所と短所を論評して企業に改善を求めるという企画です。この商品テストは高度成長期における日本の工業製品の品質改善のきっかけになったとも言われています。
花森は権威を監視し採点する機能がない社会は不健全な社会だと考え、商品批評によって大企業をチェックし続けようとしました。彼の掲げた「一人ひとりが自分の暮しを大切にすることを通じて、戦争のない平和な世の中に」という理念と「暮しの変革を理念よりも日常生活の実践を通して」という方針に貫かれた『暮しの手帖』はただのライフスタイル誌ではなく、反商業主義、生活者本位、平和主義、反戦・反差別、中立といった立場を旗幟鮮明に打ち出した非常に尖った雑誌であったといえます。
こうして花森は1978年(昭和53年)に66歳で急死するまで『暮しの手帖』というただ一つの砦に編集長として立て篭もり続けます。毎号、多くの記事やキャッチコピーを書くのはもちろん、イラスト、描き文字、レイアウト、写真撮影、新聞広告や電車の吊り広告まで、そうしたすべてを花森は自分ひとりで、決して他人にはマネのできないクセの強い仕方でやってのけます。こうした一連の仕事は花森自身の「過去の罪」に対する彼なりの「責任」の取り方だったのかもしれません。
こうした花森の生き方は個人が自身のうちに抱える「ねじれ」にいかに向き合うのかという問題に対する地に足のついたかたちで示された一つの回答でもあるといえるでしょう。そして、このような花森の生き方はいまや色褪せたかに見える戦後民主主義という物語をあの敗戦によって生じた「ねじれ」から読み直すための大きな手掛かりを示しているといえるでしょう。