【参考リンク】 ラカン派精神分析の基本用語集

2019年03月30日

ララングの生理と病理



* 「欲望」から「享楽」へ

1950年代までのジャック・ラカンの精神分析理論は「欲望」を中心概念として構築されてきました。ところが1960年代に入り、徐々に「欲望」は背後に退き、入れ替わるように「享楽」という概念が前景化してきました。

この点、ラカンは当初「対象 a 」という概念を通じて享楽を捉えました。しかし、1970年代になるとラカンはその対象 a ですらも「みせかけ」であると言い出すようになります。

では「みせかけ」ではない享楽があるとすれば、それは何処にあるのでしょうか?ここでラカンが導入したのが「ララング」の概念です。


* 〈一者〉

ラカンは、セミネール19「ウ・ピール(1971〜1972)」において、症状の「象徴的側面」を問題とする存在論を使う限り、症状の「現実的側面」を捉えることはできないと述べ、次にセミネール20「アンコール(1972〜1973)」における性別化の式の構築過程で従来の「ファルス的享楽」とは異なる「〈他なる〉享楽」を発見し、存在論から〈一者〉論へ軸足を移します。

〈一者〉とは子どもが初めて言語と遭遇した時、その身体にトラウマ的に刻まれる原初的満足体験の痕跡をいい、ここで齎される満足を「〈一者〉の享楽」といいます。

そしてこの「〈一者〉の享楽」は子どもが最初に遭遇するシニフィアンである「ララング(S1)」に紐付けられる事になります。


* ララング

「ララング(lalangue)」とはラカンの造語で、冠詞付きの国語(la langue)の冠詞と名詞を一語に融合させたものです。

子どもの身体がララングと遭遇した時、その痕跡は「一の印」としてトラウマ的に身体に刻み込まれ「〈一者〉の享楽」がもたらされます。

つまり、子どもにとってこのララングはコミュニケーション手段ではなく「〈一者〉の享楽」の再現手段としての私的言語ということになります。

その後、多くの子どもはコミュニケーション手段としての言語(langage)の世界(象徴界)へと参入し、次第にララングと折り合いをつけていった結果、例の「言語によって構造化された無意識(S2)」というものが形成されるわけです。

しかし一方でララングに刻まれた「〈一者〉の享楽」は、シニフィアンの構造化に回収されることはなく、対象 a の形をとって回帰し、症状の「現実的側面(症状の根)」を構成します。

心を病んでしまった人がリストカットを繰り返したり、ギャンブル、アルコール、薬物への依存からなかなか抜け出すことができないのは、その根本において「〈一者〉の享楽」の反復があるからです。


* 逆方向の解釈

「〈一者〉の享楽」の前では「欲望」は二次的な概念に過ぎなくなります。「欲望」とは周知の通り象徴的秩序を前提として生み出された「〈他者〉の欲望」であり、いくら「〈他者〉の欲望」を弁証法化させたところで主体における特異的(単独的)な「〈一者〉の享楽」を捉えることはできないからです。

こうして現代ラカン派の臨床においては、症状にS3、S4と意味を付け加え続ける古典的解釈(順方向の解釈)ではなく、逆に症状の意味を削減してS1を析出させる「逆方向の解釈」が重視されることになります。

そしてそこでは最晩年のラカンが言うように、主体自身が「症状とうまくやっていく」という特異的(単独的)な解決が目指されているわけです。


* 「これでよい」と思えるということ

「症状とうまくやっていく」。ラカンはここで別に奇抜な主張をしているわけではなく、むしろ人生論的意味ではきわめてまっとうなことを言っていると思います。

我々はいつのまにか「普通こうである」という「〈他者〉の欲望」をあたかも自分の欲望であるかの如く思い込んで生きているわけです。

普通の感性、普通の意見、普通の生活、普通の人生。

もちろん、人は社会とのつながりの中で生きていくわけですから「〈他者〉の欲望」というのもある程度は大事です。

けれど「みんなやってるから私もしなくちゃ」「みんなできているのに私はできない」といった、本来ありもしない「みんな」などという〈他者〉が産み出す幻想に囚われてしまえばそこから様々な生きづらさが生じてくるわけです。

臨床心理学者の河合隼雄氏は「心」を超えた「たましい」の重要性を強調します。ユング派の分析家である河合氏はおそらくユングの言う「自己」を念頭に置かれていると思いますが、ここでいう「たましい」とはフロイトがいう「エス」、そしてラカンがいう「ララング」に通じるものがあります。

つまり、その時その時において、自分が執着しているもの、囚われているものは本当に自分の「たましい」に響く何かなのか?を問い続ける事が自らの内にある「〈一者〉の享楽」を追求していく営みになるという事です。

こうした営みを積み重ね「〈他者〉の欲望」と「〈一者〉の享楽」との間の何処かに「これでよい」と思える自分なりの特異的な調和点を見出す事が出来た時、人はきっと、その人なりの幸福を生きていけるのではないでしょうか。





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2019年02月26日

欲望なき享楽社会と母性のディストピア



* 構造はいかして街頭に繰り出したのか?

ジャック=ラカンは1960年代後半より、我々の社会における様々な言説を分類した理論「4つのディスクール」の構築を開始します

「4つのディスクール」の理論はセミネール16「ある大他者から小他者へ(1968〜1969年)」、セミネール17「精神分析の裏面(1969〜1970年)」、そして、1970年のラジオ放送「ラジオフォニー」の中でほぼ練り上げられたものです。

「4つのディスクール」が生み出された背景には当時のフランスの政治状況があります。シャルル・ド・ゴール体制が生んだ経済格差に労働者や学生が反発し、1968年5月にいわゆる「五月革命」が勃発します。そういう社会情勢において、ラカンはもはや旧態依然と見做された「構造主義」の論客として「保守的知識人」のレッテルを貼られる憂き目に遭います。

1968年5月、ソルボンヌの黒板に「構造は街頭に繰り出さない」というアジテーションが走り書かれました。これに対し、ラカンは「五月革命が何らかの出来事を証しているとすれば、それは『構造が街頭に繰り出していった』ということにほかならない」と反論します。

すなわち「4つのディスクール」とはまさにこの問題を主題とするのであり、ラカンの精神分析理論がいかにして「街頭に繰り出すか」を示すものになっているわけです。


* 「主人のディスクール」と「資本主義のディスクール」

4つのディスクール.png

「4つのディスクール」の理論の基本構造は「真理(左下)」「動因(左上)」「他者(右上)」「生産物(右下)」という4つの位置と「主人(S1)」「知(S2)」「主体($)」「剰余享楽( a )」の4つの要素との対応関係を問うものです。

基本的な法則は「真理」によって支えられた「動因」が「他者」に命令し、結果「生産物」が産出されることになります。もっとも、「真理」と「生産物」の間は遮蔽されており、両者を一致させることは構造的に不可能とされています。

近代的意味の成熟とは「主人のディスクール」が示すように、個人(S1)が社会(S2)と関係(→)することで喪失した特異性(a)の欠如(//)を受け入れ「市民」という社会的存在($)になるというプロセスに他なりません。

つまり、ここで「知(S2)」は「主体($)」と「剰余享楽( a )」を切断する「父」として機能することになります。

ところが現代社会はこうした成熟の回路がうまく機能しません。社会が「大学のディスクール」で運営された結果、真理から隔絶した「大衆」が生み出され、その「大衆」は「ヒステリー者のディスクール」により社会に対して「欲しいものが欲しいわ」と欲望を要求することになります。

こうして現代においては「大学のディスクール」と「ヒステリー者のディスクール」が結託した結果「新たな主人のディスクール」として「資本主義のディスクール」が現れるわけです。


* 欲望なき享楽社会

資本主義のディスクール.png

資本主義のディスクールにおいては、「主体($)」が「主人(S1)」に向けて述べたてる要求は統計学的処理によってデータベース的「知(S2)」を構成し、剰余享楽は計量可能なものとなります。

結果「主体($)」は市場のそこらかしこに氾濫する無数の製品、サービスといった「剰余享楽( a )」の終わりなき消費を通じて、資本主義システムという「主人(S1)」の自覚なき奴隷の一人となります。

このように資本主義のディスクールの無限循環における「主体($)」とは現代を生きる我々消費者の姿そのものに他ならないでしょう。

我々は剰余享楽の氾濫の中で、自分が一体何を欲望しているのかわからないまま享楽させられ続けられ、ここに欲望なき享楽社会が出現するわけです。


* 母性のディストピア

上の図から明らかなように資本主義のディスクールで「知(S2)」は「主体($)」と剰余享楽を切断する「父」としての機能ではなく、「主体($)」に剰余享楽を無限に供給する「母」としての機能を持っているということです。

この点、評論家の宇野常寛氏が現代社会の病理構造を「肥大化した母性」と「矮小な父性」が結合した「母性のディストピア」と名付けていますが、このネーミングは資本主義のディスクールの本質を的確に言い表しているでしょう。

今や誰もが肥大化した情報環境という「母」の膝下で、見たい現実だけを見て、自分が信じたい物語を信じて「父」となる夢を見ることができる。けれどそれは幼児的万能感と他者排除が支配する殺伐とした救いなき世界でもあります。近年における「新型うつ病」「パーソナリティ障害」「発達障害」の増加はこのような文脈からも読み解くことができるでしょう。

こうして、かつてラカンが示した「構造」は現代において、街頭に繰り出すどころか世界中を席巻することになってしまったわけです。


* 現代における「成熟」とは何か?

「大きな物語」が失墜し、グローバル化と情報化が進展する今日、「資本主義のディスクール/母性のディストピア」は今日ますます肥大化する一方です。

こうした環境においてはもはや「父」になるとかならないとかいう近代的成熟の問題は意味をなしません。今や誰もが自分の「小さな物語」の中で自動的に「父」として機能するからです。すなわち、現代的成熟とは互いに異なる「小さな物語」を生きる他者同士がいかに関係していくかという問題に他ならないわけです。

誤配のない優しい世界で夢を見るのか?それとも誤配を承知で新しい可能性を切り開きに行くのか?

現代を生きる我々は、そういう厳しい問いを常に突きつけられているということです。少なくともその事実には自覚的でなければならないでしょう。




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2019年01月31日

精神病圏の諸相



* はじめに

1998年、École de la cause freudienne(フロイト大義学派)において、かのジャック=ラカンの娘婿、ジャック=アラン・ミレールにより「ふつうの精神病」なるカテゴリが提唱されます。ミレールは次のように言います。

精神分析の歴史においては、並外れた精神病に、ほんとうに何もかもぶち壊すような人々に、監視が向けられてきたことは言うまでもない。

シュレーバーがわれわれの間で精神病の「顔」になってどれくらいの時間がたつだろう。ところが、われわれがここで注目しているのはもっと控えめな精神病者たちであり、彼らはあっと驚かせるというのではなく、ある種の凡庸さの中に溶け込んでしまいうる。

代償機能がうまく働いている精神病、サプリメント入りの精神病、発症せざる精神病、加療された精神病、セラピー中の精神病、分析中の精神病、進行しつつある精神病、サントームつきの精神病ーーーそんな言い方ができるだろう。

〜「La psyshose ordinaire,Agalma/Seuil」より


「ふつうの精神病」とはなんでしょうか?従来の精神病とは何が違うのでしょうか?


* 鏡像・エディプス・去勢

まずはおさらいです。ラカン派精神分析においては、人は鏡像段階、エディプス段階、去勢段階を経由することで精神病圏から神経症圏へと遷移するとされています。

鏡像段階とは、生後6ヶ月から18ヶ月の間の時期の乳幼児が鏡を見て自我を獲得するという発達段階概念です。鏡像段階においては、依然として自己統一感を与えうるほど神経系が発達していないにもかかわらず、自我や自己身体像が形成されると言われています。

次いで、エディプス段階において子どもと〈母親〉の二者関係に〈父親〉が第三項として介入してきます。そして、去勢段階において、子どもは〈父の名〉を受け入れることでファルス機能を授かります。これがラカン派的「正常な」発達段階論ということになります。


* 従来型精神病〜並外れた精神病

〈父の名〉とは、現前不在を繰り返す「母の欲望」を置き換えることで象徴界を統御するシニフィアンです。そして、ファルスとは、異性愛を可能とし現実感を獲得する為のシニフィアンです。

つまり、エディプス段階を経由できていない場合、〈父の名〉が排除されており、ファルスも機能していないわけです。

結果、現実感や自明性の喪失に晒され、異性愛を築く上でも困難を抱えることになる。これが精神病圏です。

発病前の精神病圏者とは3本足でかろうじて安定しているテーブルのようなもので、欠けている4本目の足こそが〈父の名〉です。この〈父の名〉の参照エラーにより、3本足のテーブルが引っくり返った段階がまさに精神病発症の時です。

この時、主体は「ひそやかな圧倒」により前鏡像段階への退行が生じ身体寸断状態となり、一方で排除された〈父の名〉は外部から幻覚として回帰してきます。

もっとも精神病の中でも比較的軽症のパラノイアの場合「ひそやかな圧倒」に対し妄想が防波堤として機能することで前鏡像段階への退行を免れ、一応の人格レベルはある程度は維持されます。


* 症例シュレーバー

有名なパラノイアの症例として、いわゆる「症例シュレーバー」があります。ダニエル・パウル・シュレーバーという人は19世紀末の法律家で、1893年、ドレスデン控訴院長に昇進した直後に精神病を発病させています。

精神病を発症させてからも、シュレーバーは知能に障害なく意識は清明で周囲と如才のない会話ができる一方、彼の心的世界は常に病的な妄想に支配されていました。以下、1903年に出版された自身の回想録からの一部引用です。

しかし今や、私が個人的に好むと好まざるとにかかわらず、世界秩序が有無を言わさずに脱男性化を欲していること、そして私には、理性の根拠からして、ひとりの女に変身するという思想に親しむ以外に何も残されていないことが疑う余地もなく私に自覚されたのである。脱男性化のさらなる結果として、当然ながら、新たな人間の創造を目的とする、神の光線による受胎のみが問題となりえた。私は当時まだ私以外の本当の人間というものの存在を信じておらず、私が見た人間の形姿をしたすべての者たちを「束の間に組み立てられた」ものとしかみなしていなかったが、このことによって私の意志の方向の変化は、私にとって楽なものとなった。つまり、脱男性化の中に存在する何がしかの恥辱が問題になり得なかったのである。

〜ダニエル・パウル・シュレーバー「ある神経病者の回想録」より


シュレーバーの妄想というのは要するに、⑴自分は世界を救済し、失われた幸福を再びこの世にもたらすことこそが自分の使命である。⑵そのためには何より、彼が女性に性を転換させ「神の女」にならなければならない、というものです。

シュレーバーの場合「神の女」という妄想を構築することで、精神病の症状をかろうじて制御していたわけです。この場合、ファルス機能の排除を反映する女性化という妄想が、排除された〈父の名〉の代替物として機能することで、現実感が回帰している図式になります。


* 「ふつうの精神病」の前景化

ところが近年になると、こうしたシュレーバー的な華々しい妄想を持つパラノイア患者は影を潜めていく一方で、妄想らしい妄想、幻覚らしい幻覚を持たず、さりとて神経症的葛藤も持たないという奇妙な症候を持つ患者群が前景化してきます。

こういった一群の症例を暫定的にカテゴライズする為「ふつうの精神病」というネーミングが考案されたわけです。精神分析の予備面接において、神経症であるという確たる決め手がなく「ふつうの精神病」の特徴が見られる場合、寝椅子に寝かせて自由連想をさせることを控えるべきであるとミレールは言います。


* 「ふつうの精神病」の臨床

「ふつうの精神病」の主体はシュレーバーのように華々しい妄想や奇抜な行動を示す代わりに、社会的、身体的、主体的といったものの外部へと「脱接続」するという特徴があります。

「ふつうの精神病」の臨床的特徴として、子どもの精神病のための精神分析的治療相談施設「クルティル」をブリュッセルに立ち上げたアレクサンドル・ステヴェンスの次のような5つの指標を挙げています。

⑴ 想像的同一化に基づく社会的紐帯の調節

神経症の場合、社会的役割は象徴的同一化、すなわち「〜という役割は本来こうあるべきだ」という言語によって規定されたものへの同一化を介して引き受けられますが、「ふつうの精神病」の場合、社会的役割はおよそ想像的同一化、すなわち「あの人があるいは、みんながこうしているから自分もこうしなければならない」という自分と等しいと看做される想像的他者への同一化によって果たされます。

このことが「ふつうの精神病」の主体が社会関係から切断されやすい要因となります。安定した社会的機能を持続的に果たすことが得意でないことが、「ふつうの精神病」の主体が定職を持たない、あるいは持てない一因として考えられます。反対に職場に過剰に同一化する形式での「ふつうの精神病」もありえます。この場合職を失うことが発病の契機になるわけです。

⑵ 主体の内的生(内面的生活)における空虚感

「ふつうの精神病」では独特の空虚感、具体的には「身体境界の曖昧さ」「身体的現実感」の希薄さが見られます。なお「ふつうの精神病」の主体にとって性関係はエロティックなものにならないばかりか、しばし迫害的性格を持つことが一般的であると言われます。性行為は多くの場合、快楽を伴わず、却って破壊的な効果(気分や私生活の混乱)をもたらします。けれどもそれは、主体がもともと抱えているこうした空虚感を補う意味合いを持つことがあります。

⑶ ある種の身体現象

これは器質的障害とは明らかに異なる、奇妙な説明のつかない痛みや違和感のことです。「ふつうの精神病」では身体に自己が接続されずズレを孕み、自己の身体が崩れ落ちるような体験が見られます。そこでタトゥーを彫るといった対処行動に出たりするわけです。

⑷ 様々な形を取る彷徨い

「彷徨い」とは実際に該当を彷徨うこともありますし、内面的な彷徨いとして現れる場合もあります。精神病を患っているホームレスも少なくなく、また薬物やアルコールなどの依存症に伴う彷徨いは精神病のサインである場合が多いと言われます。

⑸ 象徴界のポワン・ド・キャピトンに見られる奇妙さ

ポワン・ド・キャピトンとは「言語を通じて把握される出来事の連鎖を適当に区切り、ひとまとめに理解することを可能とする知的枠組み」のことを言います。

ステヴェンスが取り挙げているのは、薬物依存から回復して「クリーン」になった男性のケースです。彼は完全にドラッグから足を洗ったにも関わらず、ある日施設にドラッグを持ち帰った。どういうことかというと、彼はドラッグを買いに出かける別の患者をみて、その人が犯罪から「クリーン」でいられるようにと、代わりにドラッグを買い求めたということです。


* 「ふつうの精神病」とサントーム


「ふつうの精神病」についてはラカンが最晩年に示したサントームの理論で説明可能でしょう。

サントームとはボロメオの解けをつなぎとめる〈父の名〉に代替する第四の輪のことです。いわゆる「症状」が言語の次元を孕む象徴的な症状だとすれば、サントームは享楽の側面を孕む現実的な症状に当たります。前者が象徴的無意識(S1→S2)の観点から症状を捉えるのに対して、後者は現実的無意識(S1)の観点から症状を捉えようとしています。

主体がボロメオの輪の解体を防ぐために無意識的に作り上げるサントームは「主体の真の固有名」にあたり、そこには各々の主体において異なる特異的/単独的/自体性愛的な享楽のモードが刻み込まれていると考えられています。サントームの例はタトゥー、ボディーピアス、その他インターネット世界への没入、発表する予定のない小説や曲作りへの没頭など様々です。

つまり「ふつうの精神病」とは、ボロメオの環を解体し前鏡像段階にまで押しもどそうとする精神病的力動と、各人が生み出した自体性愛的なサントームが拮抗している状態をいうわけです。

サントームの理論には〈父の名〉の失墜した現代ポストモダン社会の様々な病理を解明するヒントがあると思います。例えばソーシャルゲームへの廃課金や、ブラック企業にしがみ付くと言った病理的とも言える行動もある種のサントームとして説明できる場合があるのではないでしょうか。



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2018年12月30日

ボロメオの環としあわせの在り処



ボロメオの環.png


* 想像的なもの・象徴的なもの・現実的なもの

フランスの精神分析医、ジャック・ラカンは人のこころを「想像的なもの」「象徴的なもの」「現実的なもの」という三つの異なる位相の上に成立するものとして捉えます。

すなわち、我々は生の現実をイメージと言語で捉えて、パーソナルな現実を創り出しているわけです。

そして、この三つの位相が如何なる関係にあるかを示したものが晩年のラカンが探求した「ボロメオの環」と言われるものです。


* ボロメオの環の導入と展開

「ボロメオの環」とは、互いには交差しない三つの輪が結び目を形成することで三位一体となったトポロジー的構造体のことをいいます。

ボロメオの環はセミネール19「ウ・ピール(1971〜1972)」で導入され、セミネール20「アンコール(1972〜1973)」で展開されることになる。

もっとも当初、ボロメオの環は、次々に与えられるシニフィアンがいかにして一つの構造の中で意味を担うのかという、シニフィアンの自己構造化の論理を示すものとして捉えられていました。

つまり、ボロメオの一つ一つの輪は、文字を示すものであり、シニフィアン連鎖が意味をなすためには、それぞれの輪が互いの関係の中で一つの安定した構造をなす必要があるということです。

ラカンは症例シュレーバーを引きつつ「この数学的ランガージュの特性は、一つの文字が欠けるだけで、他の全ての文字が、単にその配置に応じた価値を保ち続けられなくなるだけでなく、すべてバラバラになってしまう」と述べています。


* 意味と対象 a

しかしその後、ラカンはセミネール21「騙されないものは彷徨う(1973〜1974)」において、ボロメオの環を「想像的なもの」「象徴的なもの」「現実的なもの」という三つの領域と紐付けます。ここでボロメオの環は現在広く知られる姿となります。

この点、「象徴的なもの」の領域において自己構造化するシニフィアンは「想像的なもの」の領域と重なる事によって「意味」を見出すことになる。そしてこれを支えるのが「(みせかけの)現実的なもの」としての対象 a ということになります。

そしてこの対象 a を起点として、「現実的なもの」は「象徴的なもの」と「想像的なもの」の重なり合う中でそれぞれ異なる2種類の享楽を見出すことになる。これが「ファルス的享楽」と「〈他〉の享楽」です。


* ファルス的享楽

ボロメオの環において「象徴的なもの」「現実的なもの」の重なり合いの中に位置付けられた「ファルス的享楽」は、「アンコール」における男性の論理式の例外、すなわち「あるものはファルス関数によって規定されていない」というテーゼに対応しています。

「象徴的なもの」が「普遍」として成り立つには「例外」を内的に排除することが必要となります。例外が「外-在」することにより、初めてシニフィアンというシステム全体が安定するという論理です。

こうした「例外」に位置するファルス的享楽を夢想し、我々は「欲望」という名の終わることのない永続的運動に人生を費やすことになるわけです。

このように、ファルス的享楽は象徴界内部にある何かを「所有」することによって得られる、いわばギラギラとした享楽とも言えます。


* 〈他〉の享楽

他方、ラカンはシニフィアンの秩序の外に「ファルス的享楽」とは異なる「〈他〉の享楽」を見出していきます。

それはボロメオの環においても「象徴的なもの」の外部にある「想像的なもの」と「現実的なもの」が重なり合う場所に位置付けられています。

「〈他〉の享楽」の典型としては、ルドルフ・オットーのいういわゆる「ヌミノース体験」が挙げられるでしょう。

ヌミノース体験とは我々の自我を超えた圧倒感、抗しがたい魅力、近寄りがたい畏敬の感情を惹起させる体験をいいます。様々な宗教の根本にはこのような象徴化不能な「それ」としか言いようのない神秘体験が存在しているわけです。

また、ヌミノースとまではいかなくても、我々の普段の日常においてふと訪れる、法悦に満たされた不思議な瞬間というのは思い返せば至る所に見いだすことができるのではないでしょうか。

すなわち、〈他〉の享楽は象徴界外部にある何かを「体験」することによって得られる、いわばキラキラした享楽とも言えます。


* 「あなただけのきらめき」を見つけましょう。

ある意味で、ボロメオの環はこの社会の中に居場所を見出せず、生きづらさを抱えている人に対して、しあわせの在り処を示しているのではないでしょうか。

終身雇用や年功序列を前提とした昭和的なロールモデルが崩壊した昨今において、車、結婚、マイホームなどといったファルス的享楽を得るためのハードルは確実に上がったと言わざるを得ないでしょう。

けれども、享楽の道は一つではない。生の現実は変えることはできないかもしれないけど、パーソナルな現実は変える事ができる。

意識を「今、ここ」に向けることで象徴的なものを排し、想像的なものと現実的なものを直結させた時に「〈他〉の享楽」は訪れる。

すなわち、日々の何気ない日常を心から味わい、慈しむことが出来れば、決して大袈裟な話はなく、人は誰でも今すぐに、しあわせになることができる。

こうしてみると、人生を本当の意味において実り豊かなものにする鍵は、容姿でも財産でも社会的地位でもない。むしろしばし理不尽とも言える日常の中で見い出す事ができる「あなただけのきらめき」にあるのではないでしょうか。



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2018年11月29日

「〈一者〉の享楽」を生きるということ



* 「生の現実」と「パーソナルな現実」

ジャック=ラカンによれば、人の精神構造は「想像界」「象徴界」「現実界」というそれぞれ異なった3つの位相によって構成されているといわれます。

「想像界」とは感覚器官が捉える「イメージ」であり「象徴界」とはシニフィアンで構成された「ことば」です。これに対して「現実界」とは「イメージ」や「ことば」で把握する以前の「生の現実」をいいます。

つまるところ我々は「生の現実」を「イメージ」と「ことば」によって「パーソナルな現実」として把握しているということです。言い換えれば、我々が「現実らしきもの」と信じ込んでいるこの世界は所詮は自らが創り上げた虚構に過ぎないという事になります。


* 自我・欲望・享楽

では「想像界」「象徴界」「現実界」はそれぞれどのようにして導入されるのでしょうか?

まず「想像界」は生後6〜18ヶ月の「鏡像段階」によって導入されます。ここで子どもは「鏡像」を通じて「自我」を得る。

次に「象徴界」は「父性隠喩」によって導入されます。ここで子どもは「大他者」を通じて「欲望」を得る。

一方「現実界」は「疎外と分離 」によって導入されます。ここで子どもは「対象 a 」を通じて「享楽」を得る。

こうして「享楽」を目指す主体の「欲望」のあり方こそが「自我」を統御することになる。このような「欲望」のあり方を「根源的幻想」といいます。

精神分析とは、このような「根源的幻想」をアップデートする営みとも言えるでしょう。ラカンはセミネール11「精神分析の四基本概念」において精神分析の目標は「根源的幻想の横断」にあると言います。

では、根源的幻想の横断のその先には何があるのでしょうか?晩年のラカンの思索は精神分析の終局点を模索する営みであったとも言えるでしょう。そしてそれは端的に言えば「〈一者〉の享楽」を生きるということです。


* 「〈一者〉の享楽」の発見

まずラカンはセミネール17「精神分析の裏面」において、「疎外と分離」の演算を「主人のディスクール」として一つに統合します。

そして「主人のディスクール」を展開させ「大学のディスクール」「ヒステリー者のディスクール」、そして「分析家のディスクール」という4つのディスクールを導きます。

4つのディスクール.png

この点「分析家のディスクール」とは精神分析の臨床を定式化したものと言えます。すなわち、分析家が分析主体$に対して対象 a の位置を取ることで、無意識という知S2が想定され、分析主体$は新たな主人のシニフィアンS1を析出する事になるわけです。

次にラカンはセミネール20「アンコール」において性別化の論理式を構築していく中、対象 a を通じて得られる従来の「ファルス享楽」とは異なる非エディプス的な享楽を発見する。

性別化の式.png

この新たに発見された特異的/単独的な自体性愛的享楽をラカンは享楽それ自体の体制へ一般化します。これが「〈一者〉の享楽」と呼ばれるものです。

この「〈一者〉の享楽」は子供が初めて出逢う原初的なシニフィアンである「ララング」と結びついた享楽であり、このことから「〈一者〉の享楽」は分析家のディスクールにおけるS1に紐付けられることになります。


* S1→S2

こうして「症状」とは神経症も精神病も同じく「S1→S2」と書き表す事ができるようになる。これが症状の一般理論と呼ばれるものです。

つまり、あらゆる「症状の意味=S2」は「症状の根=S1」から発展して出来上がっているということです。

「症状の意味=S2」とは、まさに無意識の形成物であり、象徴的な意味を持っている。そこで、症状がその奥に隠し持つメッセージを解釈するで症状は消失するとされてきた。

しかし実際には、どれだけ解釈しても症状が消失しない症例や、たとえある症状が消失しても、すぐに別の症状が生み出される症例も多く存在する。

症状の意味をどれだけ解釈しても、主体がその症状を手放そうとしないのは、症状は主体になんらかの享楽をもたらしているからに他ならない。このような症状の持つ享楽の側面を「症状の根=S1」という。

そして「症状の根=S1」にある享楽こそがまさしく、各人それぞれが持つ特異的/単独的な自体性愛的享楽、すなわち「〈一者〉の享楽」ということです。

神経症者や精神病者の症状は多様ではありますが、その症状の多様性は「症状の意味」の側にあるのではなく「症状の根」の側に、すなわち症状が持つ享楽のモードにあるというわけです。

こうして晩年のラカンはS2よりもS1を重視した臨床に傾いていく。つまり精神分析の終局点があるとすれば、それは「〈一者〉の享楽」と上手くやっていく事にあるということになります。


* 茶の湯とマインドフルネス

「〈一者〉の享楽」と上手くやっていく。このようなラカン的観点は、我々が日々の暮らしで直面する様々な「生きづらさ」から脱却できる重要な視座を提示しているように思えます。

実際、この日常において、我々は自分の中にある「〈一者〉の享楽」の鳴動を感じる場面に多々遭遇します。

例えば、茶の湯などはそうなのかもしれません。森下典子さんの自伝的エッセイ「日日是好日」においては、一見、意味不明としか言いようのない数々の茶の湯の所作を集中することで、なんとも言えない不思議な法悦に満たされる瞬間が多く描かれています。

あるいは、最近注目されるマインドフルネスにおいてもそうなのでしょう。呼吸をはじめとする普段の何気無い動作を「今、ここ」に注意を向けて行うことで「ピーク・モーメント」という、釈迦が「悟り」と呼んだ至高体験が瞬間的にではあるものの訪れることが、多くの臨床で実証されています。

茶の湯もマインドフルネスも、ひとつひとつの動作をていねいに行う事によって「思考」を手離し「意識」を「現実」に直結させるという点で共通しています。

こうした営みを重ねる中で何気ない一瞬が輝き出し、その先にはとてつもない自由な境地が立ち現れてくるわけです。


* 「パーソナルな現実」は変える事ができる

また繰り返し申し上げる事になりますが、我々は「生の現実」を「イメージ」と「ことば」によって「パーソナルな現実」として把握している。

そして「生の現実」は変えられませんが、その向き合い方によって「パーソナルな現実」は変える事ができるわけです。

奇跡か何かを待っているだけでは世界も人生も一ミリも変わらない。けれども自分を変える事は今すぐ出来る。日々の小さな積み重ねこそが周囲の世界とこれからの人生を変えていくと言っても別に大げさなことではないという事です。

この日常が灰色のディストピアになるか、色鮮やかなきらめきに満ちた日々になるか。両者を分かつのは結局のところ、もしかするとほんの僅かな紙一重の差なのかもしれませんね。






posted by かがみ at 23:38 | 心理療法