2017年03月03日

少女のエディプスコンプレックス〜あかりのケースと香子のケース

いよいよ実写映画公開が控えた「3月のライオン」ですが、ひとますアニメに関して言えば、本当に素晴らしい出来だと思います。原作の時系列、世界観、さらには空気感という「核心部分」は、それこそ神経質と言えるほどにこだわって大事にしつつも、その周辺の「余白部分」については新房×シャフトのオリジナリティが縦横無尽に炸裂し、原作の持つ魅力を二乗三乗に増幅させていると言えるでしょう

さて、本日は桃の節句なので、この作品を題材にして、女の子のエディプスコンプレックスの話でも書いてみたいと思います。エディプスコンプレックスというのは定義的には「異性親への愛情と同性親への憎悪」ということになりますが、その経過は男の子と女の子では若干異なってきます。まずそのあたりの精神分析の説明から始めてみます。

想像的水準と象徴的水準におけるPhallus

ラカンの有名な定式に「人の欲望は他者の欲望」というものがありますが、寄る辺ない存在である子供にとっては他者の欲望というのは重要な関心の対象になります。人という生き物は他の動物と異なり、独りでは生きられない寄る辺無い姿で生まれて来る為、他者の助けなくこの世界では生きていけません。そこで初めて出逢う他者は母親です。

なので、まず男の子も女の子も、この世界で生きていく為に母の欲望を埋める愛情の対象になりたいという欲望を持たざるを得ない。ラカン風に言うと子供は愛情という想像的水準において母のPhallusになろうとしている。

ところが、母親も日常生活の中で四六時中子供と一緒にいるわけではなく、現前-不在を繰り返します。そこで子供の中には次のような心象が沸き起こります・・・なんでお母さんはいつもボク/ワタシと一緒にいてくれないんだろう、ボク/ワタシはお母さんの欲望の対象じゃ無いのかな・・・?お母さん、貴女が欲しいものはボク/ワタシ以外の「何か」なの・・・このように子供は不安に駆られます。

そして、この不安はやがて確信に変わります。母の紡ぎ出す言葉の節々に見え隠れる「オトウサン」なる存在。母曰く「オトウサンに叱ってもらいますからね」「オトウサンが見てなんていうでしょうね」「オトウサンに相談してから買いましょうね」云々・・・つまり、暴力、権力、財力という象徴的水準でのPhallusを保有している絶対的な第三者が「オトウサン」ということになります。こうして父親は満を持して子供の前に登場し、子供はこれが母の欲望の対象に違い無いと確信し、こうして子供は想像的水準で母のPhallusになれないことに絶望するしかない。

では、自らの存在意義を失った子供はどうすればいいのでしょうか?ここで男女の違いが生じてきます(もちろん現代においては上記のような典型的な母親-父親像は揺らぎつつあります。あくまで子供の心象風景モデルの話です)。

エディプスコンプレックスと去勢コンプレックス

男の子の場合、去勢不安から母親を諦めざるを得ない。結果として多くの場合は父親側に同一化して、象徴的水準でPhallusを所有したいと願う。つまり「父のような人になって母のような人をものにしたい」と欲望することに自らの存在意義を見出す。こうして、男の子の場合、エディプスコンプレックス→去勢コンプレックスと進んでいき、母親を諦めた時点で、エディプスコンプレックスはフロイト曰く「粉々に砕け散る」。以降、男の子は畢竟、(象徴的な)Phallus関数に支配された存在となり果てる。

女の子の場合、最初から去勢されているため、結果として多くの場合は母親側に同一化して象徴的水準でPhallusそれ自体になりたいと願う。つまり「母に成り代わり父に欲望されたい」と欲望することに自らの存在意義を見出す。女の子の場合、男の子とは逆に去勢コンプレックス→エディプスコンプレックスと進んでいく。

つまり、女の子の場合、エディプスコンプレックスは消滅するまでの期間が長いということです。女性のセクシュアリティが男性に比べて遥かに複雑になるのはこういう事情によります。男性は基本的に「Phallus関数に支配される者」と積極的な定義が可能ですが、女性は「Phallus関数に支配される者、とは限らない者」と消極的に定義せざるを得ない。すなわち、女性は「娘」でもあり「妻」でもあり「母」でもあり、さらには「男性」でもあり「それ以外の存在」とも言える。ラカンの「女性なるものは存在しない」という例の悪名高い迷言(?)はそういう観点から理解されるべきなんでしょう。

あかりのケースと香子のケース

ところで、このエディプスコンプレックスの消滅過程で少女が強烈な外傷経験に出会った場合、セクシュアリティの一面が歪んだ形で先鋭化されることがあります。いわば「エディプスコンプレックスの補償」という問題です。

ようやくここで、という感じですが、何が言いたいのかというと、「3月のライオン」という作品は、この問題について、かなり自覚的に描き出しているように思えるんですよね。物語のサブヒロイン的な立ち位置にいるあかりと香子は、様々な点で両極に対置されており物語のコントラストをキャラクターレベルで支えていますが、境遇はわりと似ています。同世代であり、長女であり、そして、両者とも思春期の只中で「父に棄てられた存在」という点においても共通した要素を持っているわけです。

あかりの場合、父親である誠二郎に家族ごと放り出されており、「お前を愛してない」という想像的水準で父に棄てられている。そして現在、あかりは妹たちを過剰に溺愛しており、特にモモちゃんに対してはファリックマザーそのものと言っていい一方で、家族以外の人間関係については基本的に禁欲的な態度を貫き通している。当たり前ですが、ひなちゃんもモモちゃんも誠二郎氏の娘です。従って、あかりさんとしては心外かもしれませんが、精神分析の観点から言うと、誠二郎氏という欲望の対象は変わらず、その在り様が象徴的水準におけるファルスへの同一化から想像的水準でのファルスの所有へとスライドしていると言わざるを得ない。

香子の場合、父親である幸田氏から奨励会退会を申し渡され、「お前には期待してない」という象徴的水準で父に棄てられている。そして現在、香子は20も歳上の妻帯者であり、かつ父親の弟弟子でもある後藤正宗に一方的に惚れ込んでいる。つまり、象徴的水準でのファルスへの同一化という欲望の在り様は変わらず、その対象が父と似たような相手にスライドしていると言える。

こうしてみると、父親からの棄てられ方から欲望の有り様まで、あかりの場合は想像的水準で動いており、香子の場合は象徴的水準で動いていることに気付かされます。これは必ずしも理論的な対応関係は無いはずですが、あかりと香子が鮮烈に放つ両極性はこの辺りの差異に起因しているような気がするんですね。結構強引な解釈なのかもしれませんが、こういう対比を念頭に置きつつ、3月のライオンの原作を読み返してみるとまた違った発見があるのかもしれません。


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2017年02月14日

ドラマ版「嫌われる勇気」に日本アドラー心理学会が抗議文

ドラマ版「嫌われる勇気」を最初観たときは完全に口開けてポカンの状態でして、なんというか、よくまあ、ここまで思い切った改変をしたものだと別の意味で制作サイドの「嫌われる勇気」を見た気がしましたが、ここに来てやっぱり日本アドラー心理学会から抗議が来た模様です。

香里奈主演「嫌われる勇気」に「日本アドラー心理学会」が抗議文 - ライブドアニュース

日本アドラー心理学会のホームページ|INDIVIDUAL PSYCHOLOGY

株式会社フジテレビジョン 『嫌われる勇気』製作責任者御机下

抗議文は「放映の中止か、あるいは脚本の大幅な見直しをお願いしたいと思っております 」と結ばれており、まさにドラマ版主人公の庵堂蘭子の決め台詞である「明確に否定します」と言わんばかりです。

この抗議は極めて正当だと思います。ドラマ版はキャストの誰某の演技が大根だとか、事件解決にアドラー心理学がまったく絡んでいないとか、巷ではそういうところでも辛辣に批判されているみたいですが、アドラー心理学という観点からの本質的な批判はもっと別のところにあります。

それは抗議文にあるように、現状、ドラマ版においては、アドラー心理学の生命線ともいえるべき概念である「共同体感覚」「勇気づけ」の視点が完全に欠落している点に他なりません。この点、抗議文ではわりと端的な指摘に留まっているので、ここで大変僭越ながらも、ざっくりと私なりの理解から書いてみたいと思います。


劣等コンプレックスと共同体感覚

まずはそもそも論というか、アドラー心理学の基礎理論の整理から始めます。

精神分析の創始者でおなじみのジークムント・フロイトは人の根本衝動を「性欲動」だと規定しましたが、これに対して、アルフレッド・アドラーは人の根本衝動は「劣等感の補償」による「優越性の追求」だと主張します。要するに、人は無力な寄る辺ない存在としてこの世に生を受けるが故に「もっと成長したい、もっとあるべき理想に近づきたい」という動機が生まれてくるということです。

人は無力な存在としてこの世に生を受けます。そしてその無力な状態から脱したいと願う、普遍的な欲求を持っています。アドラーはこれを「優越性の追求」と呼びました。

(嫌われる勇気:79頁)


こうした劣等感の補償ないし優越性の追求に駆動されていった結果、形成されていく個人的な信念・世界観といった個人のパーソナリティをアドラーは「ライフスタイル」と呼びます。

ライフスタイルというのは認知行動療法でいうところの「スキーマ」に概ね重なる概念と思って差し支えないでしょう。人は知らず知らずのうち、自らのライフスタイルを正当化し維持する「目的」で様々な症状や問題行動を起こし、またライフスタイルというプリズムを通してこの世界を「認知」する(目的論・認知論)

よく言われる「トラウマは存在しない」というのは、過去の出来事は現在のライススタイルに整合する形で認知されるため、結果、同じ事実が「美しい思い出」にも「忌むべきトラウマ」にも、可能性としてはどちらにもなり得るいうことでしょう。

つまり重要なのは、どのようなライフスタイルを形成するかという問題であり、そこでは精神分析でいう意識・無意識の区別は重要ではなく、あくまで「全体」としての個人という「主体」の在り方が問われている(全体論・主体論)

つまり主体としての個人の有り様によってライフスタイルはいつでも変えられるというわけです。「ライフスタイル」という呼び方もその着せ替えできるような「軽さ」を強調するためと言われます。

そして、ある人がいかなるライフスタイルを形成するかは、その人が「対人関係」をどのように捉えるかにかかってきます(対人関係論)

対人関係を「縦の関係」、すなわち支配、評価の関係として捉えれば、「劣等コンプレックス」という歪んだライフスタイルが形成されていきます。逆に対人関係を「横の関係」、すなわち、尊敬、感謝の関係で捉えれば、「共同体感覚」という適正なライフスタイルが形成されていくわけです。

課題の分離の二つの側面

以上から、共同体感覚の涵養こそがアドラー心理学の目標となります。そしてその実践プロセスは以下のとおりです。

まず、自他の問題領域を切り分けます。いわゆる「課題の分離」です。

実は課題の分離には二つの側面があります。まず第一に「他者の課題に踏み込まないこと」。これはわかりますよね??庵堂さんがたまにドヤ顔で言い放つ「それはあなたの課題です」というアレですよ。(原作の)「嫌われる勇気」でも強調されている通り、他者からの評価というのも「他者の課題」ですから、いわゆる「承認欲求を否定する」というのもここに通じるものがあります。

そしてもうひとつ、第二に「自分の課題に誠実にとり組むこと」。これは巷のアドラー解説本ではあまり強調されていない気もしますが、普通に考えれば第一の点と密接な関係になるはずです。だってそうでしょう??「相手の課題に踏み込まないこと」だけだと、単なる自分の殻に閉じこもって何もしない人と何ら変わらないじゃないですか??

では自分の課題とは何でしょうか?私の理解ではこれこそが「勇気づけ」の実践です

「勇気づけ」の実践その1〜自分を勇気づける

勇気づけとは「横の関係に基づく援助」と呼ばれますが、基本言葉が「ありがとう」「嬉しいです」「助かります」とあるように、より端的に言えば尊敬・感謝の表明です。勇気づけの実践は、まずはいまの自分を勇気づけるところから始まります。

自分なりの言葉で、いまのありのままの「交換不能なわたし」を直視し受け入れて、いわば自分で自分を援助するということなんですよ。これを「自己受容」といいます。(原作の)哲人の言葉で言えば「肯定的なあきらめ」。「あきらめ」というのはもともと「明らかに見る」という意味合いだそうです。カウンセリングにおけるロジャーズ三原則でいえば「自己一致」という概念に近いでしょう。

「勇気づけ」の実践その2〜他者を勇気づける

そういうわけで、自分を勇気づけることができるようになれば、次のステップとして他者を勇気づけます。他者を尊敬し感謝の念を表明する。「他者信頼」「他者貢献」です。

「他者信頼」というのは他者にイエスマンのごとく追従する態度とは全く異なります。アドラー派に「結末技法」というものがありますが、相手の存在を尊敬・信頼することと、相手の間違った行為を間違っているときっぱり断じ去ることは全く別のことです。「明確に否定します」という言葉はここに通じます(ただ原作の哲人がいう「明確に否定します」とドラマ版の庵堂さんがいう「明確に否定します」は相当ニュアンスが違ってますが・・・)。ロジャーズ三原則でいえば「無条件受容」「共感的理解」に相当するものでしょう。

「他者貢献」は最も重要です。実際に何かを貢献したかどうかではなく、重要なのは「貢献感」が得られたかどうかです。人は「貢献感」を得ることで自分の価値を実感できるというわけです。こういう風に書くと何か胡散臭い雰囲気を感じる方もいるでしょうが、このメカニズムの神経学的な解明は現代においてかなり進んでおり、例えば「幸せホルモン」と呼ばれるオキシトシンという神経伝達物質は、親しい相手とのスキンシップ、優しい言葉、温かいまなざしといった物理的、精神的接触の他にも、誰かに対する親切心によって分泌が促進されるそうです。

兎も角も、こうして「自己受容」「他者信頼」「他者貢献」。この三つの要件が揃って初めて、人は劣等コンプレックスの磁場を抜け出し、共同体感覚(=横の関係)の領域に遷移するということができます。

本当に難しいのは共同体感覚を「持ち続けること」

そして大事なのはこれを継続することです。実は、共同体感覚を瞬間的に得ること自体はそんなに難しくないんですよ。誰だって自分がうまくいっているときは余裕がありますから、周りに受容的な態度をとることはそんなに難しいことではないでしょう。

けど、一度上手くいかなくなれば、やっぱり妬みや僻みという負の感情が出てきます。いったんは共同体感覚に遷移しても、簡単に劣等コンプレックスに転落してしまいます。

それでも、どんな苦境に立たされようが、「自己受容」「他者信頼」「他者貢献」を一貫して維持し続ける。これはもはや至難の技と言わざるを得ない。だからこそ共同体感覚というのはアドラーの言うように「到達できない理想」なのです。

世界はシンプルであり、人生もまた同じである。しかし、「シンプルであり続けることはむずかしい」と。そこには「なんでもない日々」が試練となるのです。

(幸せになる勇気:275頁)


我々凡人は劣等コンプレックスと共同体感覚という二つの両極の間をウロウロするのが実際のところなんでしょう。そんな中、せめて少しでも、共同体感覚寄りの「斜めの関係」を維持できれば、まあ御の字なのかもしれませんね。

嫌われる勇気とは自己中心的な生き方ではない

さて、これでもう明らかだと思いますが、要するにドラマ版はこれまで観た限りでは、庵堂さんの振舞いには「他者を勇気づけること」、すなわち共同体感覚中核三要件の「他者信頼」「他者貢献」が欠落していると言わざるを得ない。

これは片手落ちどころの話ではないでしょう。そんな主人公を哲人ポジションにいる人が「ナチュラル・ボーン・アドラー」などと持ち上げるわけです。

そうすると当然、原作未読の視聴者から「嫌われる勇気というのはこの女みたいな周りを顧みない自己中心的な生き方か、これがアドラー心理学か」と、こういう風に認識されても仕方がないでしょう。

もしかしたらあるいは万が一、今後の展開で、そういう共同体感覚的な側面が出てくる予定の構成になっているのかもしれません。けど百歩譲って仮にそうだとしても、最初の数話で呆れて視聴をやめてしまった人の中にはやっぱり、上に書いたような誤解がずっと残ってしまうことになるわけです。こうなるとアドラー心理学の普及団体としては苦情のひとつも言いたくなるでしょうね。

香里奈「嫌われる勇気」に放映中止要求 本家・アドラー心理学会の抗議理由 : J-CASTニュース

今のところ、制作サイドとしては放映中止は考えてない模様。最初、原作サイドの監修はなかったのか疑問でしたが、一応、岸見先生がアドラー理論の解釈部分のチェックは行っていたみたいですね。岸見先生的にはドラマのストーリーがどう作られるかについては、あくまで「他者の課題」というご認識なのかもしれませんね。

長くなったので要旨をまとめておきます。

【まとめ】

・(動因)劣等感の補償/優越性の追求→(形成物)ライフスタイル

・対人関係を縦に捉える(支配・評価の関係)ライフスタイル=劣等コンプレックス

・対人関係を横に捉える(尊敬・感謝の関係)ライフスタイル=共同体感覚

・課題の分離=他者の課題に踏み込まない(承認欲求の否定)+自分の課題に誠実に取り込む(勇気づけの実践)

・勇気づけ=自分を勇気づける(自己受容)+他者を勇気づける(他者信頼・他者貢献)→共同体感覚


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posted by かがみ at 19:47 | 心理療法

2017年01月31日

パロール・ディスクール・ユーフォニアム!



「主体の発するParoleは、主体の知らない内に、Discourantの限界の向こう側に達しますーーー話す主体の諸限界の内部に留まっていることは確かですが(ジャック=ラカン「セミナールT・フロイトの技法論(下)」172頁)」

精神分析の目標はラカン風の表現で言えば「根源的幻想の横断による欲動の主体の顕現」であり、この境地へ至るため、臨床技法として自由連想と解釈投与という作業が行われるわけですが、そこで用いられる「言葉」という点に付き、ラカンはパロールとディスクールを明確に区別しています。

「話すこと(パロール)」は、「語ること(ディスクール)」よりも広い概念です。上に示すセミネールの引用はパロールによってディスクールの限界を超える瞬間があることを明らかにしたものです。

ディスクールとは極めて表層的な意識レベルでなされる言語活動です。これに対して、パロールとはより深層の意識レベルで行われます。パロールを繰り返すことで「無意識」が徐々に姿を表してくる。この時、多くの場合、胸が一杯になって涙が溢れたり、怒りが湧き起こるなどの情動的反応が起こることもあるでしょう。

このような経験を積み重ねることで「無意識」を徐々に意識レベルに再統合していく。これこそが「根源的幻想の横断」の過程に他ならないのです。イメージとしては、こころという深い湖の一番底(無意識層)にタッチして湖面(意識層)まで帰ってくるという往復運動を何回も繰り返すような感じと言えばいいのでしょうか。

このようなディスクールとパロールの違いを鮮明なまでに見事描き分けた好例として「響け!ユーフォニアム」という作品を取り上げてみたいと思います。TVシリーズ屈指の神回として名高い第2期10話の、久美子ちゃんが、母親の介入で全国大会出場を断念したあすか先輩を説得する場面です。

久美子ちゃんはあすか先輩に「コンクールに出てください」と、普段の彼女からは想像もできない高圧的な態度で迫ります。しかしながら、その主張の論拠として持ち出してくるのは所詮「みんな言ってます。あすか先輩が良いって・・・」とか、「低音パートの皆や、夏希先輩(註:あすかの代役)は絶対、あすか先輩に出てほしいって思ってます」などという、ラカン風に言えばまさに「他者の欲望」の枠から一歩も出ることのない言動ばかりです。

なるほど理性的ではありますが、同時に防衛的な態度とも言えるでしょう。これがまさにディスクールの典型です。

しかし、あすかが繰り出す論理的な反駁、そしてえげつのない精神攻撃の数々に、久美子ちゃんは逆に窮地に追い込まれて進退極まってしまう。しかしここから、久美子ちゃんの鼠猫を噛むかの如き、渾身の咆哮であすかを圧倒していきます。

だったら何だって言うんですか!?先輩は正しいです!部のこともコンクールのことも全部正しい!!

でもそんなのはどうでもいいんです!あすか先輩と本番に出たい・・・私が出たいんです!!

子供で何が悪いんです!?先輩こそなんで大人ぶるんですか!?全部わかってるみたいに振舞って!自分だけが特別だって思い込んで!!

先輩だって、ただの高校生なのに!そんなの、どこがベストなんですか!?

先輩、お父さんに演奏聴いて貰いたいんですよね・・・誰よりも全国行きたいんですよね・・・それをどうして無かったことにしちゃうんですか・・・ガマンして諦めれば丸く収まるなんて、そんなのただの自己満足です!!

悔しいです・・・待っているって言っているのに・・・諦めないで下さいよ・・・後悔するって解っている選択肢を、自分から選ばないで下さい・・・諦めるのは最後までいっぱい頑張ってからにして下さい!!

私は、あすか先輩に本番に立ってほしい!あのホールで先輩と一緒に吹きたい!!先輩のユーフォが聴きたいんです!!!


久美子役の黒沢ともよさんの鬼気迫る演技と、京都アニメーションの神掛かった演出によって産み出された映像は圧巻の一言に尽きます。もはや余計なコメントは一切不要でしょう。これがパロールです。ディスクールの限界を超えて「無意識の主体」が現れる瞬間を見事に描き切っている。

この場面は久美子ちゃんが初めて剥き出しの感情を露わにする処でもありますが、いままでの久美子ちゃんの失言キャラ付けの積み重なりが手伝って、唐突感が全然ないんですよねーーーフロイトはかの「精神分析入門」の一章をまるまる「錯誤行為(言い間違い)」に割いていたりもするんですがーーーよもやここまで計算していたとすれば見事と言うしかないでしょう。

まためんどくさい解釈を色々と書いてしまいましたが、本作「響け!ユーフォニアム」という作品自体、アニメーション史に残る名作と言い切って過不足無い、シナリオ、作画、美術、演出が極めて高い次元で統合された青春群像劇の傑作と言えるでしょう。もしかして、タイトルの「響け!」とはパロール、「ユーフォニアム」とは久美子ちゃん自身のことなんでしょうか・・・?そういう風に考えてみると、精神分析的にはなかなか面白いものがあります。

「根源的幻想を横断した主体は、欲動をどのように生きることができるのでしょうか?これは分析の彼岸であり、これまでだれも取り組んだことがなかったことです(ジャック=ラカン「セミナールTX・精神分析の四基本概念」368頁)」

それはもちろんーーーーそして、次の曲が始まるのです\(^o^)/

posted by かがみ at 20:54 | 文化論

2016年12月31日

エディプスコンプレックスVS劣等コンプレックス(後編)



エディプスコンプレックスVS劣等コンプレックス(前編)

前回述べたように、劣等コンプレックスというのは説明として直感的にわかりやすいけれども、一方、一部のケースはエディプスコンプレックスからの方が上手く説明できる事例もまた確かに存在し、一概にどちらが根源的なコンプレックスだと云い難いものがあるということです。

従って、この両者はいかなる関係に立つと考えるべきか、という問題が生じることになりますが、この点、ジャック・ラカンによる「疎外と分離」「対象 a と根源的幻想」という理論的整理が、一応の整合的説明として成功しているというべきでしょう。

疎外と分離〜欲動と欲望の相転移

まず、フロイトの規定する根源的衝動は周知の通り「欲動」です。もっとも一般的なフロイト理解では「性欲」などと言われますが、性欲といっても幼児性欲のそれであり、むしろ「愛情衝動」と言った方が適当と言えるでしょう。

このあたりの誤解がフロイトという人の不遇たる所以でもあるわけですが、それはともかくいずれにせよ、我々は原則としてこの欲動を完全円満に満足させた状態でこの世に生を受けているということです。これは一人の例外もありません。何となれば、母の胎内は新しい命に必要なすべてが満たされているからです。これはラカンがいう「享楽」と呼べる状態です。

ところが、そこにずかずかと邪魔者が入ってくることで「享楽」は霧消してしまいます。子どもは自らと母親は〈他者〉であり渾然一体でも何でもないことを悟ります(疎外)。そして次に、それどころか母親の関心の対象は自分ではなく、まさにその邪魔者であることに気づくわけです(分離)。

こうして当初の「享楽」は失われてしまい、もはやすべてが満たされることはなくなったのです。しかしこの時に子どもの中には、これを少しでも奪回したいという願いが生じる。

これを称して「欲望」という。これが「母に欲望されたいという母への欲望」という「〈他者〉(へ)の欲望」です。

よくわからないけれども満たされている享楽と異なり、欲望は「〜がしたい」という「言葉」、すなわちシニフィアンで表現されます。いわば人は欲望を持つ者となり初めて「象徴界=理性の世界」へ参入できると言えるでしょう。ここにフロイト第二局所論でいう「超自我」の形成を見出すことができるわけです。

対象 a と根源的幻想

こうして、子どもの中に芽生えた「欲望」は、以降、かつての享楽の残滓物達、すなわち「欲望の原因=対象 a 」により駆動され、死ぬまで満たされない永久運動に従事することになります。ラカンが例示する対象 a の始原的なオリジナルは「乳房、糞便、声、まなざし」の4つあり、以降の人生で見出す様々な対象 a はこれら4つのバリエーションと言えるでしょう。

そしてこの欲望と対象 a の関係性を規定する態度をラカンは「根源的幻想」と呼びます。ヒステリー者と強迫神経症者の根源的幻想は対象 a に対する両極的アプローチといえます。疎外以前に逆行して「対象 a を完全に所有したい」と欲望するのが強迫神経症者である、他方で、分離に執着して「対象 a そのものとして〈他者〉に欲望されたい」と欲望するのがヒステリー者です。


いずれにせよ「欲望」とは「欲動」を禁じられ初めて生じるものであり、両者は相転移の関係にあると言えるのです。

例えば、の話ですが、生まれてからずっと絶海の孤島に絶世の美少女と二人っきりで、それが当たり前の暮らしだった所に、ある日突然、イケメンが現れたとします。

少女はそのイケメンを未だ見せたことのない恍惚の眼差しでうっとりと見つめている・・・そんな情景を思い浮かべてみて下さい。そうすれば、それまでなんとも感じなかった少女との関係性が、たちまちにして、これ以上なく掛け替えの無い大切な物だったように感じらませんか?要するに、その時、湧き上がるであろう何とも名状しがたい感情、これが「欲望」の正体です。

こういう風に説明すれば、少しは想像できるかとは思いましたが・・・却って、わかりにくかったらごめんなさい。

第三項としての〈父の名〉

ともかくも、このように「満たされた享楽」の禁止と相転移的に「満たされない欲望」が生成されるわけです。この一連の疎外と分離の過程において、母と子の「享楽」を切り裂く邪魔者こそが、エディプスコンプレックスを引き起こす第三項、すなわち〈父の名〉に他ならないのです。

要するにフロイトがエディプスコンプレックスと呼んだものは、子供の発達過程における母子分離の神話的表現なんですよ。この世に生まれ落ちた時は動物となんら変わりない「エスの塊」である赤ちゃんに「超自我=理性」を内在させる力動作用と言い得るでしょう。つまり〈父の名〉を担うのは現実的な父親に限りません。

〈父の名〉とは「母の欲望」を名付ける「シニフィアン」という一種の概念であり、母と子を分かつ第三的力動作用であればそれは現実の父親どころか人でさえある必要はなく、例えば母子家庭における母のパート労働による日常的な不在も、そういいう意味で〈父の名〉として機能すると言えるでしょう。

エデイプスコンプレックスVS劣等コンプレックス

このようにして見てみると、「疎外と分離」により「欲望」の萌芽から「根源的幻想」の形成に至るまでの論理の動線はアドラーの優越性の追求からライフスタイルに至るそれと極めて近似していることに気付かされます。

まず、母子分離の過程においてエディプスコンプレックスによる欲動が抑圧されることで、欲望=優越性の追求が発生し、根源的幻想=ライフスタイルが形成されます。

そして、この根源的幻想=ライフスタイルが何らかの挫折経験などで著しく歪んだ時、アドラーが言うところの「〜だから〜できないという偽の因果律」である合理化作用によって劣等コンプレックスが形成されます。

ものすごく端的に言えば、エディプスコンプレックスは欲動の抑圧作用であり、劣等コンプレックスは欲望の合理化作用といえるでしょう。つまり両者は構造的には似ているものの作動する位相が全く異なっているというわけです。

なお、強迫神経症者もヒステリー者も「対象 a を完全に所有したい」「対象 a そのものとして〈他者〉に欲望されたい」という支配関係、つまり縦の関係であり、端的な劣等コンプレックスと言えるでしょう。

つまり、劣等コンプレックスというのは神経症圏においては根源的コンプレックスではあることは間違いない。なので神経症圏を生きる大多数者にとって劣等コンプレックスが直感的に響く説明であることはある意味当然であるといえるのです。

また、劣等コンプレックスは多種多様な亜種を生み出します。カインコンプレックス、学歴コンプレックス、メサイアコンプレックス、クリスマスコンプレックスなどなど・・・学童期以降の子供が同性親に抱くエディプス的な愛憎も理論的には劣等コンプレックスということになります。

この点、エディプスコンプレックスは「異性親への愛情と同性親への憎悪」という、このひとつだけです。つまり言い換えればエディプスコンプレックスというのは多くの人に共通する精神力動と言えるでしょう。

これはユング心理学の個人的無意識と集合的無意識を想起させるものがあります。すなわち、ユングの理論体系に従えば、神経症圏=個人的無意識、精神病圏=集合的無意識、という対応関係となり、個人的無意識というのはエディプスコンプレックス=父性原理による切断により発生するという理解を導き出すことができるわけです。

結語〜根源的幻想の横断と共同体感覚の獲得

さて。最後はなんだかとっ散らかった印象論を並べただけではありますが、エディプスコンプレックスと劣等コンプレックスというものが決して対立するものでないという趣旨がなんとか伝わったのであれば幸いです。

ところで精神分析が目指す分析目標は「根源的幻想の横断(ラカン)」であり、これは畢竟、「〈他者〉との分離」だといえるでしょう。

他方、アドラーの個人心理学の治療目標は「共同体感覚の獲得」であり、これはどちらかといえば「〈他者〉との調和」に重きをおいているように見受けられます。

もちろん「課題の分離」「勇気付け」を始めとするアドラーの数々の技法が日々の暮らしにも簡単に応用できる実用性に優れたものであることは言うに及ばないことですが、これだけアドラー理論が多くの共感を集めるというのは「自己責任」とか「空気を読む」ということが折に触れ強調される現代日本社会の精神病理を端的に例証しているような気がするんですよね。

そういうわけで、今年もいよいよ年の瀬、なんかあっという間でしたね。皆様におかれましてもどうか、よいよいお年を。

【関連】

しあわせ・享楽・対象 a

神託的発話としての解釈と根源的幻想の横断、あるいは「この世界の片隅に」

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2016年12月25日

エディプスコンプレックスVS劣等コンプレックス(前編)



心理療法における一般論としてですが、人の症状や問題行動は、その人に内在するコンプレックスによって引き起こされると言われます。そして、最も根源的なコンプレックスとは何かという問題について、エディプスコンプレックスと劣等コンプレックスがしばし対立的なものとして説明されます。

しかしながら両者はほんとうに「対立」しているのでしょうか?仮にそうでないのであれば両者はどのような関係に立つと言えるのでしょうか?

そういうめんどくさいわりにはあんまり需要のなさそうなテーマについて、自分なりに現時点で整理したことに基づく解釈を2回に分けて書いてみようと思ったのが本稿の着想の発端だったりします。何卒よろしくお願いします。

エディプスコンプレックス

エディプスコンプレックスとは周知の通り、精神分析の創始者、ジークムント・フロイトの「発見」によるものでして、これを定義的に述べれば「異性親への愛情と同性親への憎悪」ということになります。

フロイトは当初、ヒステリー患者の供述を真に受けて、神経症の原因は幼少期における親からの性的な誘惑体験であるとする「誘惑理論」なる説を唱えていましたが、程なくこれをあっさり放棄してしまいます。何となれば当時のウィーンでは、神経症に苦しむ若い女性が相当数に上っており、彼女たちの父親全員がペドフェリア的な性的倒錯者だと考えるというのはいくら何でも苦しい説明だと言わざるを得ないからです。

誘惑理論を放棄したフロイトは当時の親友ヴィルヘルム・フリースとの幾度とない往復書簡を通じて自己分析を重ねていった結果、自らの内奥に「母親への惚れ込みと父親への嫉妬」という秘められた感情を発見するに至ります。

そして、この感情こそ、神経症の原因を形成する「早期幼児期の一般的な出来事」だと看破したフロイトはこれをギリシア神話のエディプス王の悲劇になぞらえて「エディプスコンプレックス」と名付けました。

しかし、現代の日本社会においてエディプスコンプレックスなどと言われても、何か荒唐無稽な御伽噺を聞かされている気分になるでしょう。普通の人に対して「あなたは近親相姦ないし父殺しの願望がある」などと言い放ったところで、多分、困惑されるか、ヘタすれば怒らせてしまうかもしれません。

劣等コンプレックス

これに対してフロイトと並び称される心理学の巨峰、アルフレッド・アドラーが擁する劣等コンプレックスは遥かに解りやすく、シンプルです。

アドラーは人の根本衝動は「劣等感の補償としての優越性の追求」だと規定します。その優越性に追求の駆動された結果として形成される動線、つまり個人的な信念・世界観を「ライフスタイル」と呼びます。ライフスタイルと言うのは認知行動療法でいうところの「スキーマ」に概ね重なる概念と考えて差し支えないでしょう。

人は自らのライフスタイルを正当化し論証する「目的」で様々な症状や問題行動を起こし、またライフスタイルというプリズムを通してこの世界を「認知」する(目的論・認知論)。

つまり重要なのは、どのようなライフスタイルを形成するかという問題であり、そこでは精神分析でいう意識・無意識の区別は重要ではなく、あくまで「全体」としての個人という「主体」の在り方が問われている(全体論・主体論)。

そして、いかなるライフスタイルを形成するかといういわば「目的の原因」は畢竟、「対人関係」をどのように捉えるかにかかってくる(対人関係論)。

ここで対人関係を「縦の関係」、すなわち操作したり評価する支配関係として捉えてしまえば、歪んだライフスタイルが形成される。これがアドラーのいう劣等コンプレックスに他ならないのです。

そこでアドラー心理学では対人関係を「横の関係」、すなわち、尊敬、共感、感謝といった関係で捉える「共同体感覚」というライフスタイルの涵養が目標とされ、かかる共同体感覚を育むための援助技法を「勇気付け」と呼んでいるわけです。

精神病圏におけるエディプスの欠落

こうして並べてみると、どう考えても劣等コンプレックスの方が説明としてはスマートですよね。例の「嫌われる勇気」の空前の大ヒットを待つまでもなく、日本ではもともと「コンプレックス=劣等感」というイメージが成り立っているので、アドラーの理論は直感的に響くものがあると言えます。

しかしながら、なかなか一筋縄でいかないと言べきでしょうか。一方でエディプスコンプレックスの方がより上手く説明できるケースというのもまた確実に存在します。例えば、パラノイア(妄想性障害)という精神病は、その急性期においては精神自動症や言語性幻覚などと呼ばれる意味不明な幻聴が発生しますが、これらは多くの場合、患者が何らかの社会的責任(昇進・結婚・妊娠)を引き受けた時に発症することが臨床上、確認されています。「社会的責任を負う」とはまさに自らの父性機能(理性やセクシュラリィティ)を参照するべき場面に他なりませんが、パラノイアの場合、参照すべき父性原理がないが故に、その参照エラーが意味不明な幻聴などの形で返ってくるわけです。また、その安定期においては、よく荒唐無稽な妄想的世界観が患者の口から披瀝されることが少なくないですが、これらの妄想も父性原理の不在を自分なりに補完しようとして作り上げた代替原理ということができます。

このような症状はエディプスコンプレックスの欠落という点から初めて合理的に説明ができるでしょう。すなわちエディプスコンプレックスは精神病圏と神経症圏を分かつ重要なメルクマールであり、換言すれば、人はエディプスコンプレックスを経由することで精神病圏から神経症圏へと遷移するということです。そういう意味からいえばエディプスコンプレックスとはむしろ「引き起こされなければならないもの」といえるのです。

神経症圏と精神病圏の鑑別診断

なお、このように神経症圏と精神病圏を区別することは精神分析の臨床上も極めて実際的な問題となります。例えば精神病圏者に自由連想を施して解釈を投与した場合、父の名の参照エラーが生じ精神病的症状が発症してしまう危険があると言われており、このため通常は分析の前段階の予備面接において、精神病圏と神経症圏の鑑別診断が実施されるわけです。

ただ、誤解しないで頂きたいのは、決して精神病圏の人が神経症圏の人に比べ「劣っている」という意味ではない、ということなんですよ。これらの精神構造の相違は「優劣」ではなく、あくまでも「個性」として理解すべきものだということです。このことはどれだけ強調しても、決してし過ぎることはないでしょう。

こうしてみると、エディプスコンプレックスと劣等コンプレックスは「あれかこれか」という二項対立的な関係に立つものではないことが明らかになります。では両者はどのような関係に立つのでしょうか?

(後編に続きます)

エディプスコンプレックスVS劣等コンプレックス(後編)

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posted by かがみ at 01:30 | 心理療法