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2026年07月26日

リトルネロと暮らしの哲学



*〈自閉〉とは何を行なっているか

アメリカ精神医学会が刊行している『精神疾患の診断・統計マニュアル Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders :DSM』の最新版(DSM-V-TR)では「自閉スペクトラム症 Autism Spectrum Disorder:ASD」の診断基準となる行動上の特徴として「社会的コミュニケーションおよび対人的相互作用における持続的な欠陥」に加え「限定的で反復的な行動、関心、活動のパターン」が記されています。ここでいう「限定的で反復的な行動、関心、活動のパターン」とは具体的には⑴常同的、反復的な行動、対象の使用、発話、⑵同一性への固執、ルーティーンへのこだわり、儀式的な行動、⑶きわめて限定的で固定的な関心、⑷感覚刺激に対する過敏と鈍感、環境の感覚的側面に対する並外れた関心をいいます。

こうしたASDにおける行動上の特徴をめぐる従来の議論は、それは治療すべき症状であると否定的にみるにせよ、あるいは反対に、それは才能や美点であると肯定的にみるにせよ、いずれにしても、いわゆる「正常」と比べて何かが決定的に「欠けている」という意味での「異常」として捉える点では一致していると思われています。

これに対して小倉拓也氏は『〈自閉〉の哲学』(2026)において「主体」や「他者」といった特権的な中心を想定することのない主体の生成プロセスを〈自閉〉と呼び、こうした〈自閉〉についてそれが何が「欠けているか」ではなく、何を「行なっているか」を哲学的に洞察していきます。つまり〈自閉〉における常同的、反復的行為には、それ自体は必ずしも欠如ではない「同じでいる力」「反復する力」があると同書は考えます。ここで同書の重要な参照項となるものが「リトルネロ ritournelle」と呼ばれる概念です。

「リトルネロ」とはいわゆる「ポスト構造主義」を代表するフランスの哲学者ジル・ドゥルーズと「制度論的精神療法」の実践で知られる精神分析家フェリックス・ガタリがその共著『千のプラトー』(1980年)の第11プラトーにおいて大々的に論じた概念です。「リトルネロ」とは本来は音楽用語であり、楽曲のなかの反復し、循環する部分を指すものですが、ドゥルーズ=ガタリは同書においてこれを哲学的な概念へと練成していきます。

『千のプラトー』においてドゥルーズ=ガタリはリトルネロを三つのアスペクトを有するものとして論じています。この三つのアスペクトを『〈自閉〉の哲学』はそれぞれ「T カオスのただなかで中心をつくり出すこと」「U その中心のまわりに輪を描き、限界づけられた空間を組織すること」「V 輪を開き、外に出て、それまでとは異なる運動や身振りや音に接続すること」であると説明します。注意すべきはドゥルーズ=ガタリがこれらは継起的な進展の関係にある三つの段階ではないと主張している点です。まず第一のアスペクトは次のような印象的な文章で描かれる場面です。

T 暗闇に子どもがひとり。恐くても、小声で歌を歌えば安心だ。子どもは歌に導かれて歩き、立ち止まる。道に迷っても、なんとか自分で隠れ家を見つけ、おぼつかない歌をたよりにして、どうにか先に進んでいく。歌とは、いわば静かで安定した中心の前ぶれであり、カオスのただなかに静けさをもたらすものだ。子どもは歌うと同時に跳躍するかもしれないし、歩く速度を速めたり、緩めたりするかもしれない。だが、歌そのものがすでに跳躍なのだ。歌はカオスから跳び出してカオスのなかに秩序をつくりはじめる。しかし、歌には、いつ分解してしまうかもしれないという危険もある。

(『千のプラトー』より)


ここで問題になっているのは「カオス」のただなかにおいて、安定した空間の前ぶれとなるような、未だ脆く不確かな中心を作り出すための営みに他なりません。ここでいう「カオス」とは、「暗闇」の例からも分かるように、そこに呑み込まれてしまうようなノッペリとした未分化な深淵(差異の皆無)でもあり、あるいは逆に、まばたきするたびに転変していくような情報過多的、感覚過敏的な状況(差異の過剰)でもあります。こうした差異の皆無、あるいは差異の過剰も、一切がそこに溶け込んだり埋没したりするがゆえに、準拠も分化した方向もなく、自己を位置付けられないという点では同様の事態であるといえます。

そのなかでいつものあの歌を歌うこと、つまり常同的、反復的な行為は、溶け込んだり埋没したりすることのないある際立ちを作りだし、差異の皆無に対しては最小限の差異を、差異の過剰に対しては最小限の同一性を生み出します。こうした一時的な準拠ができ、方向が分化し始めることで、子どもはただ立ち尽くすだけでなく、手探りで歩き出したり立ち止まったりすることができるようになるということです。


* テリトリーを作り、外に出る

ここで述べられている幼い子どもとその歌はあくまでひとつの例であり、子どもであれ、大人であれ、さらにいえば動物であれ、常同的、反復的な行為こそが差異も同一性もないカオスに最小限の差異あるいは同一性を生じさせ、自己の構成を可能にするということです。しかし、ここで構成された自己はあくまでも一時的なものであり「歌には、いつ分解してしまうかもしれないという危険」もあります。このような原理的な一時性が仮に歌を止めてもその中であれば自己が持ちこたえられるような、一つの空間を組織化する第二のアスペクトを要請することになります。 
 
U いまや、反対に、我が家にいる。しかし、我が家はあらかじめ存在しない。脆く不確かな中心のまわりに輪を描き、限界づけられた空間を組織しなければならなかった。あらゆる種類の目印やマークなど、きわめて多様なたくさんの要素が関わってくる。(…)それら要素は、一時的に中心を定めるためのものではなく、ひとつの空間を組織するためのものである。こうして、カオスの力か可能なかぎり外部にとどめ置かれ、内部空間が、遂行すべき課題やなすべき仕事を生み出す力を保護するようになる。

(『千のプラトー』より)


ここでいう「我が家」とは馴染みのある場所という意味であり、ここで特権的に出される例は自分で歌う歌ではなく、テレビやラジオから流れる生活音です。これらの音は自分で歌う歌をいわば肩代わりしてくれるものであり、こうした音が流れる「我が家」の存在がカオスに抵抗するために割かなければならない力を、例えば勉強や創作といった別の営みに利用することを可能とします。

リトルネロはこの第二のアスペクトにおいて厳密な意味でのテリトリーを構築することになり、その中で自己はより明確なものとなります。そしてリトルネロの第三のアスペクトは我が家、すなわちテリトリーを前提にその外に出るということです。

V 最後に、輪を少し開き、解放し、誰かをなかに入れ、誰かに呼びかける。あるいは、自分自身が外に出ていき、駆け出す。輪が開かれるのは、カオスのかつての力が押し寄せてくる側にではなく、輪そのものによって作り出された別の領域のなかにである。あたかも輪が、みずからが保護した活動状態の力によって、自分自身を未来に開こうとしているかのように。(…)ささやかな歌に身をゆだね、我が家の外に出る。子どものいつもの道筋をしるしづける運動や身振りや音の線に、「放浪の線」が接ぎ木され、芽吹きはじめる。それまでとは異なるループ、結び目、速度、運動、身振り、音とともに。

(『千のプラトー』より)


リトルネロの第三のアスペクトは、このようにテリトリー化された力を元手にして、それとはまた別種の力、つまりテリトリーの外の感覚不可能だった力を新たに把握し、感覚可能にする「脱テリトリー化」を引き起こします。そしてドゥルーズ=ガタリはこのようなリトルネロの第三のアスペクトの特権的な形象をカオスに抵抗するささやかな歌でも、カオスを選別し力を蓄える我が家の音でもなく、感覚不可能な力を把握して感覚可能にする「芸術」、とりわけ「音楽」に見出していきます。


* リトルネロの脱〈自然〉化

では〈自閉〉における常同的、反復的行為はこうしたリトルネロにおける「テリトリー」を構築しうるものなのでしょうか。この点、ドゥルーズ=ガタリによればテリトリーとはコード化された環境における「機能」に還元されない脱コード化/再コード化としての「表現」と「所有」の発生により構築されると考えられています。例えば南米に生息するハバシニワシドリは美しい鳴き声で知られる鳥ですが、地面に落ちている葉を裏返すことで「ステージ」を設け、その上で歌うことでテリトリーを主張しますが、この時、地面に落ちている葉は単に地面に落ちている状態から引き離され、独自の質と表現性を持ち始め、固有性を示す事になります。

こうしたドゥルーズ=ガタリの「機能」「表現」「所有」をめぐる議論からすると〈自閉〉の常同的、反復的な行為はコード化された機能的な環境にあまりに密着しているがゆえに、自立した表現的な質を欠きテリトリーを構築し得ないということにないそうです。ですがその一方で〈自閉〉における常同的、反復的な行為は仮に機能からの離脱が不十分で表現的といえる質の発現に至らなくても、例えば「こだわり」というかたちでの「所有」性があればそれをテリトリーとみなすことができるとも考えられそうです。つまりここに「表現なき所有」によるテリトリーの可能性を見出すことができるということです。

リトルネロの三つのアスペクトとはカオスのただ中でのコード化された自然の回路からテリトリー化、脱テリトリー化を通した一連の離脱現象であり、ドゥルーズ=ガタリはこうした離脱現象を通して到達する芸術としての音楽をコード化された自然の回路とは別種の、音楽的に共鳴する大文字の〈自然〉のもとに理解しています。しかしそれは巧妙に隠されたドゥルーズ=ガタリの「正常」イデオロギーであるともいえるでしょう。

『〈自閉〉の哲学』において小倉氏はこれに異を唱え、リトルネロを脱〈自然〉化する理路を探っていきます。それは〈自然〉を最終目標とする機能からの離脱や表現的な質の発現なしに、その〈自然〉な進展なしに、非〈自然〉的な手段で「所有」を作りだす常同的、反復的な行為としてのリトルネロをテリトリーを構築し、自己を構成する営みとして肯定するものとなります。


* 移行対象と自閉対象

そこで同書はまずドゥルーズ=ガタリがこの文脈で言及する「移行対象 transitional object」と、自閉症に特徴的に見られる「自閉対象 autistic object」の差異に注目します。ここでいう移行対象とはドナルド・ウィニコットによる精神分析上の概念であり、幼児にとっての「最初の所有物」にして「内的現実と外的現実を分離しつつも相互に関係させておく」ことを可能にする対象を指しています。

その典型的な例が幼児が肌身離さず持っている毛布とかぬいぐるみですが、ウィニコットは幼児の喃語や子どもが寝ようとしている時に口ずさむ歌や曲のレパートリーも含めており、この意味で移行対象はリトルネロに近い現象だといえます(もっともドゥルーズ=ガタリは移行対象とテリトリー化の要因となる事物である「表現の質料」を区別しています)。

これに対して自閉対象とはイギリスの精神分析家フランセス・タスティンが概念化したものであり、移行対象と同じく幼児がそれによって安心を得る対象でですが、移行対象と異なり、自閉対象は現前と不在、自分と自分でないものといった「全か無か」の二者択一において、それらを媒介するのではなく、その一方である現前や自己に固執し、もう一方である不在や自分でないものをシャットアウトするバリアとして機能します。こうした自閉対象の典型例はミニカー、電車のおもちゃ、金属製の日用品などといった硬質でメカニカルな対象が好まれる傾向にあります。

そして同書は自閉症における自閉対象へのこだわりは内面的な自己同一性を確保することが困難な状況で外面的な安定性に頼って自己を確保しようとするものであり、そこにある種のテリトリーの構築と自己の構成を見出しています。一方でドゥルーズ=ガタリがこうした自閉対象に対するこだわりをテリトリーの構築と自己の構成として容認しないのはそれらはどうしようもなく機能的であり、表現的ではないからです。換言すればそれらがその暫定性と局所性ゆえに持続せずに消失せざるを得ないからです。

暗闇で歌を口ずさんでも、やがてその歌が止まれば、テリトリーと自己は消失してしまいます。それゆえにリトルネロにおいては第一アスペクトに続き第二アスペクトが要請されることになります。それゆえに〈自閉〉の哲学が考えなければならないのは暫定的で局所的なテリトリーと自己を恒常的で帯域的なものへ乗り越えるのではなく、暫定的で局所的なまま持続可能にする具体的な技法であるということです。


* 可能的なものの技法

長年、自閉症のこだわり行動について臨床と研究を行ってきた臨床心理士、白石雅一は定型発達のこだわりの対象を移行対象、自閉症のこだわりの対象を自閉対象と整理し、後者の様態を次のように整理しています。

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(小倉拓也『〈他者〉の哲学』より)

ここで小倉氏はA物に注目します。そこには「物:そのもの 存在 位置 形態 配置 配列 構造 描画」とあります。自閉症において具体的な対象はもちろんのこと空間内の事物の位置や配置が同一であることはよく知られており、ここでいう事物の位置、形態、配置、配列、構造という一連のこだわりの対象に注目すると、そこには単なる観念連合以上の必然性を持つ、ある種の「リズム rythme」を見出すことができます。

リズムとは一般的には音楽における時間や変化に関係した現象だと考えられていますが、フランスの言語学者エミール・パンヴェニストが語源学的な研究で明らかにしたようにリズムの語源である古代ギリシアの「リュトモス」は、音楽における時間や変化ではなく、絶えず流動する世界が瞬間の中で取る「形」、時間的というより空間的な形状や布置を示唆する語です。

そしてフランスの哲学者アンリ・マルディネはこうしたパンヴェニストの議論を踏まえ、リズムを自己がそこに飲み込まれ、失われてしまうような、目が眩むようなカオスのただ中に超越論的審級なしに「とどまり séjour」を生み出し、つまりは「滞在」を可能にするものとして論じています。そしてドゥルーズ=ガタリのリトルネロ論はこのマルディネの議論を応用したものですが、そもそもマルディネはリズムを「非音楽的な空間的なもの」として捉えていることは見過ごせないでしょう。

こうしたことから小倉氏は『〈自閉〉の哲学』においてASDに見られる事物の位置、形態、配置、配列、構造へのこだわりはこのような「非音楽的な空間的なもの」としてのリズムであり、世界のめくるめく転変、その感覚過敏的で情報過多的な状況のなかで「とどまり」を生み出し「滞在」を可能にする「非音楽的な建築術」であるとして、このような「非音楽的な建築術」を「可能的なものの技法」と呼び、その例を自閉症養育プログラムとして知られる「Treatment and Education of Autistic and related Communication-handicapped CHildren:TEACCH」における「構造化」の手法に見出していきます。

ここでいう「構造化」とは具体的にはASDの子どもたちの生活空間にパーティションなどを用いてセクションを設けることで、空間や時間をフレーミングする手法をいいます。ここでASDの子どもたちはいわば場所や時間と活動の1対1の対応をいわば「暗記して覚えられた」ものとして知覚や行動の暫定的で局所的な可能性を確保して行動を組織化していく事になります。


* リトルネロと暮らしの哲学

小倉氏はこうした環境調整と行動学習による療育と教育を志向するTEACCHと内面性ではなく外面的な行動の水準を一貫して強調する〈自閉〉の哲学に共通する部分は多いとする一方で〈自閉〉の哲学がこうした外面的な水準を強調するのは、あくまでそうした水準において形作られるものとして「自己」を、あるいは「心」を捉え直し、別のかたちで肯定するためだからであるといいます。

すなわち〈自閉〉の哲学が教えるのは世界とか自己と呼ばれるものは決して本来的、内面的なものではなく、常同的、反復的な行為をとおして形作られる非本来的、外面的なものの効果しかないかもしれないということです。そして、このような意味での〈自閉〉としてのリトルネロとはTEACCHのような臨床場面に限らず、もっと広く、我々の日常の至るところで何気なく用いられており、ここからある種の「暮らしの哲学」をひらくこともできるでしょう。

その一つのアイデアとしてここでは東洋医学の陰陽五行説における「養育」ならぬ「養生」の知恵をあげておきたいと思います。自然と生命の循環を読み解く陰陽五行説によれば、例えばいまの時期(大暑・桐始結花)は陽気が極まり、体内の「気」と「津液(水分)」が消耗しやすいとされます(気陰両虚)。それゆえにこの時期においては、こまめな水分補給と十分な休息を心がけ、胃腸を冷やしすぎない食事で「気」と「津液」を補い、過度な発汗や疲労を避けることが「養生」の基本とされます。

このような陰陽五行の「養生」とは季節の特性に応じて身体や暮らしのリズムを調律することで自然というカオスのただ中にテリトリーを構成していくという点で、同じでいる力、反復する力としてのリトルネロに通じているといえるでしょう。この意味でリトルネロとは、人が世界のカオスのなかに一時的なとどまりを築き、自己を保ち続ける普遍的な技法であり、陰陽五行説の養生もまた、季節の循環という自然の変化に応じて身体と暮らしのリズムを調律することによって、自然のただなかにテリトリーを築く営みとして、このリトルネロの系譜の中に位置づけられるでしょう。
















posted by かがみ at 23:00 | 精神分析

2026年06月23日

セカイ系と文学の困難



* セカイ系とは何だったのか

ゼロ年代の文芸批評シーンを賑わしたキーワードとして「セカイ系」という言葉があります。ここでいう「セカイ系」とはライトノベルとその周辺の独特な想像力を形容するものとして、だいたい2003年ごろから使われるようになった言葉です。これはネットユーザーのあいだで自然発生的に生まれた言葉なので、確かな定義があるわけではないですが、一般的には主人公と(多くは)その恋愛相手とのあいだにおける「ぼくときみ」というべき小さな人間関係を、社会や国家のような中間項の描写を挟むことなく「世界の危機」「この世の終わり」といった大きな問題に直結させる想像力を意味すると理解されています。

このような構図は現代思想の世界でよく使われるラカン派精神分析の用語を借りていえば「想像界と現実界が短絡し、象徴界の描写を欠く」という表現でより一般的に定式化できます。ここでいう「想像界」とは恋人や家族など親密圏内部での幻想の世界を指し「象徴界」とは社会の公共的な約束事や常識をいい「現実界」とはそんな幻想も常識もともに壊すリアルなものです。

セカイ系の初期の代表作としては、高橋しん氏の漫画『最終兵器彼女』、新海誠氏のアニメ『ほしのこえ』、秋山瑞人氏のライトノベル『イリヤの空、UFOの夏』といった作品がよく挙げられます。このようなセカイ系の想像力はゼロ年代の半ばには若者向け小説市場全体に波及し、多くの作品にその特徴が認められるようになります。例えばゼロ代を代表するライトノベルの一つである谷川流氏の〈涼宮ハルヒの憂鬱〉シリーズも、しばしセカイ系に分類されることがあります。

そしてそのようなセカイ系の評価をめぐっては評論家のあいだでも賛否両論、様々な議論がありました。そもそも、この「セカイ系」という言葉自体に「セカイ系の作品は、物語内で世界の危機を描いているようでいて、実際はなんのリアリティもない子どもっぽい設定しか導入していない、それらの作品が描いているのは「世界」ではなく「セカイ」にすぎないのだ」といった揶揄が込められています。つまりセカイ系は売れているわりに必ずしも評判が良くなかったということです。

セカイ系と呼ばれる作品は視点人物のまわりの小さな日常と世界や死をめぐる抽象的な観念ばかりを描き、そのどちらでもない複雑な社会的現実をほとんど描写しません。というより、そこではそんな描写はそもそも必要だと考えられていません。「世界の危機」「この世の終わり」といった構図だけが重要で、それが具体的にどのような事態なのかといった細部の設定は驚くほどなおざりにされています。ではなぜこのようなものがゼロ年代の文芸批評シーンにおいて注目されたのでしょうか。改めてセカイ系とは何だったのでしょうか。


* 虚構と現実の断絶と再縫合

この点『動物化するポストモダン』(2001)や『ゲーム的リアリズムの誕生』(2007)といった著作でゼロ年代批評をリードした批評家の東浩紀氏はゼロ年代におけるこうしたセカイ系的な想像力の台頭には『大きな物語の消尽』『データベース消費』『まんが・アニメ的リアリズム』といった術語で言い表されるポストモダン的な諸々の条件が反映されているという議論を展開しました。つまり、そこで問題とされているのは文学やサブカルチャーにおける一時的な流行ではなく、数十年単位で生じている大きな社会的な変化であるということです。

こうした問題意識から氏は『セカイからもっと近くに』(2013)という文芸評論集において文学やサブカルチャーにおいて「社会を描けない」「社会を描かなくていい」「社会を描く気になれない」という問題を「セカイ系の困難」と呼び、こうした問題は文学やサブカルチャーの領域を超えて、今では日本文化全体に拡がっているといいます。 

「文芸評論という、いまや古びたあまり見向きのされないジャンルがあります。本書はそのジャンルに属する本です」という書き出しで始まる同書の主題は現代において「想像力と現実が関係を持つことのむずかしさ」です。ここでいう想像力を代表する文学はかつて、現実で生きる人々の喜びや苦しみを汲み取り、芸術表現に昇華するという役割を担っており、文学こそが社会改革の原動力になると信じた人々も少なくありませんでした。つまりかつては想像力と現実はきちんと接続されていた(と信じられていた)ということです。

ところが現代日本ではその理想に反して、大衆に支持される創作物は現実の政治的葛藤や社会問題をほとんど反映しておらず、想像力と現実が切り離された時代であり、いまや文学が社会に与える影響はかつてなく小さく、逆に社会が文学に与える影響もかつてなく小さいと同書はいいます(急いで付け加えるとすれば、ここで指摘されているのは、現代の文学が社会問題にまったく向き合っていないとかではなく、あくまで文学をはじめとする創作物がもっぱらエンタメとして消費されてしまう現代の大きな傾向のことだと思います)。

そして同書は以上のような状況認識のもとで、それでも虚構と現実を、あるいは文学と社会を、それぞれの方法で再縫合しようと試みて「しまっている」作家の主要作品の読解を試みます。試みて「しまっている」とは、作家が必ずしもその再縫合の試みを自覚していないことを意味しています。つまり、彼ら彼女らはその作品を虚構として完成させようと試みているにもかかわらず、その作品は虚構としての完成からどうしようもなくずれていってしまい、いつのまにか現実の痕跡が招き入れられているということです。このずれの構造こそが同書が読解を試みる当のものです。

その意味で同書は「普通の」文芸評論ではないと氏は述べます。想像力と現実の結びつきを前提とした「普通の」文芸評論は想像力と現実が結びつかない以上、本来成立しないものですが、同書は「想像力と現実が結びつかない、その現実を想像力の分析を通して浮かびあがらせよう」とする文芸評論であり「文芸評論の不可能性について文芸評論の手法で論じようとしている、かなりねじまがった本」であるということです。


* セカイ系の起源と剰余

こうした観点から同書が取り上げる最初の作家が新井素子氏です。新井氏は1977年に高校生でデビューし、1980年代の半ばに至るまで若い読者に圧倒的な人気を誇り、SF史とライトノベル史に大きな足跡を残した作家として知られています。1990年代以降の活躍は相対的に目立ちませんが、文芸評論家の大塚英志氏による言及がきっかけでキャラクター小説の文法を確立した作家として批評的な注目を浴びています。

新井氏の作品はラカンのいう想像界と現実界が短絡しているように見えるため、しばしセカイ系の起源として挙げられます。例えば1981年刊行の『ひとめあなたに…』にという小説のあらすじは次のようなものです。

主人公である女子大生の山村圭子には森田朗という彫刻家志望の恋人がいますが、朗はある日がんの告知を受けます。もはや余命は幾許もなく、助かったとしても右手切断を免れないという状況で希望を失った朗は圭子に別れ話を持ち出します。混乱した圭子はやけ酒を浴び一夜を過ごしますが、その夜に唐突に地球はあと1週間で巨大な隕石が衝突し、人類は全員滅びるというニュースがもたらされることになります。

圭子はこのニュースをきっかけに自分を取り戻し、もう一度朗に会おうと決意し、世界の破滅を前にした混乱のなか、最初は徒歩で、途中からはバイクに乗って練馬から鎌倉に向かい、果たして浜辺で朗と再会し、2人は愛の言葉を交わし、波の音を聞きながら世界が破滅する時を待ちます。しかしその一方で巨大隕石の詳細は全く明かされず、それが引き起こす社会の混乱もほとんど描写されません。

このように同作は「隕石の衝突」という非社会的な設定(現実界)を、社会の描写(象徴界)をなおざりにして、ただひたすらに圭子と朗の恋愛(想像界)を描くための舞台装置として利用している小説であり、ここにはセカイ系における想像界と現実界の短絡という構図がはっきりと見て取れます。しかし同時にこの作品はこのようなセカイ系的構図から大きく逸脱する剰余を抱えています。


* 社会から家族へ

実は圭子は練馬から鎌倉に向かう途中で由利子、真里、智子、恭子という4人の女性ないし少女に順々に(厳密に言えば恭子の場合はその夫の語りを通して)出会っています。この4人はいずれも表面的には幸福な日常を送っていましたが、世界の破滅を前にしてその基盤の脆弱さが暴かれ(例えば夫の浮気が明らかになるなど)、精神の均衡を失ってしまっています。

つまり、この小説には圭子と朗の恋愛譚とは別に4人の女性ないし少女との出会いが含まれており、圭子は彼女たちの出会いを通じて成長し、恋人と再会を果たすことになります。新井氏自身は同作をあくまで圭子と朗の恋愛譚として描きますが、実際の描写の力点は分量的にも内容的にも明らかに圭子と朗の恋愛より4人との出会いの方に傾いています。

つまりこの小説はセカイ系的な恋愛譚を描こうとしたにもかかわらず、実際のところその大半はセカイに辿り着くまでの話に費やされているということです。ここには明らかにセカイ系の困難(社会を描けない/描かない/描きたくない)に対する作家の無意識的な抵抗(にもかかわらず完全に書かないわけにはいかない)の力学が作用しています。

そして、この4人の物語に共通するのは「崩壊する家族」というモチーフです。同作において世界の破滅(現実界)と小さな恋愛(想像界)は単純に短絡することはなく、両者は家族とその崩壊というモチーフを通じて結び付けられています。さらに同作に限らず新井の小説には家族のモチーフが頻繁に登場します。

このように新井氏はセカイ系の先駆者でありながら、同時に家族というモチーフを執拗に描き続けた作家でもありました。つまり氏は象徴界が抜け落ち、もはや社会をきちん描くことができないという感覚を、のちのセカイ系のように想像界と現実界との短絡で処理するのではなく、家族的想像力によって埋め合わせているということです。それこそが新井素子という作家がセカイ系の困難に対して与えた答えであると東氏は述べています。


* セカイ系と文学の困難

さらに新井氏の中でこの家族的想像力は「拡張された家族」として現れます。1983に公刊された『・・・絶句』という小説では「新井素子」という名の大学2年生の主人公が自宅で小説を書いていると突然、素子が今まさに書き記していた小説の登場人物たちが室内に現れるところから始まります。この小説でも想像力の基本的な軸は象徴界の欠如を「家族」で埋めるという構図で作られていますが、同作における「家族」とは物語から独立したメタ物語的性格を持つ「キャラクター」の集合体(東氏のいうデータベース)として描かれています。

このように新井氏はセカイ系の起源とされる作家でありつつも、セカイ系の困難(社会を描けない/描かない/描きたくない)という虚構と現実の断絶を社会の代わりに「拡張された家族」を描くことで抗おうとした作家であるといえます。ところがゼロ年代におけるセカイ系になるとこうした虚構と現実の断絶に対してもはや何らかの抵抗を試みるのではなく、むしろ両者の断絶という現実それ自体が想像界と現実界の短絡という構図としてあからさまに描かれてしまうことになります。

しかしながら、まさにこの地点にこそゼロ年代におけるセカイ系の革新性を逆説的に見出すことができるでしょう。すなわち、その革新性とは虚構と現実の断絶という現代における文学の困難を想像界と現実界の短絡というアクロバティックな回路を経由することで曲がりなりにもひとつの文学ジャンルへと昇華した点にあるということです。そうであれば、ここからセカイ系の困難としていまや織り込み済みの前提となった文学の困難という問題をいかに深めるか、もしくはいかに乗り越えるか、あるいはいかにやり過ごすかというある種の「ポスト・セカイ系」という批評的観点から現代におけるさまざまな想像力を読み解いていくこともできるのではないでしょうか。






















posted by かがみ at 00:18 | 精神分析

2026年05月22日

オイディプスと格差社会



* 68年5月とアンチ・オイディプス

1960年代、フランス現代思想のモードは「実存主義」から「構造主義」へと変遷します。ジャン=ポール・サルトルに代表される実存主義は、人は独自の「実存」を切り拓いていく自由な存在=主体であることを限りなく肯定しました。ところがクロード・レヴィ=ストロースに代表される構造主義は、我々の文化は主体的自由の成果などではなく、歴史における諸関係のパターン=構造の反復的作動に過ぎないという事実を暴き出しました。

1960年代中盤、構造主義の栄華は頂点に達します。多くの知識人や文化人は自らを構造主義者であるとして、中には構造主義的再編でチームの成績向上を図るなどと言いだすサッカーの監督もいたそうです。ところが1960年代後半になると構造主義は早くもその栄華に陰りを見せ始めます。こうした流れを決定的なものにした出来事が1968年に起きた「パリ5月革命」です。

「68年5月」において学生たちが異議を申し立てたのは「Egalité! Liberté! Sexualité!(平等!自由!セクシュアリティ!)」というスローガンが端的に示すように、大学や社会が押し付ける旧態依然とした父権主義的な「構造」に対してでした。ここで構造主義は「構造は街頭に繰り出さない」などとラディカルに批判されることになります。

そしてこの「68年5月」を駆動させた人々の「欲望」を原理的に考察することで構造主義を超出する新たな思想を提示したのがフランスの哲学者ジル・ドゥルーズと精神分析家フェリックス・ガタリの共著『アンチ・オイディプス』(1972)です。同書は発売されるや否や若年層を中心に熱狂的に歓迎され、 1970年代の大陸哲学における最大の旋風の一つを巻き起こしました。こうして「ポスト・構造主義」の時代が幕を開けることになります。


* 欲望諸機械とは何か

同書は端的にいえば「欲望」を起点とする主体と社会の変革の哲学を提示するものであり、その基本的なテーゼは「世界のすべては欲望のフローから構成されている」というものです。ここでドゥルーズ=ガタリは「欲望」を自然、生命、身体、あるいは言語、商品、貨幣といった様々な「機械 machine」に宿る非人称的な力の作用として捉えており、こうした機械の接続を「欲望諸機械」と呼びます。

すなわち、同書は構造主義的な差異の体系としての「構造 structure」とその偶然的変動としての「出来事 événement」ではなく「機械」による欲望的生産の絶えざる変容の「過程 processus」を重視しているということです。そして、こうした欲望的生産の過程とは機械と機械を接続し切断する欲望のフローの過程であり、それは社会の絶えざる変容の過程でもあります。このような欲望的生産をドゥルーズ=ガタリは「生産の生産」「登録の生産」「消費の生産」から論じ、欲望諸機械の特性を次の三つに分けています。

第一に「接続的総合(生産の生産)」という特性です。機械は諸々の物質的フローに接続し、そのフローを切断して採取します。「例えば口機械は母乳機械に接続され、そこからミルクのフローを切り取り、採取」します。さらにこうした機械が接続する諸々の物質的なフローそのものもまた、別の機械によって生産される以上、機械とフローの接続は機械同士の接続ということになります。また機械と機械の接続は必ず新たなフローを生産しますが、それは第三の機械に接続され採取されることになります。こうした欲望諸機械相互の接続が欲望の生産性そのものを生産します。これが「接続的総合(生産の生産)」という欲望諸機械の根源的条件です。

第二に「離接的総合(登録の生産)」という特性です。あらゆる機械はその中に一種のコードを組み込んでおり、そのコードは極めて多様な断片を保持しています。そして、それらの断片はコードから自由に離脱してそれぞれ他の機械に接続され、そこからコードの剰余価値を引き出します。その例としてドゥルーズ=ガタリはスズメバチと蘭の間のコードの接続と、それによるコードの剰余価値の生産を挙げています。蘭はスズメバチが花粉を雌しべから雄しべへと運搬することなしには自らの再生産を行うことができません。それゆえに蘭はスズメバチの生殖器を真似てスズメバチのイマージュとなり、スズメバチのコードと接続され、そこから受粉と再生産というコードの剰余価値を生産することになります。

こうした多様なコードが登録される登録平面ないし内在平面の役割を果たすのが「器官なき身体 corps sans organes」です。ここでいう「器官なき身体」とは欲望諸機械の流れが登録されるゼロ強度の「欲望の不動の動者」であり、同時にその流れを引き留め、反発し、組織化しようとする抵抗面でもあります。そして、このような多様なコードとそれらの接続から生まれるものが多様体としての主体です。

ここから「連接的総合(消費の生産)」という第三の特性が導き出されることになります。ドゥルーズ=ガタリにおいて主体とは欲望諸機械が欲望のフローを採取、消費することによってその傍らに残余として生産されるものであり、その意味において主体とは意識によって中心化された人称的主体ではなく、無意識において諸特異性から構成され、生成変化を繰り返す脱中心化された非人称的主体であるということです。


* オイディプスと社会的生産

このように欲望諸機械は常に生産の働きを止めず、相互に接続を繰り返して、非人称的諸特異性から構成された生成変化の主体を生産します。こうした意味で「欲望はその本質において革命的」なのであり、欲望的生産は潜在的に社会を破壊するような強度的力能を持っています。

しかしドゥルーズ=ガタリによれば資本主義下における「オイディプス化」がそのような徹底した生産性を抑圧します。ここでいう「オイディプス化」とは多様な欲望の流れを父・母・子という家族三角形に縮減することで、欲望の多様性を抑圧し、自己同一性自我の形成を促す操作をいいます。

この点、ドゥルーズ=ガタリは社会的「抑制」と心的「抑圧」を区別します。社会的「抑制」は権力諸装置による作用であり、権力に従順な主体を形成して社会構成体の権力関係や抑制的構造を再生産します。そして社会的「抑制」はその道具として心的「抑圧」を、すなわち「オイディプス化」を必要とします。

つまり欲望的生産は社会的生産と表裏一体であり、社会的生産は欲望的生産に働きかけて欲望的生産が自ら「抑制=抑圧」を欲望するような体制を作りあげていきます。こうしたことからドゥルーズ=ガタリは「社会的再生産の最も抑圧的、屈辱的な形態も、欲望によって生産され、欲望から出現する組織において生産される。この組織がどのような条件において出現するかを、まさに私たちは分析しなければならないだろう」と述べています。

それゆえにドゥルーズ=ガタリは政治哲学の根本問題として「人々はなぜ、あたかもそれが自らの救済であるかのように、自らの隷属を求めて闘うのか」「人々はなぜ、より多くの課税を、より少ないパンを、と叫ぶのか」「人々はなぜ数世紀もの間、搾取、屈辱、奴隷状態に耐え、それらを他人だけでなく自分自身にも望んできたのか」という問いを提示します。

この問いはかつてスピノザが『神学政治論』で提出した問いであり、ウィルヘルム・ライヒがそれを大衆のファシズムへの欲望という形で再発見した問いでもあります。「権力への服従化」の社会的生産とは「権力への服従化の欲望」の社会的生産に他なりません。そしてオイディプス的家族はそのような「権力への服従化の欲望」を生産する社会秩序の縮図であるということです。


* オイディプスと服従集団

こうしたことからドゥルーズ=ガタリはオイディプスが欲望的生産に対して心的抑圧を課し、権力への服従化の欲望を生産する過程を次のように説明します。第一に接続的総合のオイディプス化です。接続的総合は欲望諸機械が横断的に互いに接続と切断を繰り返す過程からなるのでした。

彼らはこの過程を接続的総合の「部分的、非特殊的使用」と名付けていますが、この過程がオイディプス化によって「包括的、特殊的使用」へと包摂されます。この接続的総合の「包括的、特殊的使用」によって子供は近親相姦の禁止を通じて同性の親に同一化(オイディプス化)し、さらに自らが親となる異性愛的な婚姻関係においてオイディプスを再生産することになります。

第二に離接的総合のオイディプス化です。欲望諸機械はそれぞれが独自のコードを内包し、そのコードは多様であり、常に断片化されて他のコードと接続され、そこからコードの剰余価値を生み出し得ます。しかしオイディプス化はそのようなコードの多様性を抑圧し、父・母・子という家族三角形に縮減します。

第三に連接的総合のオイディプス化です。欲望諸機械はそれらが接続され、諸々のフローを消費することによって、その傍らに常に変容を続ける非人称的主体を生産します。ドゥルーズ=ガタリはこのような変容の主体の生産を連接的総合の「遊牧的、多義的使用」と名付けています。しかしオイディプス化によってそれは「隔離的、一対一対応的使用」に変容されます。

彼らのいう「隔離的、一対一対応的使用」とは社会野の規定と家族的規定との間に「一対一対応」の関係を形成し、その一対一対応に基づいて欲望的生産にオイディプス関係を写像して、欲望的生産の多様性を抑圧するものであり、それによって諸特異性からなり絶えず変容を繰り返す非人称的主体はオイディプス化された人称的主体へと個体化されることになります。

さらにオイディプス化は人種、国家、宗教といったある一つの超越的シニフィアンの下に統合された「集団」へと諸主体を同一化させることで「服従集団」の形成を導きもします。ここでいう「服従集団」とは「主体集団」に対立する概念であり、いずれもガタリが『精神分析と横断性』(1972)において導入した概念です。そしてドゥルーズ=ガタリは「服従集団」と「主体集団」を集団幻想との関係において定義しており、このような集団幻想としてのオイディプスこそが服従集団の形成に本質的な役割を果たしているということです。


* 資本主義と家族

以上のように欲望諸機械の徹底した生産性は反生産をもたらすオイディプスによって抑制=抑圧され、諸個人は服従集団へと全体化されることになります。そしてドゥルーズ=ガタリはオイディプス化を資本主義体制に固有の抑圧装置であると考えます。彼らによれば資本主義は「貨幣-資本」という形を取る生産のフローと「自由な労働者」という形を取る労働のフローとの出会いによって発生します。つまり資本主義は前資本主義におけるコード化や超コード化に代わる脱コード化の運動によって定義されることになります。

資本主義はこのようにフローの脱コード化という絶対的極限へと向かう分裂症的運動によって定義されます。しかし、その一方で資本主義は自らが解放したフローを公理系によって抑制し、内在的な相対的極限へと閉じ込めます。つまり国家とはこのような資本の公理系に要請されて脱コード化した諸々のフローを調整する装置に他なりません。こうした国家の役割は社会主義国家でも福祉国家でもさらには新自由主義国家においても同様に要請されることになります。

そして資本主義によって社会体が「貨幣-資本」として純粋に経済的なもの、抽象的なものとなることによって、家族は社会の外に置かれることになります。ドゥルーズ=ガタリはこれを家族の「私域化 privatisation」と呼びます。こうして家族が社会の外に置かれることで資本主義の公理系によって生み出された個人の社会的イメージ(言表の主体)はオイディプス化によって私的=家族的イメージ(言表行為の主体)へと「写像」されることになります。

このようなオイディプス化された主体の形成により、言表の主体(意識の主体)である社会的自我が言表行為(無意識の主体)である超越論的自我によって統御されるミシェル・フーコーのいうところの「経験的-超越論的二重体」としての「人間」が成立することになります。この経験的-超越論的二重体は権力に従順な仕方で自己を統治する服従化された主体そのものであり、そうした主体は欲望の生産性を自ら心的に抑圧することによって社会的抑制のメカニズムに自ら服従することを欲望します。この意味でオイディプス化は社会的統治のメカニズムであり、服従化の、そして服従集団の形成メカニズムであるといえます。

このようにオイディプス化は資本主義社会の再生産を欲望の水準において確保する、社会的統治のメカニズムであるといえます。しかしドゥルーズ=ガタリによればオイディプス化された主体が欲望の分子状多様体へと変容し、ヒエラルキー的な「服従集団」が横断的な「主体集団」へと変容するとき、資本主義はその下部から掘り崩されるといいます。そしてそのような変容は資本主義社会の再生産の「因果性の破断」、すなわち利害の水準における革命を通じて実現されることになります。

この点、革命的ポテンシャルをプロレタリアートに求める『アンチ・オイディプス』では服従集団から主体集団への変容はブルジョワジーに対するプロレタリアートの階級利害の追求を通じて実現されるということになります。こうした意味で服従化された諸主体としてのプロレタリアートは階級としての利害追求という革命的契機、いわゆる「レーニン的切断」によって、それまで社会体に服従させられていた欲望の生産的力能を発見します。

しかし同時にプロレタリアートが階級利害の追求に留まる限り、資本主義的利害に従属した服従集団から脱することはありません。けれどもプロレタリアートが階級利害の追求から欲望的生産を解き放つ「切断の切断」によって階級外集団である分裂者の主体集団を形成するとき、資本主義はその下部から掘り崩されることになります。


* オイディプスと格差社会

では、このようにドゥルーズ=ガタリが『アンチ・オイディプス』で提示した「利害から欲望へ」という政治プログラムは現代においてはいかなる局面で発動するのでしょうか。例えばドゥルーズ=ガタリの著作を「切断の哲学」という観点から論じた佐藤嘉幸氏と廣瀬純氏の共著『三つの革命−−ドゥルーズ=ガタリの政治哲学』(2017)はこうした階級の二極化(新たな階級の構成)を、2000年代以降の日本におけるプレカリアート運動の中に見出しています。

小泉政権の新自由主義改革の一環として雇用規制緩和が急速かつ強力に推し進められる中で、2000年代中頃に非正規雇用労働者の労組が複数創設されるなど日本でも本格化したプレカリアートの運動は、世界的経済危機が始まった2008年に「反貧困」の旗印の下で一気に可視性を獲得することになります。さらに2010年代になってアベノミクスが開始されると彼らは「反貧困」に変わる新たなスローガンとして「反富裕」を掲げるようになります。

この点「反貧困」がプレカリアート運動を「利害の水準」で規定するものだったとすれば「反富裕」は同じ運動を「欲望の水準」で規定し直すものであったといえます。今日の日本のプレカリアート運動において「反富裕」は互いに対立する二つの異なる意味を付与されています。一方は運動を「反貧困」と連続させ、他方は運動を「反貧困」から切断し、一方は労働者階級に敵対する新たな階級(プレカリアート)として割って出るアンダークラスの階級利害を強調し、他方はプレカリアートからさらに分裂者が階級外主体集団として割って出る欲望を表現します。

すなわち「反富裕」とは第一に貧者の富を収奪する富者への敵対を意味します。ここでいう「富者」とはブルジョワジーだけではなく、ブルジョワジーとの個別的な労働力の売買が従来通り等価交換にとどまっているタイプの労働者(主として正規雇用労働者)も含まれます。こうした今日的「富裕」に反対することが「反富裕」の第一の意味であり、これは「反貧困」のうちに既にそのネガとして含意されるものでした。

しかし「反富裕」はまた、労働者階級からプレカリアートが割って出る敵対的切断としての「反貧困」のさらなる切断(切断の切断)という意味でも語られます。常にいっそう豊かになりたい、常にいっそう富を蓄積したいというのは畢竟「欲望」の問題であって、その当人が富者であるか貧者であるは関係がありません。そして資本主義はこの欲望(オイディプス化)を社会的に生産し、家族や学校、マスメディア、ソーシャルメディアなどの装置を通じて一人ひとりの個人に刻みつけます。

「反富裕」の第二の意味はここから生じることになります。それはすなわち「反貧困」においてはまだ温存されていたオイディプス化との決別に他なりません。換言すればプレカリアート運動とは文字通りの「アンチ・オイディプス」として「反富裕」から資本主義をその下部から掘り崩していく創造的過程であるともいえるでしょう。こうした観点からいえばドゥルーズ=ガタリが提示した「切断の哲学」は様々な文脈において格差が拡大しつつある今日の社会における人々の欲望を問い直すための処方箋としても読めるのではないでしょうか。




















posted by かがみ at 22:55 | 精神分析

2026年04月25日

リゾームとリトルネロ、あるいは〈自閉〉から世界制作へ



* ハイモダニティとしての現代社会

現代はしばしポストモダンの時代であると呼ばれます。ここでいう「ポストモダン postmoderne」とはフランスの哲学者、ジャン=フランソワ・リオタールが『ポストモダンの条件』(1979)において提示した近代以降の時代を形容する概念です。それによれば近代とは「大きな物語 grand récit」によって意味と方向を与えられていた時代であり、ポストモダンはそうした「大きな物語」の終焉によって特徴づけられます。この概念をリオタール自身は近代の科学的知の正当化と、その基礎や準拠をめぐる議論のなかで用いていましたが、その後、この概念はリオタール自身の意図からある程度独立して近代から区別されるものとしての現代社会のあり方を表現するものとして広く用いられるようになります。

ここでいう「大きな物語」とは例えば、人間が知や啓蒙によって無知や隷属から解放されるという理念や、歴史が必然的に進歩するといった包括的な物語のことをいいます。こうした物語は科学を含む人間のさまざまな営みの正当化の基礎や準拠となり、それらに意味や方向を与えてきました。すなわち「大きな物語」の終焉であるポストモダンは、人間のさまざまな営みから安定した基礎や準拠が、そして統一的な意味や方向が失われる状況を意味しています。

これに対してイギリスの社会学者アンソニー・ギデンズは現代社会の様態を近代における世界像の変化のさらなる徹底と浸透を意味する「ハイモダニティ highmodernity」という概念から把握しています。ギデンズによれば近代以前では人々の営みやアイデンティティは彼らの所属する共同体やその伝統といったローカルで具体的な制度に枠付けられていましたが、近代はこうしたローカルで具体的な制度が諸々のグローバルな「抽象的システム」に変化していくことになります。

ここでいう「抽象的システム」とは特定に時間と場所を超えて流通し、利用、参照されるシステムであり、ギデンズはその例としてさまざまな物の交換を可能にする貨幣のような媒体や専門的な知識やサービスを挙げています。こうした「抽象的システム」のさらなる徹底と浸透した世界のあり方、自己のあり方を形容するのが「ハイモダニティ」です。つまりリオタールのいう「ポストモダン」が近代と現代との間にある種の断絶を見出す概念であるとすれば、ギデンズのいう「ハイモダニティ」は近代と現代を連続的に捉える概念であるといえるでしょう。

そして、こうした「ハイモダニティ」の中核に見出されるメカニズムが「再帰性 reflexivity」と呼ばれるものです。再帰性とは制度であれ人間であれ、自らのあり方を何らかの情報に照らして省りみることをいいます。近代以前には、その参照先は共同体やその伝統であり、これらの制度は当の制度自体に対しても人間に対しても、相対的に変化せず安定したものでしたが「ハイモダニティ」における参照先である「抽象的システム」は高度に専門化され絶えず更新され変動するようになります。

その結果、個人は自らのあり方を省みる上で、多様化を続ける情報を絶えず追跡、選択、フィードバックして、それに対する不断のモニタリングと修正が必要となります。しかも、その試みは当のその試みそのものによっても変化していく情報をさらに考慮に入れなければならず、こうなるともはや把握も統御も困難であり、定まった正解もゴールもないといった状態に陥ります。こうして「ハイモダニティ」における再帰性は個人に方向感覚の喪失をもたらすことになります。


* 存在論的安心と存在論的不安

ギデンズはこうしたハイモダニティにおける世界と自己のあり方を精神分析理論を援用し「存在論的安心 ontological security」と「存在論的不安 ontological enxiety」という観点から論じています。まずギデンズは『近代とはいかなる時代か?』(1990)において「存在論的安心」を「人間が自己アイデンティティの連続性に関して、そして行動の社会的および物質的な周囲環境の恒常性に関して持っている確信」と定義します。

我々は普段、自分の心臓が次の瞬間に鼓動を停止するのではないかとは通常考えません。いま歩いている地面が次の一歩で崩落するのではないかとも普通は考えないでしょう。 目を離して視界から消えた対象は、消滅するわけではなく、再び目を向ければそこにあると思っているし、眠るなどして意識が途切れても、自分というものが消えてなくなるわけではないと思っています。

そうした停止、崩落、消滅の可能性は絶対にないわけではなく、むしろ常にその可能性はあるのですが、そんなことをいちいち考慮していたら日々の生活は成り立たないでしょう。つまり、我々の日常が成り立つには自己の連続性と世界の恒常性はあらゆる検証に先立ってまず信じられていなければならないということです。この連続性や恒常性への意識されざる信頼や確信といったものがギデンズのいう「存在論的安心」です。

このように「存在論的安心」はそれを直視したなら日常が破綻しかねないような停止、崩落、消滅などの可能性を「括弧にくくる」こと、あるいはフィルタリングすることを可能にします。そしてギデンズはアメリカの精神分析家エリク・エリクソンの議論に基づいて、こうした「存在論的安心」の源泉を幼児期に母子関係を通して育まれた「基本的信頼 basic trust」に求めています。

エリクソンは『幼児期と社会』(1950)において人間の発達段階の最初期に達成され、アイデンティティの基礎となるものを「基本的信頼」として定式化しています。それは、幼児のさまざまな要求に、その庇護者たる母親が応答すること(世話を行うこと)を通して確立される信頼であり、こうした「基本的信頼」によって幼児は母親がいないときでも母が戻ってくると信じて耐えることが可能となります。いわば幼児は母が「見えなくても、離れていても大丈夫」というかたちで自己の連続性と世界の恒常性が信じられるようになるということです。

ギデンズはまた、イギリスの精神分析家ドナルド・ウィニコットが、やはり幼児期の母子関係のなかで切り開かれると考えられる「潜在空間 potential space」という概念を援用しています。ウィニコットが『遊ぶことと現実』(1971)で「潜在空間」と呼ぶものは幼児が母から分離するという外傷的で破滅的になりうる出来事に際して、現前と不在のあいだのある種の「緩衝帯」の役割を担い、それらを両立させ、なだらかに移行させる中間領域のことです。こうした「潜在空間」は「基本的信頼」を背景に機能するものであり「いま-ここ」という時-空間にないものを潜在的に携えておく力を育んでいきます。

これに対して「存在論的不安」とは、こうした「存在論的安心」における自己の連続性や世界の恒常性を信じることが困難な事態に他なりません。ギデンズは『モダニティと自己アイデンティティ』(1991)においてスコットランドの精神科医R・D・レインが報告する「根本的な存在論的不安の観点からのみ生じると示唆されるであろう不安や危険」を参照し、そのような不安や危険においては、自己の来歴の継続性についての一貫性の感覚の欠如や実存の危機の懸念への強迫的な固執などが見られるといいます。

そしてギデンズはこうした「存在論的不安」が今や病理や障害に限らず、ハイモダニティとその再帰性ゆえに今や多くの人々が「存在論的不安」を生きつつあるという可能性を示唆しています。ギデンズにおいてその可能性を示唆するのが日常的な習慣としてのルーティーンをめぐる議論です。ここでギデンズはその再帰性の中で「存在論的安心」が当然の前提ではなくなり「存在論的不安」が前景化してくるハイモダニティにおいて「存在論的安心」を維持していくものとしてルーティーンを位置付けています。


*〈自閉〉とリトルネロ

これに対して、小倉拓也氏は『〈自閉〉の哲学』(2026)において「存在論的安心なきルーティーン」から〈自閉〉という概念を問い直します。ここでいう〈自閉 Autismus〉とはかつては統合失調症に顕著な外界から内界への撤退を指す言葉でしたが、その後、それからは区別される症候群を指すものとなり、近年では「発達障害」の社会的な前景化、とりわけ「自閉症 autism」への注目をもとに哲学、とりわけ現代思想において大きな関心を集めています。

アメリカ精神医学会が刊行している『精神疾患の診断・統計マニュアル Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders :DSM』の最新版(DSM-V-TR)では「自閉スペクトラム症 Autism Spectrum Disorder:ASD」の診断基準となる行動上の特徴として「社会的コミュニケーションおよび対人的相互作用における持続的な欠陥」に加え「限定的で反復的な行動、関心、活動のパターン」が記されています。ここでいう「限定的で反復的な行動、関心、活動のパターン」とは具体的には⑴常同的、反復的な行動、対象の使用、発話、⑵同一性への固執、ルーティーンへのこだわり、儀式的な行動、⑶きわめて限定的で固定的な関心、⑷感覚刺激に対する過敏と鈍感、環境の感覚的側面に対する並外れた関心です。

こうした〈自閉〉における行動上の特徴をめぐる従来の議論は、それは治療すべき症状であると否定的にみるにせよ、あるいは反対に、それは才能や美点であると肯定的にみるにせよ、いずれにしても、いわゆる「正常」と比べて何かが決定的に「欠けている」という意味での「異常」として捉える点では一致していると思われます。これに対して同書は〈自閉〉についてそれが何が「欠けているか」ではなく、何を「行なっているか」を哲学的に洞察していきます。つまり〈自閉〉における常同的、反復的行為には、それ自体は必ずしも欠如ではない「同じでいる力」「反復する力」があると同書は考えます。

ここで同書の重要な参照項となるものがフランスの哲学者ジル・ドゥルーズと精神分析家フェリックス・ガタリがその共著『千のプラトー』(1980)において提示した「リトルネロ ritournelle」と呼ばれる哲学概念です。「リトルネロ」とは本来は音楽用語であり、楽曲のなかの反復し、循環する部分を指すものですが、ドゥルーズとガタリはこれを独自の哲学的な概念へと練成していきます。

ドゥルーズとガタリは前後左右不覚でただ立ち尽くすしかない「カオス」と呼ばれる状況において我々が自己を確保し、歩き出したり、立ち止まったりすることができるのは、あらかじめ備わった一貫した主体性によってではなく、暫定的で局所的なテリトリーを構築しようとする常同的、反復的行為を通してであると考えます。

こうしたリトルネロという観点からいえば、哲学や精神分析において「主体」とか「他者」などと呼ばれる超越論的審級は本来的なものではなく、むしろ常同的、反復的な行為の効果として、それが構築するテリトリーとともに形成されるものであるということです。このことは本来的でそれゆえに内面的とされる秩序やその中心が、実は非本来的でそれゆえ外面的な水準においてその都度形作られることを示唆しています。

すなわち、同書の問う「存在論的安心なきルーティーン」としての〈自閉〉とは、同書が〈現前〉と呼ぶ世界が自己にあらわとなり自己が世界にさらされる無媒介的かつ情報過多的かつ感覚過敏的な状況において、本来的にインストールされているべき超越論的審級なしに、非本来的な常同的、反復的な行為をとおして、外面的な工夫によって生き抜いていくための生の技法であるといえるでしょう。


* それでもひとりでいる力

このように同書は〈自閉〉における常同的、反復的な行為が何を「欠いているか」ではなく、何を「行なっているか」を問います。もっとも、こうした問題提起をすでにウィニコットが半世紀以上前に「ひとりでいる能力」(1958)という名高い論文において行なっているものです。しかしウィニコットが考える「ひとりでいる能力」と同書のいう〈自閉〉には決定的な違いがあります。

この点、ウィニコットは「ひとりでいる能力」をある種の逆説として提示しています。それは、ひとりでいることが「他の誰かがいるときにひとりでいるという経験」に、より具体的には「幼児や小さな子どものように、母がいるところでひとりでいるという経験」に基づいているという逆説です。このウィニコットの逆説は先述した基本的信頼及び潜在空間と同様の論理に依拠しています。つまりウィニコットのいう「ひとりでいる能力」とはギデンズのいう「存在論的安心」と不可分のものであり、それゆえに「存在論的安心」を欠く場合、人は「ひとりでいる能力」を行使することは原理的にできないということです。

またエリクソンにも同様の問題を見出すことができるでしょう。エリクソンは『幼児期と社会』において、子どもの「ひとり遊び」を自分自身の身体を対象にして遊ぶ「自己宇宙 autocosmos」から始まり、おもちゃを思いのままに操作する「小宇宙 microsphere」を経て、他者と共有する世界である「大宇宙 macrosphere」へ至る展開として把握しています。しかし同時にエリクソンは「自己宇宙」における「母との相互作用」を、子どもの生にとって決定的なものとみなしています。すなわち、エリクソンにとって子どもの「ひとり遊び」とは「ひとり」でいるように見えて実際には母との相互作用からなる「基本的信頼」に支えられて、はじめて可能になっているということです。

こうしたことから同書は〈自閉〉における常同的、反復的な行為が持つ、つまりリトルネロにおける「同じでいる力」「反復する力」を基本的信頼や潜在空間や存在論的安心といたものがなかったとしても「それでもひとりでいる力」であると位置付けます。それはすなわち〈現前〉のなかで〈現前〉に抗して〈現前〉とともに生きる力であるということです。


* リゾームとリトルネロ、あるいは〈自閉〉から世界制作へ

周知のようにドゥルーズとガタリは1970年代の大陸哲学に大きなムーヴメントを巻き起こした『アンチ・オイディプス』(1972)において人間の欲望を「欠如」を埋める運動ではなく、生産する力として捉え直し「欲望機械」という概念を提示しました。ここでいう「欲望機械」とは身体、社会、制度といった諸要素が相互に接続しながら現実を生み出す生成の装置であり、欲望はこうした機械的連結を通じて絶えず流れ、切断され、再び結びつくものであるとされます。

そして『千のプラトー』において、こうした欲望観は「リゾーム」と呼ばれる世界観として提示されることになります。ここでいう「リゾーム」とは中心や階層を持たず、どこからでも接続し増殖していく地下茎のようなネットワークであり、欲望機械の連結が社会、文化、知の配置として広がる様態を示すものです。

こうしたリゾームという世界観の展開を支える脱領土化/再領土化という反復運動がリトルネロであるといえるでしょう。つまりリゾームが無数の接続と展開のネットワークだとすれば、リトルネロはリゾームの展開を実際に駆動させる具体的なプロセスだと言ってよいでしょう。こうした意味で「存在論的安心なきルーティン」としての〈自閉〉がもたらす「それでもひとりでいる力」とは同時に「世界を制作する力」であるといえるのではないでしょうか。




















posted by かがみ at 23:00 | 精神分析

2026年03月20日

権力とセクシュアリティ



* アセクシュアルとアロマンティック 

近年においては「LBGT」や「LGBTQ」といった言葉で性的マイノリティの認知度が高まり、そうした人々に対する差別を問題視する考え方も広まりつつあります。その一方で従来の性的マイノリティに関する議論から取りこぼされてきたセクシュアリティとして「アセクシュアル」と呼ばれる人々や「アロマンティック」と呼ばれる人々がいます。

「アセクシュアル」とは「他者に性的に惹かれないという性的指向」のことをいいます。これは世界最大規模のセクシュアルコミュニティであるAVEN(Asexual Visibility and Education Network)のウェブサイトで掲げられている定義です。アセクシュアルの「ア a」という接頭辞は「否定」を意味しています。つまり文法的にいえば「セクシュアルではない」という意味です。またここでいう「性的指向 sexual orientaion」とは「どの性別の人に対して性的に惹かれるのか」を表す言葉であり、異性愛や同性愛、バイセクシュアルやパンセクシュアル(性的に惹かれるかどうかの基準に性別が無関係であるセクシュアリティ)などが含まれます。

「アロマンティック」とは「他者に恋愛的に惹かれないという恋愛的指向」のことをいいます。ここで重要なのは「性的」ではなく「恋愛的」という言葉が使われている点です。ここでいう「恋愛的指向 romantic orientation」とはどの性別の人に対して恋愛的に惹かれるのかを表す言葉です。そしてこの恋愛的指向と性的指向の区別は両者が必ずしも一致しないということを意味しています。恋愛的惹かれはないけれど性的に惹かれることがある場合や、逆に性的惹かれはないけれど恋愛的に惹かれることがある場合や、性的に惹かれる対象と恋愛的に惹かれる対象が異なる場合もあるということです。

これに対してアセクシュアルやアロマンティックではない人は「アローセクシュアル」「アローロマンティック」と呼ばれます。ここでいう「アロー allo」という接頭辞は「他のものに向かう」という意味で用いられています。異性に惹かれる人のみならず同性に惹かれる人であっても他者に惹かれるという意味では同じ括りに入ります。

なぜわざわざアローという言葉が使われるのかというと、アセクシュアルやアロマンティックでは「ない」人は「普通」であるという発想を問い直すためです。すなわち「普通」とされるマジョリティの人々のあり方も性的指向や恋愛的指向の一つとして位置付けられるものにすぎないということです。

またアセクシュアル/アロマンティックとアローセクシュアル/アローロマンティックの間を連続的なスペクトラムとして捉える言葉として「グレーセクシュアル」や「グレーロマンティック」という言葉があります。さらに詳しい要素を言い表す言葉(マイクロラベル)として「デミセクシュアル/デミロマンティック(基本的に他者に性的/恋愛的に惹かれることはなく、情緒的なつながりができた相手にのみ性的/恋愛的惹かれを抱くことがある)」「リスセクシュアル/リスロマンティック(他者に性的/恋愛的に惹かれることはあるが、相手からその感情を返してほしいとは感じない)」「エーゴセクシュアル/エーゴロマンティック(性的/恋愛的表現を愛好したり性的/恋愛的空想をしたりするが、自ら性愛/恋愛に参与したいとは望まない)」などがあります。

そしてこのような様々なマイクロラベルを含めた総称としてAro/Aceという言葉が使われることがあります。アセクシュアル・スペクトラムについて包括的に表す言葉がAceであり、アロマンテック・スペクトラムを包括的に表すのがAroです。このように一方でマイクロラベルの細分化によって多様な経験を言語化しつつ、他方でさまざまなマイクロラベルを包括する総称によって連帯を志向するというAro/Aceにおける実践はセクシュアリティをめぐる様々な常識を根本的に問い直す実践であるともいえます。


* 病理化から性的指向へ

性的欲望が低い状態は19世紀ごろから精神医学の中で「冷感症 frigidity」や「性的不感症 sexual anesthesia」などとみなされ病理化されてきました。このような理解を提示している典型例が性的倒錯の研究で知られる19世紀の精神科医リヒャルト・フォン・クラフト=エビングの著作であり、この議論は日本でも精神医学的な知識として輸入・翻訳されてきました。ここでは性的欲望を欠いている人は端的に病気であり、治療すべきものだとみなされていました。

これに対して20世紀中頃になると、性科学の領域でもアセクシュアルに近い概念が生み出されることになります。その初期の例がアルフレッド・キンゼイの研究です。キンゼイは人間の性的指向は異性愛から同性愛まで連続的なものだという発想から「キンゼイ・スケール」を提示したことでも知られています。この理論は完全な異性愛(0)から完全な同性愛(6)まで7段階のグラデーションがあるというものです。

ところがこの議論の中でキンゼイは7段階のスケールのどこにも当てはまらない人々がいると指摘しています。それが「社交的性的接触または反応でないもの」を指すグループ「X」です。ここではアセクシュアルという単語自体は出ていませんが、性的接触や性的反応を欠いている人々が異性愛-同性愛のグラデーションの外側として位置付けられたことになります。

1970年代後半から1980年ごろになるとアセクシュアルという言葉を性的なあり方のひとつに明示的に位置付ける研究が登場します。そのひとつがマイケル・ストームスの研究です。ストームスは異性に対する性的欲望の程度を横軸に、同性に対する性的欲望の程度を縦軸にしたふたつの軸による四象限図式を提示し、この四象限のうち、異性への欲望も同性への欲望も「低い」という位置が「無性的」と表記されました。この時期からアセクシュアルな人々の存在が意識されるようになったといえます。

その後、アセクシュアルをめぐる議論に大きな影響を与えたのがカナダの心理学者アンソニー・ボガートの研究です。これは1994年にイギリスで行われた全国調査を再分析したもので「誰に対しても性的惹かれをまったく感じたことが一度もない」人の割合が約1パーセントだということを示したものです。この数値をもとにボガードはイギリスのアセクシュアル人口は約1%だと論じています。

これはアセクシュアルの人口割合を計量的に示した画期的な研究であり、アセクシュアルに関する研究や議論を活発化させる大きなきっかけとなりました。そして現在ではアセクシュアルは性的指向のひとつとして扱われており、アセクシュアルを病理とみなす発想が明確に批判されています(もっともボガードが「真の」アセクシュアルは「性的惹かれや性的関心の完全な欠如」であり「ハードコアなアセクシュアル」であると定義した点にはアセクシュアル(あるいはセクシュアリティ一般)の実態に即しておらず、さらに何らかの基準でアセクシュアルを「本物」か「偽物」かに二分することでスペクトラムの人々を無視することになるという批判もあります)。


* DSMの変遷とアセクシュアル

こうした性科学の議論は精神医療の臨床にも影響を与えてきました。そのことを見て取れるのがアメリカ精神医学会が出版している『精神疾患の診断・統計マニュアル Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders :DSM』です。このマニュアルは何度か改訂されており、2013年に第5版(DSM-V)が刊行され、現在ではその修正版(DSM-V-TR)が最新版として使われていますが、第5版に改訂されるまでアセクシュアルは実質的には病気として扱われていました。

まず1952年の第1版(DSM-T)と1968年の第2版(DSM-U)では「冷感症 frigidity」や「膣けいれん vaginismus」や「性交疼痛症 dyspareunia」といった用語が掲載されています。だた、この時期には「性欲がない」状態は治療対象として扱われていませんでした。しかし1980年の第3版(DSM-V)では「性心理的障害 psychosexual disorders」という項目が導入され、そのなかに「機能性不感症」「機能的膣けいれん」「性的欲求の抑制」といったものが含まれていました。

そして1987年に第3版の改訂版が出版されますが、その時に「性的欲求低下障害 Hypoactive Sexual Desire Disorder:HSDD」が記載され、診断すべき病気として扱われるようになります。ここでいうHSDDとは「持続的または再発的に性的な空想や性行為への欲求が欠落している、または欠如している」と定義されていました。その後、1994年の第4版(DSM-W)ではHSDDは「苦痛」を伴うものであるという要件が追加され、当人が苦痛を感じていなければHSDDとは診断しないと明示されました。

こうしたHSDDの診断基準にはアセクシュアルの立場から批判がなされていました。HSDDとアセクシュアルがいずれも「性的関心の欠如」という点で一致していることから、両者が混同されやすいという問題があるからです。また「苦痛」という要件にも疑問が提起されていました。「性的欲望を欠いていることで苦痛を感じる」といっても、その苦痛の原因は「性的欲望を欠いていること」それ自体ではなく、性的欲望があることを「当たり前」で「望ましい」ものとみなす社会的風潮にあるのではないかということです。

こうしたことからアセクシュアルの当事者団体であるAVENはアセクシュアル研究者やフェミニスト研究者とともにDSMの改訂に向けた働きかけを行い、2008年に始まったDSM改訂会議においてアセクシュアルに関する調査報告と提言を行います。そのような活動を通じて第5版(DSM-V)においてはHSDDの代わりに「女性の性的興奮/関心の障害」と「男性の性欲低下障害」という診断項目がそれぞれ設定されることになります。そしてそこでは「アセクシュアルを自認する人は診断されない」という例外規定が明記され、アセクシュアルは「病気ではなく性的指向」して位置付けられることになります。


* 周縁化と規範性

以上で見たようにアセクシュアルは近年まで実質的に「病気」であるとみなされており、現在においても社会では医療や教育の現場を含め、依然としてこうした見方が存在しています。松浦優氏が昨年上梓したAro/Aceについての包括的な概説書である『アセクシュアル/アロマンティック入門』(2025)では英語圏での調査をもとに、こうしたAro/Aceが被る差別や困難を@病理化、A性的/恋愛的衝突、B社会的孤立、C認識的不正義として整理しています。

最後の認識的不正義とはイギリスの哲学者ミランダ・フリッカーの造語で「人種、民族、階級、ジェンダー、セクシュアリティ、国籍などの社会的アイデンティティに対する悪質なステレオタイプが原因で、一部の人々が知識の主体としての能力を貶められる不正のこと」と定義されます。現在では様々なタイプの認識的不正義があると指摘されていますが、フリッカーが当初に挙げたのが証言的不正義と解釈的不正義です。

まず証言的不正義とは「聞き手、偏見のせいで話し手の言葉に与える信用性 credibility を過度に低くしてしまう」というものであり、Aro/Aceにおける典型例としてはカミングアウトした当事者が「まだいい人に会っていないだけ」などと相手に打ち消されてしまうケースです。次に解釈的不正義とは「人々が自分たちの社会的経験を意味づける際に、集団的な解釈資源にあるギャップのせいで、不利な立場に立たされてしまう」というものであり、Aro/Aceにおける典型例としてはアセクシュアルやアロマンティックという言葉を知る機会がなかったため、自分の経験や感覚をうまく言語化できず思い悩むというケースが挙げられるでしょう。

こうしたAro/Aceが社会の中で周縁化されてしまう背景には恋愛や性愛を「あたりまえ」のものとみなす社会規範があることはいうまでもありません。同書は性的なマイノリティについての研究分野であるクィア・スタディーズの知見をもとに、こうしたAro/Aceを取り巻く「〜べきである」という様々な規範を取り上げています。

この点、クィア・スタディーズにおいてセクシュアリティに関する規範としてまず挙げられるのが「異性愛を当然のものとして誰もが異性愛者であるはずだ」とみなす「異性愛規範 heteronormativity」です。もっとも異性愛が相対化され同性愛差別が批判されたとしても、それでもなお取りこぼされる「誰もがセックスを欲望するはずだ」という思い込みを問い直すため生まれた概念が「強制的性愛 compulsory sexuality」です。また「一対一の恋愛や結婚には特別な価値がある」という思い込みは「恋愛伴侶規範 amatonormativity」と呼ばれます。

これらの概念は英語圏に由来するものですが、日本語圏でも草の根的に提起されてきた関連概念として「対人性愛中心主義」が挙げられます。これはマンガやアニメなどのいわゆる「二次元」の性的創作物を愛好しつつ生身の人間に性的惹かれを経験しないという人々が使い始めた言葉です。本書がいうように、こうした人々は一見するとアセクシュアルとは無縁のように思われるかもしれませんが「生身の人間には性的惹かれを経験しない」という点でアセクシュアルの人々と重なる部分があるといえます。


* 性の言説化とセクシュアリティの装置

では、このようなセクシュアリティや恋愛に関する規範性はどのようにして存在するのでしょうか。またどのようにすれば変化させることができるのでしょうか。こうした規範性を把握するための理論を打ち出した重要な論者として同書はミシェル・フーコーを取り上げます。フーコーは西洋におけるセクシュアリティの歴史を分析した『性の歴史T』(1976)において近代社会においてはセクシュアリティに関する言説が激増したことを指摘しています。例えば「同性愛は抑圧すべきだ」と主張する言説も「同性愛を抑圧することは不当だ」と主張する言説も、その内容は相反していますがどちらも同性愛について積極的に語っています。近代社会では同性愛に限らずさまざまなセクシュアリティについて、こうした性の「言説化」という現象が生じたとフーコーはいいます。

そしてフーコーはこうした性の「言説化」のメカニズムとして人々は性について語ることを「権力」によって煽り立てられていると主張します。ここでいう「権力」の典型例がキリスト教における「告解」です。「告解」というのは司祭に向かって自らの罪を洗いざらい告白するという実践です。告解そのものはカトリックの伝統として近代以前から行われてきましたが、17世紀になると性的なことがらが告解のなかで非常に重大なものとみなされるようになり、自らの性的な行為や欲望について包み隠さず言語化するよう極めて執拗に促されるようになります。さらに18世紀になると性について語らせる仕組みが宗教的なものから科学的なものに広がっていき、性的な事柄は特に医学、精神病理学、教育学、犯罪学などの学問の対象となります。こうした学問をフーコーは「告白という科学」と呼びます。

そしてこうした言説の中で例えば「同性愛者」といった概念が生み出され、こうした分類が出来上がることで同性と性行為をする人々は「同性愛者」という分類を押し付けられ、その結果、彼らに「同性愛者」というアイデンティティが生じることになると同時に「同性愛者」と分類された人々をターゲットとして例えば治療や差別といった形で権力による介入が行われることになります。もちろんこれは同性愛者だけに限った話ではなく、そもそもセクシュアリティなる領域そのものがこうした言説と権力の絡み合いを通して生み出されてきたといえます。こうして誰もがセクシュアリティを内に秘めているという発想とともに「私は何者か」というアイデンティティ問題が性的なことがらと強く紐づけられることになりました。

以上のような事態をフーコーは「セクシュアリティの装置」と呼んでいます。「装置」といっても何かしらの物理的な機械ではなく「性についての言説を生産する仕組み」のことを指しています。こうした意味でのセクシュアリティの装置は様々なものによって構成されており、制度、施設、社会通念、学術的な知識などが要素として挙げられています。


* 権力とセクシュアリティ

では、フーコーはこうした状況を変えるにはどのような抵抗をすればよいと考えていたのでしょうか。この問題についてはフーコーが「権力」というものをどう考えていたかが重要になってきます。権力というと支配者が弱い人を力づくで一方的に従わせるというイメージが強いかもしれませんが、フーコーの考える権力とは「無数の力関係」のことです。フーコーは権力を数多くのモノや人が関わる錯綜した網の目の中を色々な「力」が流れているというイメージで捉えています。

それゆえに権力は変化する可能性に開かれています。一見、強固な権力もいくつかの力の流れが合流することで結果的に出来上がるものであり、水路の水の流れを変えるように、新しい流れを生み出したり、流れの量を調整することで、こうした権力もゆっくりではあるかもしれないけれども変わっていく可能性があるということです。

こうした権力観を踏まえた上でフーコーが提示する抵抗戦略の一つが支配的な言説を逆手に取るというものです。その例としてフーコーが挙げるのが同性愛者の社会運動です。同性愛者の社会運動は精神医学の言説によって生じた「同性愛者」という概念を当事者が奪い取って自分達の反差別運動へと流用することで展開されました。こういった抵抗の重要性をフーコーは高く評価します。

ただし同時にフーコーはこうした戦略の限界も指摘しています。セクシュアリティをめぐる言説を逆手にとって流用するという戦略は依然としてセクシュアリティの装置の内部で起きるものであり、セクシュアリティの装置を構成している個々の要素は変化するかもしれませんが、あくまでセクシュアリティの装置そのものは温存されることになります。

では、セクシュアリティの装置はどうすれば解体できるのでしょうか。換言すれば誰もがセクシュアリティなるものに囲い込まれる状況はどうすれば崩すことができるのでしょうか。この問題についてフーコーは即効的な特効薬は示していませんが、いくつかのヒントや方向性を提示していると同書はいいます。

その一つがセクシュアリティの装置がどのようなあり方をしているのか、精緻に捉えていくというものです。セクシュアリティが重要なものと見做されている状況そのものを、じっくりと分析し、セクシュアリティの装置をメタ的に捉え直すことで、そこから距離をとることが可能となります。フーコーが『性の歴史T』で行ったことはまさしくこの作業であったといえます。

こうしてみるとアセクシュアルやアロマンティックについての議論は例外的な少数者に関する議論ではなく実は多くの人々にも深く関わってくるものといえるでしょう。そもそも人が誰か「好きになる」とはどういうことなのでしょうか。答えはいろいろあるでしょう。性的に魅力を感じる、恋愛感情を抱く、美しいと感じる、面白いと思う、尊敬や憧れを覚える等々。「好き」という言葉には様々な要素が含まれています。そしてこれらの要素は必ずしも結びついているとは限りません。例えば性的魅力と恋愛感情は必ずしも結びついているとは限りません。あるいは性的欲望は必ずしも実際の性交渉への欲望に結びついているとは限りません。

そしてアセクシュアルやアロマンティックと呼ばれる人々はこうした「好きになる」という漠然とした枠組みでは捉えられないような経験を言語化していく過程で性や恋愛に関する認識を精緻化してきました。それゆえにアセクシュアルやアロマンティックに関する議論は一見ありふれた日常的な営みであるとみなされがちな「性」や「恋」をより深く理解する契機にもつながってくるといえるでしょう。























posted by かがみ at 00:17 | 精神分析