【参考リンク】 ラカン派精神分析の基本用語集

2019年11月29日

抑圧無意識とアメンチア無意識



* 心身症とヒステリー

「こころ」の問題が「からだ」の症状として現れる病理といえば、今日ではまず「心身症」と呼ばれるカテゴリーが想起されるでしょう。

1991年、日本心身医学会によって心身症は「その発症や経過に心理社会的な因子が密接に関係し、器質的ないし機能的障害が認められる病態を指す。ただし、神経症やうつ病などの精神障害に伴う身体症状は除外する」として定義され、1996年、厚生省(当時)によって心身症を専門とする「心療内科」が標榜科として認められました。

心身症は人によって様々な症状が見られますが、一般的によくみられるのは頭痛、胃痛、下痢、便秘、吐き気などです。その中でも特定の身体症状が顕著な場合は「緊張性頭痛」「片頭痛」「急性胃潰瘍」「慢性胃炎」「過敏性腸炎」などの診断名が付きます。

ところで、かつてこうした「こころ」の問題が「からだ」の症状として現れる病理の代名詞といえば「ヒステリー」でした。ヒステリーは古代より長らく謎の奇病とされていましたが、周知の通り19世紀末に精神分析の始祖であるジークムント・フロイトによってその治療法がひとまず確立されることになります。

しかしながらその後、ヒステリーは急速に往時の勢いを失ってしまい、アメリカ精神医学会が1980年に発行した「精神疾患の診断・統計マニュアル第3版(DSM-V)」においてヒステリーは診断カテゴリ一覧から削除されます。

こうした「心身症の前景化」と「ヒステリーの衰退」という変化は如何に理解されるべきなのでしょうか?そこには何らかの「こころ」の問題の変容があるのでしょうか?


* 生物学的身体とエロース的身体

この点、フランスの精神科医、クリストフ・ドゥジュールは「リビドー転覆」の理論によって神経症と心身症を切り分けます。

まず、ドゥジュールによれば人は「生物学的身体」と「エロース的身体」という二つの身体を生きているといいます。

「生物学的身体」とは人体を構成する臓器や神経系統の物理的総和としての身体であり、これに対して、「エロース的身体」とはセクシュアリティと密接に関連した、あらゆる主観的・心理的経験の舞台となる身体です。

ドゥジュールは、心身医学・生物学および精神分析の比較研究を踏まえ「生物学的身体」と「エロース的身体」は同じ肉体に宿りながらも異質な身体であるといいます。


* 寄りかかり理論

そして、ドゥジュールは「エロース的身体」は「生物学的身体」に寄りかかって発達してくるといいます。

ここでドゥジュールが参照するのはフロイトの欲動論です。周知の通りフロイトは人間に内在する根源的衝迫を「欲動」であると規定します。もっともフロイトの欲動論は時期によって様々に遷移していきますが、ある時期のフロイトは「欲動」を「自我欲動(自己保存欲動)」と「性欲動(リビドー)」として把握しています。

「自我欲動(自己保存欲動)」は、飢え、乾き、排泄、睡眠といった、人体の生命維持に関わるものです。我々が通常「生理的欲求」と呼んでいるものはこちらに属します。これに対して「性欲動(リビドー)」は人のセクシュアリティ形成に関係するものです。

そしてフロイトによれば生命維持に関わる自我欲動は生の初めから活動を開始するのに対して、性欲動はこの自我欲動に「寄りかかり」ながら遅れて発達してくるということです(寄りかかり理論)。

例えば口唇欲動(唇、口腔、咽喉を中心とした領域の快=満足を求める欲動)であれば、もともと母乳を吸飲するという行為(空腹という生理的欲求を満たすための行為)の中で芽生え、徐々に自己目的化して、最終的に自律性を獲得する。

こうした「寄りかかり」は口唇以外の−−肛門、尿道、目、耳、皮膚といった−−あらゆる身体器官におよび、それぞれの身体器官の機能に「リビドー化(性欲動による属領化)」がもたらされることになります。


* リビドー的転覆

このフロイトの自我欲動と性欲動の関係は、ドゥジュールのいう生物学的身体とエロース的身体に対応します。

すなわちエロース的身体は生物学的身体に寄りかかって発達した後、やがて生物学的身体を乗っ取ってしまうということです。

これをドゥジュールは「リビドー的転覆」といいます。こうして「リビドー転覆」によりエロース的身体が生じる。そして神経症とはこのエロース的身体の上で形成される病理ということです。


* 症例ドーラ

神経症における症状形成のメカニズムは「リビドーの固着と退行」です。

フロイトによれば、口唇期→肛門期→男根期と進んだ性欲動(リビドー)の発達は、その後、潜在期を経て思春期(第二次性徴)の訪れとともに再び活性化されて性器段階に達する一方、過去の各段階に一定量の「固着」を残すことになる。

こうした固着が強いとリビドー備給が阻害された時(例えば、意中の人にフラれた時)、このリビドーは過去の固着点へ「退行」し、そこで症状が形成される。この場合、症状は失われた愛の代理物(象徴)としての役割を果たしているわけです。

こうした神経症の古典的症例として有名なのがフロイト5大症例の1つに数えられる「症例ドーラ」です。

フロイトの分析によれば、彼女が繰り返していた神経症性の咳は、性的不能者であった父親が愛人との間で行なっていたクンニリングスの空想に結びついている、ということになります(ヒステリーにおいては一般に口唇期の固着が支配的であるため、口唇領域に症状が現れることが多いと言われます)。

このような手の込んだ症状は咽頭の機能が十分にリビドー化されているからこそ表現可能なものといえます。


* 抑圧における隠喩構造

こうしたエロース的身体の成立は「抑圧」と呼ばれる心的メカニズムによって説明できます。

この点、フランスの精神分析医、ジャック・ラカンは周知の通り「抑圧」を「隠喩」の構造として捉えます。

ラカンの提出した有名なテーゼに「無意識とは言語のように構造化されている」というものがあります。一種の言語構造の場としての無意識において様々な表象(シニフィアン)の結合は「隠喩」と「換喩」という二つの効果として現れます。

ここでいう「換喩」とは、例えば「船」を「帆」で表すように、あるシニフィアンから、関連する他のシニフィアンへの置き換えをいいます。これは単なる横滑りであり新たな意味を創造しているわけではない。

これに対して「隠喩」とは、例えば「ボアズ」を「麦束」で表すように、あるシニフィアンを、全く関連のない他のシニフィアンへの置き換えをいいます。

「船」と「帆」と異なり「ボアズ」と「麦束」の間に換喩的な結びつきはありません。しかしこの時「ボアズ」は「麦束」の中に保存され、これが新たな意味作用の創造へと結びつきます。

「作詩や創作にみられる意味作用の効果が生じてくるのは、別の言葉で言えば、問題となっている意味作用の出現の効果が生じてくるのは、記号表現と記号表現の置き換えによっていることを示しています。」

(ジャック・ラカン「無意識における文字の審級」−−「エクリ」516頁)


つまり、エロース的身体において生み出される各種の神経症の症状とは、一面において無意識に保存された欲望の隠喩に他ならないという事です。


* リビドー的転覆の停止と心身症

問題は「リビドー的転覆」のプロセスが何らかの事情で停止し、エロース的身体の形成が不十分な場合です。この場合「リビドー的転覆」が及んでいない身体機能は未開発の領域として取り残されることになります。

こうした身体を持つ主体が、なんらかの精神的負荷を負った時、エロース的身体の代わりに当該負荷の受け皿となる生物学的身体は端的な失調状態に陥ります。

ここで現れるのが頭痛、胃痛、下痢、便秘、吐き気といった「身体化」と呼ばれる各種症状です。

これらの症状は神経症のそれのように欲望の隠喩を担っているわけではなく、そこに読み取るべき無意識の詩学は存在しない。生物学的身体にかかる精神的負荷は端的な身体症状として「ダダ漏れ」している事になります。

ヒステリーが比較的込み入った症状を伴うのに対して、心身症がどちらかといえば単純な症状である点は、こうした受け皿となる身体の差異に起因するということです。


* アメンチア無意識

もっとも心身症の場合にもある種の無意識は関与しています。この点、ドゥジュールは「身体化」に関わる無意識を「アメンチア無意識(inconscient amentiel)」と呼び、「抑圧されたものの場」という意味での従来のフロイト的無意識と区別します(「アメンチア」とはラテン語でいう「a-mens(精神を欠いた)」という意に由来)。

この点、ドゥジュールの理論を紹介する立木康介氏は従来のフロイト的無意識を「抑圧無意識」と言います。この「抑圧無意識」には主体がその身体(エロース的身体)によって受け止めた様々な記憶や表象が保存され、主体はそれらを用いて思考したり行動したりするわけですが、これに対して「アメンチア無意識」には、条件反射の学習による思考しか存在しない。「アメンチア無意識」はドゥジュールの言うところの「思考なき無意識」です。

もとよりこうした「抑圧無意識」と「アメンチア無意識」は立木氏によれば、いかなる主体においてもつねに並存しているとされます。ただ「リビドー的転覆」が達成された度合いに応じて「アメンチア無意識」の相対的割合が小さくなったり大きくなったりするということです。


* 心身症化した社会

このように「リビドー転覆」の理論からすれば、神経症とは「エロース的身体」の上で形成される病理であり、これに対して、心身症とは「生物学的身体」の上で生じる病理ということになります。

すなわち、今日における「心身症の前景化」と「ヒステリーの衰退」というパラダイムシフトが示しているのは、端的に言えば「抑圧の衰退」ということになります。

こうした「抑圧の衰退」はいわゆる現代ラカン派でいうところの「象徴界の衰退」や「享楽社会」といった文脈の中で捉えることができます。

すなわち、現代はいわば心身症化した社会とも言えるでしょう。実際にドゥジュールは抑圧の衰退とエロース的身体の凋落による「身体化」の別ヴァージョンとして、暴力などの反社会的な「行為化」、あるいはいくつかのタイプの倒錯傾向を位置付けています。

こうして見ると、原理主義者によるテロリズムや「無敵の人」による無差別殺人など、資本主義システムの反作用として出現する現代の「悪」も、どこか心身症的なところがあるのではないでしょうか。

世界中がグローバリズムとネットワークによって常時接続された今、ヒトやモノやカネの流動化と情報化は日々加速し、そこで不可避的に生じる矛盾や衝突は「システムのコスト」としてどんどん社会的弱者へと転嫁されていく。

そこで生じるのは様々な「生きづらさ」であり、こうした「生きづらさ」という負荷はエロース的身体によって隠喩化される事なく、生物学的身体からただただ単純な「暴力」として「ダダ漏れ」する。あるいはこれが現代の「悪」の病理なのではないかとも思うわけです。

いまや抑圧を行う超越的審級は完全に衰退し、代わりに世界を覆うのは享楽をばらまくシステムに他ならない。現代の社会構造をこのように捉えるのであれば、いま必要とされるのは、こうしたシステムから生じる不可避のコストを一点に収束させることなく、いかに緩やかに拡散させていくかという戦略と物語なのでしょう。


参考文献:『露出せよ、と現代文明はいう(立木康介)』103頁以下−−「コンテンツなき身体、思考なき無意識」





posted by かがみ at 21:31 | 心理療法

2019年10月29日

承認・まなざし・コミュニケーション



* 「キャラ化」する子どもたち

精神科医、斎藤環氏は「承認をめぐる病」という著書において、現代の、とりわけ思春期におけるコミュニケーションの本質には「キャラとして承認されること」があると述べています。

「キャラ」とは、例えばクラスなどの特定の人間関係内における個人の「役割」のようなもので、必ずしも決して本人の性格とは一致しません。

典型的なキャラの類型としては「委員長キャラ」「毒舌キャラ」「いじられキャラ」「オタクキャラ」「天然キャラ」などがあるでしょう。

「キャラ」は当該人間関係内におけるコミュニケーションを通じて半ば自然発生的、無意識的に振り分けられ、以降、いったん割り当てられた「キャラ」を逸脱する振る舞いは難しくなると言われます。

斎藤氏はこうしたキャラ文化の最大のメリットはコミュニケーションの円滑化にあるといいます。相互のキャラが適切に把握できていれば、そのキャラというコードを通じてコミュニケーションのモードは自ずと定まってくるわけです。

すなわち、ここではコミュニケーションがキャラに規定される一方で、キャラはコミュニケーションを加速させるという関係性が成り立っています。このようにキャラとコミュニケーションは相互依存的関係にあるわけです。

そしてここでいう「コミュニケーション」なるものは「レトリック(弁論)」や「ダイアローグ(対話)」といった本来的意味ではもちろんありません。いわゆる「空気を読む」とかいうあの謎の技術です。

言うまでもなく、こんな下らないものと人の価値は無関係です。組織に「空気を読む」人間だけしかいないとすればそれはもう悲劇以外の何物でもないでしょう。けれども一方、人間関係のクラスター化が加速する昨今、この「空気」なるものの存在感がますます増しているのもまた事実でしょう。

こうして我々はクラスター毎に「キャラ」をあたかもSNSのアカウントのごとく素早く切り替え、その場の「空気」に最適化する「コミュニケーション」を日々、強いられているわけです。

そういうわけで、我々は否応なくこの「空気」なる得体の知れない物をどうにかして捉えなければならない。ここで強力な手がかりを与えてくれるのがラカン派精神分析における「まなざし」という概念です。「まなざし」とは何でしょうか?


* 「まなざし」の作用

「まなざし」というのは視覚の問題と表裏に関係に立っています。フランスの精神分析医、ジャック・ラカンが、セミネールⅪ「精神分析の四基本概念(1964)」おいて「まなざし」について論じた際、次のような若き日の体験談を紹介しています。

20代の頃、都会のインテリ知識人という身分をもて余していたラカンは、過酷な自然の中に飛び込み危険な肉体労働に従事するという実践体験に興味を持ち、ある日、田舎の漁師と小さな船に乗って漁に出る。

船上のラカンが網を引揚げようとしたその時、同船していたプチ・ジャンという漁師が波間に漂う「鰯の缶詰」を指し示して、若きラカンに対して次のように言いました。「あんたあの缶が見えるかい、あんたはあれが見えるだろ。でもね、奴のほうじゃあんたを見ちゃいないぜ」。

漁師はあくまでユーモアのつもりで言ったみたいですが当のラカンはあまり面白い気分ではなかった。つまり、自分が今やっているのは所詮インテリのなんちゃってごっこ遊びに過ぎないことに気付いてしまったからです。

これが「まなざし」の作用です。若きラカンは波間に漂う鰯缶を眺めるうちに、その乱反射するきらきらした光の中に「まなざし」を意識しかけていることを、図らずも漁師から否定形のメッセージとして受け取ったわけです。要するに斎藤氏の文脈で言えばラカンは「キャラ」になり切れていなかったということになります。


* 「見る」と「見られる」

見かけと存在の関係、哲学者が視覚の領野を征服することによって簡単に支配者となってしまったこの関係の本質はもっと他のところにあります。その本質は線の方にあるのではありません。それは光点、つまり放射の原点、きらめき、炎、輝きの湧出の源にこそあるのです。

(ジャック・ラカン「精神分析の四基本概念」124頁)


ラカンは同じ講義中で二つの三角形からなる図式を使用して、「視覚」と「まなざし」の関係性を示しています。次のようなものです。

二つの三角形.png

(ジャック・ラカン「精神分析の四基本概念」122頁の図表をもとに制作)


まず、上段の図は、人間の視覚機能を構成する実測的領野、すなわち「見る」という領野を構成します。

この「実測点」に位置するのが「主体」です。そしてその主体の向こう側に対置されるのが「対象」であり、両者の間には「象」すなわち「表象」が定位します。

こうして「見る」という領野においては、主体は対象を表象化する存在であり、もし世界が一枚の絵だとすれば、主体は絵の外部に、描き手ないしは鑑賞者として位置することになります。

そして、下段の図は、「見る」とは異なるもう一つの領野、すなわち「見られる」という領野を表現しています。

ここで「光点」に位置するのは〈他者〉です。ここでいう〈他者〉とは、ある象徴的秩序それ自体を体現する超越的外部をいいます。例えば、両親、国家、神、あるいは言語、法、倫理などです。

こうして「見られる」という領野においては、主体は〈他者〉にとらわれた存在であり、もし世界が一枚の絵だとすれば、主体は絵の内部に−−例えば若きラカンのように−−「シミ」として位置することになります。


* 「対象 a 」としての「まなざし」

そしてこの「見る」と「見られる」の交差点に発生する理念上の平面が「スクリーン」です。

「スクリーン」とは我々の意識に相当します。そして「スクリーン」が遮蔽する向こう側に隠された〈他者〉。これが我々の無意識に相当します。

そして、若きラカンが見たあの鰯缶に見たきらめきがまさにそうであったように、主体はある対象を表象として「見る」という活動のその只中で、〈他者〉から「見られる」という錯覚に捕らえられてしまうことがあります。

こうした「スクリーン」上には、我々の「見る」という実測的領野を歪ませる光の揺らめき、あるいは今「見えるもの」がまさに「見せかけ」でしかないということを示す何かが現れる。これがいるはずのない〈他者〉を仮構する対象、すなわち「対象 a 」としての「まなざし」ということになります。


光の空間として私へと現れているもののの中で、眼差しとはつねに、光と透過不能性による何かの働きです。それは、さっきの私のちょっとした物語の中心にあったあの輝きです。そしてそれは、スクリーンであったり、スクリーンから溢れるきらめきとして光をあらわにしたりすることによって、つねに私を引きつけ魅了するものです。要するに、眼差しの点はいつも、宝石の輝きのような曖昧さを帯びているのです。

(ジャック・ラカン「精神分析の四基本概念」126頁)



* 「空気を書き換える」ということ

こうしてみると、我々が血眼になって読んだり抗ったりするあの「空気」なるものも「まなざし」の一種である、という言い方ができるでしょう。

もしそうだとすれば「キャラ」を演じるという行為は、ラカンのいう「想像的同一化」と「象徴的同一化」のメカニズムの上に成立している事になる。つまり「キャラ」という鏡像イメージへの同一化の前提には、「空気」という名の「まなざし」を通じた「コミュニティ」という〈他者〉それ自体への同一化があるわけです。

このように「空気」を「まなざし」として捉える時、我々はコミュニケーションの空間にまた違う可能性を開くことができるのではないでしょうか。

それはすなわち、我々が「対象 a 」として「まなざし」それ自体の位置を取ることで、一旦確立された〈他者〉に動揺を加え、そこに再び流動性や誤配性を呼び込んでいく可能性です。これは端的にいうと「空気を読む」のでも「空気に抗う」のでもない、いわば「空気を書き換える」というコミュニケーションのあり方と言えます。

もはや絶対的な超越性が信じられなくなった現代において人は、その時々に生じる相対的な超越性へ複数的に帰属して生きていく事になる。そうである以上、我々はどうあってもキャラからも空気からもコミュニケーションからも逃れることはできない。

ここで「コミュニケーションなど下らない」などという「正論」をいくら闇雲に叫んでもおそらく世界は何も変わらないでしょう。もしコミュニケーションのあり方を変えたいのであれば、それは結局のところ、コミュニケーションを通じて実現していくしかないわけです。


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posted by かがみ at 20:39 | 心理療法

2019年09月29日

「ふつうの倒錯」と揺籃社会




* 神経症の終焉

1952年の初版発行以来、精神科臨床に「合理化」と「平準化」をもたらし、今や精神医学のグローバルスタンダードとして君臨する「精神疾患の診断・統計マニュアル(DSM)」の改訂史はアメリカ精神医学が精神分析から決別していく過程でもあります。

とりわけ1980年に発行された第3版は「精神分析の母」とも言える「ヒステリー」を診断カテゴリ一覧から削除し、神経症概念を解体したことで知られています。そして残念ながらアメリカの精神分析にはこの時代の趨勢を跳ね返すだけの余力が残されていませんでした。

一方で、ラカン派精神分析の強い影響下にあるフランスでは、少なくとも1990年代中盤まではDSM何するものぞという空気がまだ支配的でした。

ところが、1990年代後半になるとやや事情が変わってきます。それは端的に言うとラカン派の伝統ともいうべき神経症・精神病・倒錯という三位一体の構造論を揺るがせる患者群が注目されるようになったということです。

こうしてDSMからもっとも遠くに立っていたラカン派ですら、神経症はもはや往時の勢いを失ってしまいます。では一体、何が神経症に取って代わったのでしょうか?


* ふつうの精神病

この点、ジャック・ラカンの娘婿にしてラカン派の主流「École de la cause freudienne(フロイト大義学派)」を率いるジャック=アラン・ミレールは1998年「ふつうの精神病」なるカテゴリーを提唱します。

ここでいう「ふつうの精神病」とは正式な診断名ではなく、近年、前景化してきた「精神病の軽症化」に対処するための暫定的なカテゴリーです。

周知の通り、ラカン派ではボーダーラインを認めません。そこで予備面接段階において、神経症であるという確証が得られないケースで「ふつうの精神病」の特徴が見られる場合は、ひとまず自由連想などの通常分析を控えるべきであるとミレールは言います。

その後の臨床経過において、神経症的特徴(エディプスコンプレックスの痕跡、抑圧に由来する葛藤、分析家へのアンヴィバレントな感情転移等々)が判明した場合は通常分析に切り替え、そうでない場合は、改めて古典的カテゴリーに即した鑑別診断が行われることになります。


* ふつうの倒錯

これに対して「Association Lacanienne Internationale(国際ラカン協会)」のジャン=ピエール・ルブランは「ふつうの倒錯」なる概念を提唱します。

ルブランは2007年の著作「ふつうの倒錯」の中で「正常の中に倒錯を組み入れつつ、正常を考える」という自らの立場を明確にしており、これは「正常の中に神経症を組み入れつつ、正常を考える」というフロイトの立場に通じます。

フロイトは言うなれば「ふつうの神経症」というものを考えたわけです。つまり「ふつうの倒錯」はあくまで「正常」の位相に位置付けられる「ふつうの神経症」のオルタナティブであり、この点において「病理」の位相に位置付けられる「ふつうの精神病」とは異なっているということです。


* 否認とは何か

「ふつうの倒錯」は「真正の倒錯」と同様「否認」というメカニズムによって基礎づけられます。「否認」とはなんでしょうか?

この点「象徴界」を中心とした50年代ラカン理論のタームで言えば「否認」とは「象徴的去勢の否認」を言います。

すなわち、神経症者が「〈父の名〉=象徴的父」がもたらす象徴的去勢を止むを得ず是認するのに対して、倒錯者はこれを否認し、ひたすら「〈他者〉=象徴的母」の欲望の対象である想像的ファルスへの同一化に固執します。

また「現実界」を導入した60年代ラカン理論のタームで言えば「否認」とは「享楽喪失の否認」を言います。

すなわち、神経症者がシニフィアンの主体となる事で生じる享楽喪失を止むを得ず是認するのに対して、倒錯者はこれを否認し、迷いなく享楽奪還の道を突き進みます。

このように時期によって理論構成の違いはあるにせよ、ざっくりいえば、神経症者が「そうだな、世界はそういう風にできている」と葛藤を抱えつつも受容する態度だとすれば、倒錯者は「そんなことあるか、狂ってるのは世界の方だ」と確信を持って叛逆する態度という事になります

こうした倒錯者の態度は別に間違っているとかそういう事ではありません。むしろ、ある意味で「知っている主体」として自らを位置付ける倒錯者の態度は精神分析の倫理と通じるものがあるでしょう(倒錯者と分析家のディスクールはマテーム上は同じ「a→$」となります)。


* 否認共同体と資本主義のディスクール

では、こうした「真性の倒錯」とルブランのいう「ふつうの倒錯」はどのように違うのでしょうか?

この点「真性の倒錯」においては「象徴的去勢」あるいは「享楽の喪失」という「欠如」を「拒絶」するという積極的否認により自らを主体化します。

ところが「ふつうの倒錯」の場合、この主体化自体を「回避」するという消極的否認にその特徴があります。

こうした消極的否認は〈他者〉との共犯関係の上で行われます。これがルブランのいう「否認共同体」と呼ばれるものです。

例えば我が子を「溺愛」してやまない母親と存在感の希薄な父親という組み合わせの核家族は典型的な否認共同体として機能します。

こうした否認共同体に庇護されることで、子どもはいつまでたっても「欠如」に直面することができず「自分は本当はすごいんだ」という幼児的万能感を持ち続けることになる。

そして「資本主義のディスクール」が支配する現代社会においては、そこらかしこに溢れるお手軽な剰余享楽の洪水の中で人々はアディクトさせられ続け、いわば社会全体が巨大な否認共同体として機能しています。

このように「ふつうの倒錯」とはいわば「抑圧中心の経済」から「享楽中心の経済」へという社会構造の変化が生み出した新たな主体と言えるでしょう。これを称して「ネオ主体」と言います。


* ネオ主体

「ネオ主体」とはまさに享楽社会の申し子ともいうべき存在です。ネオ主体が最も恐れるのは自らの棲む否認共同体を破綻させる「欠如」であり、故にネオ主体は何かと「過剰なるもの」を求めます。

「廃人」と呼ばれるネットやゲームへの過剰な没入。SNSで散見される「意識の高い」過剰な自分語りや「キラキラ」した過剰な加工画像。巷の広告に踊る「激◯」「爆◯」「ギガ◯」という過剰なキーワード。

そして、周囲の「普通」や「空気」への過剰な同一化。あるいは、自分が「否定」されたと感じた時の過剰な拒否反応。

こんな風に並べてみると、いくつかはなんとなく思い当たる節はないでしょうか?要するにネオ主体とは決して他人事ではない。現代を生きる我々は良くも悪くも倒錯的であると言わざるを得ないと思います。


* 揺籃社会を生きるということ

ルブランの提出する「ふつうの倒錯」概念は、ますます消費化情報化が加速する現代社会の諸相を見はるかす為のひとつの理論装置としても有用でしょう。

例えば、東浩紀氏のいう「データベース消費」に耽溺する動物達。大澤真幸氏のいう「不可能性」を希求する反現実。宇野常寛氏のいう「母性のディストピア」に囚われた矮小な父性。

こうした一見、三者三様の現代社会論はまさに否認共同体の中で生きるネオ主体の生態系をそれぞれが異なる側面から記述しているわけです。

またあるいは、岸見一郎氏の「嫌われる勇気」や渡辺和子シスターの「置かれた場所で咲きなさい」といった「決断」を強調する思想がベストセラーになる昨今の「自己啓発ブーム」も、言ってみれば現代社会とはそれだけ「決断」が困難な社会である事を物語っているのでしょう。

いずれにせよその根底にあるものは、ルブランのいうところの「正当性の危機」、すなわち従来、我々の生のリアリティを根拠付けてきた「外部」という超越性の廃位です。

こうして今や社会は「外部」なき巨大な揺籃と化し、我々はどうやってもその構造自体からは逃れられないわけです。

ここで無理矢理にでも構造の「外部」に生のリアリティを求めるような生き方−−例えば従来の昭和的ロールモデルのようなもの−−に拘るとすれば、それは多くの場合「生きづらさ」として跳ね返ってくるでしょう。

むしろこうした構造を逆手に取り、構造の「内部」の中で、いかにして主体的欲望を奪還し、多くの瑞やかな歓びを汲み出しつつ、構造のルールそのものを書き換えていくか。いま問われているのはおそらく、そんな生き方の実践ではないでしょうか。





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posted by かがみ at 20:03 | 心理療法

2019年08月31日

「ドゥルーズの世紀」におけるラカン派精神分析



* 理想・虚構・症状

精神分析を想像界・象徴界・現実界からなる独創的なシステムとして再発明した事で知られるフランスの精神分析医、ジャック・ラカンの名前はその難解な著作、晦渋な語り口と共に「ラカン対ラカン」という言葉があるように晩年に至るまで絶えず自らの理論を更新し続けた事でも知られています。

こうしたラカン理論の変遷を跡づけていく営みからは、単なる学説史研究に止まらない、社会のあり方、あるいは個人の生き方を論じる上で有益な理論装置を生み出す事ができるのではないでしょうか。

この点につき、精神病理学者の松本卓也氏はこうしたラカン理論の変遷をミシェル・フーコーの権力装置論やジル・ドゥルーズの制御社会論と連携させて、様々な社会統制のメカニズムを考察していく議論を展開しています。

以下では松本氏の議論を参照枠としていわゆる「享楽社会」の病理と倫理に関する多少の整理を行ってみたいと思います。

まず、50年代から70年代の間のラカン理論の変遷を〈父の名〉という概念を中心として(図式的になる事を承知であえて)示すとすれば、以下のようになります。

⑴ 50年代のラカン理論〜理想としての〈父〉

1950年代のラカンは精神分析に構造主義的言語学の考え方を導入し、神経症と精神病を鮮明に鑑別する手法をもたらしました。

当時、英米圏の精神分析臨床において大きな影響力を持っていたメラニー・クラインの理論によれば、全ての主体は原初的対象関係として「妄想分裂ポジション」と「抑鬱ポジション」からなる二つのポジションを抱え込んでおり、症状とはこの二つのポジションの様々な形での発現あるいは遷移の結果に他ならないとされる。従ってクライン派の理論によればある分析主体はある時は神経症的であり、ある時は精神病的であるということになります。

これに対して、ラカンは人間は神経症、精神病、倒錯という三つの構造のどれかに属し、これら構造の間には移行領域や中間形態は無いというラディカルな主体構造論を打ち出します。なぜならばこの三つの構造はそれぞれ抑圧、排除、否認という互いに区別される三つの否定メカニズムによって構造化されているからです。

ここでラカンが主体構造を鑑別するためのメルクマールとして持ち出すのは、主体にとっての「〈他者〉=象徴界」を統御するシニフィアンである「〈父の名〉(le Nom-du-Pe’re)」です。こうして50年代のラカン理論においては〈父の名〉によって象徴界が統御されている者は神経症であり〈父の名〉が排除されている者は精神病であるとされました。

こうした〈父の名〉が主体から排除されているかどうかは臨床的には「シニフィアン」と「隠喩」という二つの方向性から捉える事が可能です。すなわち⑴〈父の名〉の排除の証拠となる「要素現象」の有無と、⑵〈父の名〉の排除を間接的に示す「ファリックな意味作用」の成立の有無です。

この二つは1958年に発表された論文「精神病のあらゆる可能な治療に対する前提的問題」におけるシェーマIの二つの穴「P0(〈父の名〉の不在の効果)」と「Φ0(ファリックな意味作用の不在の効果)」に概ね対応します。50年代のラカン理論は臨床的に最も鋭くパラノイア(妄想型統合失調症)を鑑別できる理論と言われます。

⑵ 60年代のラカン理論〜虚構としての〈父〉

このように1950年代のラカン理論において、少なくとも「前提的問題」までは〈他者〉を根拠づける「〈他者〉の〈他者〉=〈父の名〉」を中心にその理論が構築されていました。

ところが1950年代終わりのセミネール6「欲望とその解釈(1958〜1959)」において、ラカンは「〈他者〉の〈他者〉はない」と言い出します。

つまりここでは精神病、神経症問わず〈父の名〉は排除されており〈他者〉はいかなる根拠も持たず、そこには単に「欠如のシニフィアン=S(Ⱥ)」が存在するだけであるということです。

こうした観点からは神経症者は本来存在しない〈父の名〉なる虚構を信じるようペテンにかけられた主体で、逆に精神病者はこうした「父性の欺瞞」を受け入れていない主体ということになります。

現代ラカン派で言われる「排除の一般化」すなわち「父性隠喩は社会的に共有された妄想性隠喩にすぎない」という考えは、この1959年におけるラカンの議論を引き継ぐものです。

こうして60年代のラカンはシニフィアンに還元不能なものとして「享楽」の側面を重視するようになります。

60年代のラカン理論からは享楽の回帰モードからパラノイアとスキゾスレニー(主として破瓜型統合失調症)が鑑別可能となります。すなわち、両者はともに精神病ではありますが、パラノイアでは享楽が「〈他者〉それ自体の場」に見出されるのに対してスキゾフレニーでは享楽は「身体全域」に回帰するという違いがあるということです。

⑶ 70年代のラカン理論〜症状としての〈父〉

このように、50年代ラカンが主としてシニフィアンの領域で神経症と精神病の鑑別を行い、60年代ラカンが主として享楽の領域でこれを行なっていたとすれば、70年代ラカンはこの2つの領域を統合的に論じるようになります。

これに伴って症状は従来のように象徴的意味の側面からではなく現実的享楽の側面から「サントーム」として捉え直されます。

もはや〈父の名〉とはこのサントームの一形式に過ぎず、神経症と精神病の違いとはサントームの形式の違いに過ぎないことになる。すなわち、サントーム概念の導入は、ある意味で神経症と精神病の境界線を消し去ってしまうわけです。


* 君主権・規律権力・安全装置

このようにラカンの中で〈父の名〉というものは年代を経るごとに順調に衰退していくわけですが、こうしたラカン理論の変遷はフーコーの権力装置論と興味深い符号を示しています。

⑴ アルカイックの時代(中世)における君主権

アルカイックの時代(中世)においては、君主が処罰権を独占しており、民衆は犯罪と刑罰の決定に関わることはできなかった。これは50年代ラカン理論に対応する「現前する父が支配する社会」です。

⑵ モダンの時代(近代)における規律権力

モダンの時代(近代)においては、刑務所の中で強制的な訓練・労働を行わせることで犯罪者を法に従属する主体への矯正しようとする規律権力が作動します。この点、モダンにおける権力装置は、それを司る君主はすでに不在であるものの、人々がその空白の中に、権力のまなざしを想定することによって機能する。これは60年代ラカン理論に対応する「不在の父が機能する社会」です。

⑶ コンテンポラリーの時代(現代)における安全装置

コンテンポラリーの時代(現代)においてもモダンの時代の原理である規律権力は維持されています。しかし現代ではそれとは別に「どのような地域でどのような犯罪が多いのか」「どのような刑罰システムを用いれば犯罪の発生率を抑えることができるのか」といった統計学的平均値により集団を制御する権力装置が作動する。これを安全装置といいます。これは70年代ラカン理論に対応する「もはや父とは無関係に作動する社会」です。


* 制御社会/享楽社会の病理

そしてドゥルーズはフーコーのいう安全装置が稼働する社会を「制御社会」といいます。この制御社会においてはかつての規律社会の様に大衆を刑罰の脅しによって従属させるのではなく、人々の生活に24時間恒常的に介入し、その行動を管理するような形で権力は行使されます。

ドゥルーズがいう規律社会から制御社会への移行とは、ラカン派の観点から言えば「享楽を殺す社会」から「享楽を生かす社会」への移行に他なりません。こうした制御社会/享楽社会の特徴として以下の点が挙げられます。

⑴ 享楽のデフレーション

ラカンは当初「享楽」とは本来的には到達不可能なものであり、人は「対象 a 」を通じて辛うじて部分的侵犯が可能であると捉えていました。ところが70年代以降の消費化情報化社会の進行は享楽の性質に変容をもたらします。端的に言えば享楽の規制緩和、あるいはデフレーションです。

享楽とはもはや「禁じられた遊び」ではなく「押し売られる商品」へと変質していく。こうして「享楽せよ!」という超自我が支配する社会が到来し、我々は溢れんばかりの対象 a の洪水の中、その日暮らしの終わりなき転調を踊らされ続ける羽目になる。

現代ラカン派の中で次第に「アディクション(依存症)」が注目されるようになってきたのはこのような文脈においてです。摂食障害、薬物依存といった広義の依存症において観察される特徴はまさしく享楽社会の病理そのものです。

⑵ サーフィン化する社会

ドゥルーズによれば、かつての社会における生き方が「砲丸投げ」のようなスポーツだとすれば、現代社会における生き方は「サーフィン」のようなスポーツであるといいます。要するに現代社会においては「主体とは何か」「症状とは何か」「自由とは何か」「生きるとは何か」という「起源」や「到達」に関する問いが蔑ろにされ、ただとにかく目の前にある波をスマートに乗りこなしていくことこそが最も重要になっているということです。

もっとも、ドゥルーズ自身はこうした「サーフィン化する社会」を肯定的に捉えます。要するに、全ては起源も到達もない中間的なもの、存在の間、間奏曲であり、その中で何が起こっているのかこそが問われるべきであるということです。

このような「サーフィン化する社会」は我々に絶え間なく変化する市場の波の中で、常にフレキシブルにセルフマネジメントし続けることを要求します。こうした社会のあり方と近年における自閉症スペクトラム障害ないし発達障害への注目はもちろん無関係ではないわけです。

⑶ 「鉄の秩序」と「統計学的超自我」

享楽社会の3つ目の特徴はまさしく〈父なるもの〉の回帰に関するものです。この点についてもドゥルーズは「父親の回帰以外に危険など存在しない」と指摘しています。

「〈父の名〉の衰退」とは具体的には〈父の名〉の機能が「命名」から「指名」に取って代わられることです。「命名」は、主体に文字通り「それ以外ではない」という絶対的な「名」を与える隠喩的機能を持ちますが、「指名」は、進学、就職、結婚というようなライフイベントによってどんどん横滑りしていく換喩的機能しか持ちません。

こうして象徴界から排除された〈父の名〉はラカンのいう「鉄の秩序」として現実界に回帰します。〈父の名〉は「それは正しくないからダメだ」という「否」を通じて主体を包摂する「法」ですが、「鉄の秩序」は「とにかくダメだからダメだ」という「否」を羅列して主体を排除する単なる「禁止」です。

ECF(フロイト大義派)の精神分析家、マリー=エレーヌ・ブルースはこのような「鉄の秩序」からなる統制を「統計学的超自我」と呼びます。〈父の名〉は諸々の統計データに基づく規範として回帰し、主体はそのガウス分布の中央値に過剰なまでの象徴的同一化を果たそうとする。現代ラカン派がいう「ふつうの精神病」とはこうした〈父の名〉の機能不全から生じる病理に他なりません。


* それでも享楽しかない

こうして享楽は押し売られる商品となり、〈父〉とはもはやデータの番人に過ぎなくなった。この意味で現代とはかつてフーコーが予言したように「ドゥルーズの世紀」となったわけです。では、こうした享楽社会の中で人が人たりうるための抵抗の拠点、成熟のメカニズムはどこに見出せるのでしょうか?

その答えはある意味でシンプルです。ジャック・アラン・ミレールが言うように、享楽社会における抵抗の拠点はむしろ「享楽しかない」ということです。

これはもちろん享楽社会に対する開き直りではありません。むしろ50〜70年代のラカン理論を反復するかの如き迂路を通り抜けたうえでの「享楽しかない」です。

すなわち、まずはとにかく「必ず享楽はある」という希望と「決して享楽はない」という絶望を正しく相転移させて、そしてその上でなお「それでも享楽しかない」という絶対的差異へ向かう欲望を自らのものにできるのか。「享楽しかない」とはまさにこのプロセスが問われているわけです。

こうして享楽社会を生きる上での倫理とは、まさしく享楽に対して享楽をもって抗うという態度に他ならないという事になります。そしてそれはむしろスマートとは程遠い、曲がりくねったでこぼこ道を泥だらけになりながら歩いていく中にこそあるのでしょう。


参考文献:『Library.iichiko 140-ラカンの剰余享楽/サントーム』113頁〜「享楽社会とは何か?(松本卓也)」


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2019年07月29日

宮廷愛とセカイ系




* 不可能なものとしての宮廷愛

宮廷愛とは12世紀ヨーロッパに起源を持つ詩歌の一つのジャンルのなかで歌われる愛の形式をいいます。だいたいの特徴として、さる高貴な既婚女性を対象として、その愛は騎士道的な愛で、対象たる女性への肉体的接触は一切断念されている点があります。

この点、フランスの精神分析医、ジャック・ラカンはセミネール7「精神分析の倫理(1959〜1960)」の中で宮廷愛を精神分析における「昇華」の形式の一つに位置付けています。

心理学でいう一般的意味の昇華は「実現不可能な欲求を別の社会的に望ましい行為を通じて実現すること」などと定義されますが、ここでラカンが言う「昇華」とは「ある任意の対象を〈もの〉の尊厳まで引き上げる営為」を指しています。

〈もの〉というのは、外界からの刺激を受けた心的装置がその翻訳過程で決定的に取り逃がした部分です。つまりシニフィアンよって象徴化不能な何かが〈もの〉として現実界の境域を構成します。

心的装置.png


象徴界における法の導入は〈もの〉への接近を禁止しますが、むしろ法の導入とは人が〈もの〉への接近不可能であるがゆえに要請されるものです。法の導入により、その法さえ侵犯すれば禁じられた〈もの〉という桃源郷に到達できるのではないかという錯覚が可能となるからです。ここに人は快楽原則の彼岸としての「享楽」を想定します。

つまり「昇華」とは〈もの〉への到達不可能性を「芸術」や「愛」などといった何やら尊いものへと高揚せんとする創造的営みであり、ここでいう宮廷愛とは、ある女性との想像的関係を〈もの〉という現実的極限として見立てているわけです。

もっともその後、ラカンは「対象 a 」という概念を駆使して現実界へのより能動的なコミットメントを試みます。こうした理論的変遷に伴い宮廷愛の位置付けも変化することになります。


* 享楽・不安・欲望

「対象 a 」が全面的に導入されたのがセミネール10「不安(1962〜1963)」です。このセミネールにおいては「享楽・不安・欲望」の三つ組が取り上げられます。

不安の三つ組.png

原初の神話的段階においては欠如なき享楽の主体(S)と、これまた欠如なき〈他者〉(A)が想定されます。こうした「享楽」の段階と「欲望」の段階の中間項に「不安」が位置付けられます。

この点、フロイトは前期においては「抑圧が不安を生み出す」と述べていますが、後期に至っては「不安が抑圧を生み出す」と立場を翻しています。これがいわゆる不安信号説です。この立場からすると不安とはエディプス・コンプレックス以前のものであるということになります。セミネール「不安」におけるラカンの解釈もこの後期フロイト理論に依拠したものです。

ラカンは「不安に対象がないわけではない」といいます。つまり不安とは一般的な意味での対象はないけれど、ある特殊なものを対象としているということです。

ここで「不安の対象」となるのが〈他者〉の欠如(Ⱥ)に相当する( a )です。すなわち、シニフィアンによって象徴化不能な何かはここでは対象、つまり「対象 a 」として把握されることになります。

この対象 a が充溢して作用する時、主体は「欠如の欠如」というべき、よるべなき事態に直面することになります。これがラカンのいう「不安」です。端的に言えば「世界中どこにもお前の居場所など無い」ということです。

そこでこうした不安を逃れる為、主体はどうにか対象 a を切り出して、その間に幻想($♢a)を作りだします。この幻想を支えとして主体は欲望の主体($)となります。

つまり欲望の根本には〈他者〉の欠如を見出すことで、この世界における自分の居場所を獲得するという幻想が働いている。このように対象 a は「欲望の原因」として機能します。しかしこのような主体の幻想は所詮文字通りの幻想なのでその幻想が破綻した時、まさに不安が現前化してくるわけです。

こうした対象 a の機能をめぐる議論は後年、一つの定式として示されることになります。これが「性別化の式」です。


* 性別化の式(男性側の式)

ラカンはセミネール20「アンコール(1972〜1973)」において「性別化の式」を完成させます。ここで、男性側の式は以下のように定式化されています。

性別化の式.png



⑴ 「全ての男性はファルス関数に従う(∀xΦx)」

「全ての男性はファルス関数に従う(∀xΦx)」とは「普遍」に関する命題になります(普遍肯定命題)。

「∀x」とは「全てのxは〜である」という量化記号であり「Φx」とは「xはファルス関数に従う」ことを示しています。

ここで「ファルス関数」というよくわからない言葉が登場しますが、これは絶対的享楽を禁止する「欠如」を創設する機能であり「象徴的去勢」「言語による疎外」に相当するものです。

つまり(精神分析的意味での)男性は完全にファルス関数によって定義されることになります。結果「〈他〉なる性としての女性」はフェティッシュとしての対象 a という部分対象へと還元され、男性の享楽は畢竟、自分自身の身体器官を享楽しているに過ぎない倒錯的享楽となります。これを「ファルス享楽($→a)」といいます。

このように男性はファルス関数に完全に定義されることにより、対象 a を超えて「〈他〉なる性」としての「La femme−女性なるもの」へ到達することは不可能となります。こうした状態を表した後期ラカンの有名なテーゼが「女性なるものは存在しない」「性関係は存在しない」ということになります。

そこで男性はこのようなアポリアから逃れる為、この世界の何処かには絶対的享楽が存在するという「例外」の幻想を作り上げることになります(〈他なる〉享楽の想定)。すなわち「普遍」の側から「例外」を夢想するということです。


⑵ 「ファルス関数に従わない男性が少なくとも一人存在する(∃xΦx)」

「ファルス関数に従わない男性が少なくとも一人存在する(∃xΦx)」とは「例外」に関する命題です(個別否定命題)。

「∃x」とは「少なくとも一人のxが存在する」ということであり、「Φx」とは「xはファルス関数に従わない」ことを示しています。

ここで示されているのは、ファルス関数に従属しない例外的男性が少なくとも一人存在し、この例外者だけはファルス享楽ではない絶対的享楽を得ているということです。

こうして男性側の論理式は外在する「例外」が「普遍」を安定化させるという論理となります。これはすべてのxをΦで拘束するにはΦに拘束されていないxが外部に一つあればいいという論理です。

いわゆる古典的ラカン理論は男性側の式に収められます。例えば「主人のディスクール」との関係で言えば「S2」は「∀xΦx(普遍)」に「S1」は「∃xΦx(例外)」がそれぞれ対応するでしょう。


* 例外としての「La femme−女性なるもの」

ここで「例外」として機能する典型例はフロイトの論文「トーテムとタブー」に登場する原始部族社会の部族長=原父のごとき全ての女性を独占的に享楽する存在です。しかし男性にとって「例外」として機能するのは何も原父だけではありません。宮廷愛における「La femme−女性なるもの」も「〈父〉のバージョン違い(version du Pe’re)」として機能します。

「アンコール」においてラカンは宮廷愛を再度取り上げています。先に述べたように「精神分析の倫理」の中でラカンは宮廷愛を対象を〈もの〉の尊厳まで引き上げるという「昇華」の形式の一つに位置付けていました。これに対して「アンコール」における宮廷愛は「性関係はない」という真理の隠蔽装置として機能しているという位置付けになります。

すなわち、ある任意の対象との間にあえて障壁を置くことで「La femme」への接近不可能性という問題を「その障壁さえなければいいのに」という禁止の問題に置き換えて、その禁止の向こう側にありもしない「La femme」を想定することを可能にしているわけです。


* 現代の宮廷愛としてのセカイ系

こうした宮廷愛は12世紀ヨーロッパに限らず、現代でもありふれた物語として現れます。例えば「セカイ系」という想像力は現代における宮廷愛の一つの様式と言えるでしょう。

「セカイ系」とはゼロ年代初頭のサブカルチャー文化圏を特徴付けるキーワードの一つです。典型的なセカイ系作品として「最終兵器彼女(2000)」「イリヤの空、UFOの夏(2001)」「ほしのこえ(2002)」などが挙げられます。

セカイ系という言葉は当初、インターネット掲示板界隈の議論の中で過剰な自意識語りが激しい作品を揶揄的に指していましたが、のちにセカイ系作品群が文芸批評の分野で取り上げられるようになるにつれて、定義が以下のように構造化されることになります。

「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性の問題が、具体的な中間項を挟むことなく『世界の危機』『この世の終わり』など抽象的大問題に直結する作品群」

ややこしい定義ですが、これは要するに「ヒロインからの承認(想像的関係)」が「社会的承認(象徴的秩序)」を通り越し「世界からの承認(現実的極限)」まで格上げされている状態を言っているわけです。


* 「世界か少女か」

このようにセカイ系作品においては想像的関係と現実的極限の直結という特異的構造から、その末路は多くの場合、宮廷愛の様相を帯びてきます。こうした不可能性はしばし物語の中で「世界か少女か」というセカイ系二択として現れます。

例えば「ほしのこえ」を手がけた新海誠監督初の長編アニメーション映画である「雲のむこう、約束の場所(2004)」という作品では、ヒロインの沢渡佐由理は南北に分断された世界の命運を握る「塔」の抑制装置として夢の世界に閉じ込められている。

ここで佐由理の目覚めは世界の滅亡と同義であるというセカイ系二択が示されます。

この点、主人公の藤沢浩紀は南北開戦の間隙を縫って、自作飛行機ヴェラシーラで佐由理との「約束の場所」である「塔」へと飛び、佐由理を夢の世界から連れ戻すと同時に「塔」をPL外殻爆弾で破壊する。

けれども佐由理は目が覚めると夢の世界で抱いていた浩紀への想いも全て忘れてしまっていた。要するに、浩紀は世界を救った代償として佐由理のセカイを救えなかったということです。


* セカイ系という処方箋

こうしたセカイ系作品が一斉を風靡した背景には当時の時代状況というものを考えるべきでしょう。90年代後半からゼロ年代初頭という時期、就職氷河期は長期化し、戦後日本を曲がりなりにも支えていた終身雇用や年功序列といった昭和的ロールモデルも破綻の兆しを見せ始めていた。

これはいわば「父になる」というひとつの幻想の破綻です。すなわち、セカイ系とはある意味で「世界の命運を左右する少女」という「例外」を仮構する物語によって、様々な不遇により父になり損なった人達の男性式における「普遍」と「例外」の論理を救済しようとした試みとも言えます。

時としてオタク的想像力とか引きこもり的想像力などと言われるセカイ系ですが、こうした時代の急性期を乗り切る処方箋としての側面があった事は確かであり、その功績は決して否定できないと思います。


* もはや「世界か少女か」ではない

ただ一方で、セカイ系の示す「世界か少女か」という二択がいまや完全に陳腐化した事もまた疑いのない事実です。今月公開された新海監督の最新作「天気の子」はこうしたセカイ系構造の更新が多分に意識されています。

すなわち、もはや問題は「世界か少女か」などという白か黒かの青臭い二択ではないということです。「天気の子」が問うのは、端的に人ひとり救うために世界を「部分的に」壊すという決断を我々は倫理の問題として「どの程度まで」受け入れるべきかという極めて現実的な問いです。

世界は狂っている。これはある意味で現代の現実そのものでしょう。グローバリズムとネットワークの拡大で世界は次々と接続され続け、貧困の不安や暴力の脅威が絶えず日常に紛れて混んでくる。けれどもそれでも我々はこの狂った世界の中でそれぞれの信じるセカイを主体的な選択として引き受けて生きて行くしかないんです。

「天気の子」という作品は「いま」という時代の気分を描き出すと同時に、かつてのセカイ系的なものを正しく葬送したと言えるでしょう。つまり端的に言えば、もはや呑気に宮廷愛などやっている場合ではないという事です。





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